高柳誠『都市の肖像』(書肆山田)

高柳誠。はじめに思潮社の〈詩・生成〉のシリーズで読んだ『高柳誠詩集』の、アナイス・ニン「技芸の冬(『人口の冬』)」の引用が強く記憶に焼きついている。

愛すべきたたずまいのこの小さな本は、市庁舎、運河、天文台、競技場など名もないある都市の細部について、すべて見開き2ページで点描していく散文詩集。三つほど、書き出しだけ紹介したい。

動物園に集められている動物は、稀には絶滅寸前の種もいるが、ほとんどがすでに絶滅した種である。従ってその悉くが剝製や標本である。
「動物園」

書物は図書館の中にしか存在しない。と言うより、書物それ自体の原理からいって、図書館外では存在のしようもないのだ。

書物を読むには、よほど慎重にならなければならない。なぜなら、読むそばから文字は群れをなして飛び立ち、そのまま虚空に吸い込まれて消えてしまうからだ。従って、書物のほとんどは、その頁が空白になっている。
「図書館」

墓場は昼の間だけ市場になる。あるいは逆に、市場は夜の間だけ墓場になる。
「市場=墓場」

 

 

2024年、3月。

これまでもウクライナの人とは接する機会はあったのだけど、はじめてウクライナの青年を同僚に迎えて仕事をした。日本には7年住んでいる、と言っていて、その数字でウクライナ侵攻が始まる前に日本に来たのだとわかる。

それからおよそ10日後、ロシア人の知人と代々木公園でフリスビーをして遊ぶ。風が強くて、円盤を投げてもあらぬ方向に飛んで行ってしまうこともあったけど、春の訪れを感じさせる気持ちのいい快晴。思いっきり笑った。笑ったはずなのに、帰宅して辺りが闇に包まれると、数日前に見たロシア軍のミサイルがウクライナに、そうしたテレビのニュースがふたたび頭に去来してしまう。

体験のほうに言葉が追いつかない。

 たった十八篇を収めただけの小さな詩集『孔雀船』は、大きな不幸と幸に縄のようにあざなわれてきた。
 まず最初の不幸は、明治三九年(一九○六年)、はじめて世に送りだされたとき、その船出が題名のような華やかさには恵まれなかったことである。文語定型詩の旧から口語自由詩の新へ移動しはじめていた明治末期の詩の世界で、小さな詩集は忘却の海に沈められたにひとしかった。それからほぼ二十年後、あの気難しい日夏耿之介が「泣菫、有明に次ぐ個性あるスタイルの保持者」の名を熱烈に呼びかえす。それが幸いして、伊良子清白の名が多少は思いだされることになる。さらに十五年ほど経って、『孔雀船』が岩波文庫の一冊に加えられたのも、日夏耿之介による再発見の余勢のようなものだったかもしれない(私がはじめて読んだのもこの文庫版だった)。「漂泊」や「安乗の稚児」のようなアンソロジー・ピースは、こうしてそんなに数多くはないものの、熱心な読者に鍾愛される近代詩の古典の位置を占めることになる。

菅野昭正による平出隆『伊良子清白』の書評が読めるページ(ページの下の方)。『孔雀船』は大好きな詩集の一冊だけど、日夏耿之介が高く評価していたというのは先日会った知人が教えてくれるまで知らなかった。いや、自分が読んだ版も日夏が序文を寄せていたものだったかもしれず、とすると単に当時意識していなかったとか、単純に忘れてしまっていたのかもしれない。

詩の本をこのブログで紹介することはごく稀にしかできていませんが、日夏耿之介泉鏡花を好きな方は、『孔雀船』にもぜひ手を伸ばしてみてほしいです。

富士川 (略)だいたいラシュディを代表とするような小説というのが、どちらかというと魔術的リアリズムというんでしょうか、非常に強い物語性というものを中心に持っていて、そこにインドやイスラムの神話だとか伝説だとか、そういったものを結びつけていく。それからインドの現代史の動きなどをそこに描きこんでいく。特に『頁夜中の子供たち』という彼がブッカー賞を受賞して、世界的、国際的に知られるようになった作品なんですけれども、あれなんかが一つの典型例としてあるわけですね。

もう一つ後者の、いわゆるイギリス本土出身の若手の作家たちの特徴ですが、いろいろあるんだけれども、それを一言で言ってしまうと、イギリスの過去とか、あるいは歴史に対する関心というものが、彼らの作家活動の非常に中心的地位、役割を占めている。こうした二つの現象が、どこかで絡まり合いながら、ねじれ合いながら、イギリスの80年代の小説の主潮みたいなものを形づくってきているのではないか。そんな気がするのですが。

青山 いまおっしゃった、純潔と呼べるかどうかわからないけれども、とりあえず純潔のイギリス人の作家たちが過去に関心を持ってきたということなんですが、富士川さんの文章を読んできましたところでは、その過去への関心の持ち方というものは、ちょっと非常に変わったものですね。過去を遊んでいるというところがあります。

富士川 そうそう、遊んでいる。

青山 二つほど富士川さんが紹介したものを挙げますと、一つはピーター・アクロイドが、実在した作家、あるいは実在した建築家等をネタにして、ミステリーっぽい小説をつくっている。あともう一つ非常に面白かったのは、ヤング・フォーギー現象という、こういうふうな言葉で言ってしまうと誤解があるかもしれないけれども、一種の日本のレトロプームみたいな現象。

富士川 過去とか歴史との関わり合い方というのは、60年代頃まではわりあいと権威主義的に伝統論をふりかざしていくというのかな、重々しく見ていく、とらえていくという姿勢が濃厚だったのじゃないかと思うのですが、どうも80年代になって若い世代の作家たちが登場してきてから、過去に遊ぶというのかな、重々しくとらえていくのではなくて、過去と現在を自由自在に、ミックスさせたりシャフルさせたりして、そこに何か新しい、従来とは異質な文学空問を作り出していくという、そういう姿勢が、いま言われたようにアクロイドとか、あるいはバーンズとか、それにアンジェラ・カーターの『夜ことのサーカス』なんていう作品もそういう例の一つじゃないかと思いますけれども、そういった作家たちの作品の中に顕著に出てくるということがあると思いますね。

青山南・江中直紀・沼野充義富士川義之・樋口大介『世界の文学のいま』(福武書店、1991)所収の座談会、青山南・江中直紀・沼野充義富士川義之「移住者の文学」より。ここで富士川氏は、80年代になって出てきた“若い”作家たちの過去なるものを扱う手つきが、60年代頃までとは異質であることを指摘している。自分がこの発言を目にして直感的に連想したのは、昨今あたりまえのようにSNSでもみられるフィルムカメラ風に加工した写真や、あるヴィジュアルをピクセルアートに仕立て上げるようなモード(流儀)のことだった。

英文学者富士川氏のこの発言からはすでに30年以上が経過している。でも、息を吸うようにサンプリングを楽しみ、過去で遊ぶことができる感性は、表現者であれ受け手であれ、戦後生まれの多くの日本人もある程度持ち合わせているものなのではないだろうか。つまりこうした世代的特徴は、80年代だとか10年単位で区切られるものというよりも、ある世代より下以降に瀰漫しているようなものとして捉えられないだろうか、フライパンに落としたバターの白く薄いひろがりのように。

自身作詞を手がけるあいみょんですら、昭和後期から平成の流行語を多数盛り込んだ歌を歌っているくらいで、80~2000年代をミックスする感性はポップカルチャーの世界でも現在のところたまさかめずらしいわけではない。けれど大好きなマンガ、山田参助の『あれよ星屑』(エンターブレイン、全7巻)に新しい想像力をよろこばしくも感じた理由のひとつは、1940年代、死や陰惨のイメージとどうしても紐づけられてしまう終戦直後の焼け野原を舞台にしてこれだけ交響的なエンターテインメント巨編を描ききった部分にある(戦中の回想シーンも多分に含まれているが、舞台としては1940年代と要約してもさしつかえないだろう)。

過去の偉大なマンガ家の絵柄をも融通無碍にパロディ・サンプリングしているのもさることながら、時代のおおきな渦の只中にいながらも(ときに欲をむき出しにし)たくましくふてぶてしく生きていくキャラクターたちを見ていると、なんだか胸を打たれるのだ。有史以来、どんな時代だってヒトには健全で不健全な欲望とそれを満たすための娯楽が存在してきたにちがいない、なんてちょっぴり大げさな思索までしてしまう。

今日マチ子こうの史代など“若い”作家が戦争を扱った佳作にはこれまでも触れてきたが、『あれよ星屑』は文字通り未知の地平の向こうのそのまた向こうの星の屑を見せてくれる、精神的支柱のような一作になってくれた。

ジェレミーのいた空

ブラッドベリTimeless Stories for Today and Tomorrowで読んだ、ナイジェル・ニール“Jeremy in the Wind”。不可思議な淋しさと俳味がこころに永く残る、忘れがたい短篇です。いわゆる異色作家短篇系のアイデアストーリーとはどこかちがう味わいを感じました。マン島出身だとか、一時期伊藤典夫が集中的に読んでいたといったきれぎれの情報は入ってきましたが、その後単著を手に取ったわけでもなく、本国でいまも読まれているかなど気に留めたわけでもなく、そのままいつか物語のあらすじは忘れてしまいました。

数週間前、Times Literary Supplementのpodcastを聴いていたら、去年の9月の回がまるまるこの1922年生まれの作家を扱っていて驚きました。同性同名の別の作家がいるのかと思ったくらいですが、The Quatermass Experiment(1953)というSFテレビ番組の脚本で名を馳せているそうです。podcastの出演者はThe QuatermassがイギリスSF界に果たした役割は大きいと熱弁を振るっていますが、去年は70周年の上映イベントなども開かれたそうです。

また、気になりつつ読めていない本の一冊、『英国紳士、エデンへ行く』の作家マシュー・ニールがこのニールの息子だということも今回知りました。ナイジェルのほうはサマセット・モーム賞も受賞しているということで、興味がふくらんできます。

横書き詩を集成した、奥付を含めなければわずかに99ページの『山本陽子全集』2巻(漉林書房)。自分の詩的人生において屹立するあの「遙るかする、するするながらⅢ」を収める。「遙るかする、するするながらⅢ」は2000年代なかごろからネット上で引用が拡散し、定期的に話題になっているようにみえるけれど、このただ一篇で代表される詩人ではないと本書を読んで断言したい。「遙るかする、するするながらⅢ」が人類語からはなれゆく擬音を刻んで読者の聴覚に訴える側面が強いとすると、「あかり あかり」はその造形性の異質さでもって読者の視覚を撹乱する。一枚、引用の範囲と信じて写真で紹介してみたい。

これはあくまで部分なのだが、この詩人はまだワープロもない時代、既存の漢字を繰りぬいて創造した造語をこの詩に鏤めている。この全集で読む限り、「既存の漢字の部首だけを抜いた結果、全角ではなく半角のサイズになっている存在しない漢字」がみとめられるのだ。半角になったために、印刷上、奇妙な空白が存在している箇所もある。

あるいは、「僕」という一人称が用いられてジェンダーのゆらぎを感じさせるような不可思議な作品も数篇収められている。2010年代に再評価が進んだ帷子耀のように、一冊集成を出す価値があるとどこか初源の方へと叫びたい。

  遙るかする
純めみ、くるっく/くるっく/くるっくぱちり、とおとおみひらきとおり むく/ふくらみとおりながら、
わおみひらきとおり、くらっ/らっく/らっく/くらっく とおり、かいてん/りらっく/りらっく
りらっく ゆくゆく、とおりながら、あきすみの、ゆっ/ゆっ/ゆっ/ゆっ/ とおり、微っ、凝っ、/まっ/
じろ きき すき/きえ/あおあおすきとおみ とおり/しじゅんとおとおひらり/むじゅうしむすろしか
つしすいし、まわりたち 芯がく すき/つむりうち/とおり/むしゅう かぎたのしみとおりながら
たくと/ちっく/ちっく すみ、とおり、くりっ/くりっ/くりっ\とみ|とおり、さっくる/さっく
ちっく/るちっく すみ、とおりながら
純めみ、きゅっく/きゅっく/きゅっく とおとおみ、とお、とおり、繊んじゅん/繊んく
さりさげなく/まばたきなく/とおり、たすっく/すっく/すっく、とお、とおりながら
すてっく、てっく、てっく
 澄み透おり明かりめぐり、透おり明かりめぐり澄み透おり
 透おりめぐり明かり澄みめぐり、めぐり澄み明かりぐりするながら、
闇するおもざし、幕、開き、拠ち/ひかりおもざし幕開き拠ち
 響き、沈ずみ、さあっと吹き、抜けながら
 響き、ひくみ、ひくみ透おり渉り、吹く、透おり、/
 先がけ、叫び、しかける街々、とおくをわかち、しずみ、/透おり交いながら
 しずみ 、しずみ透おりひくみ、ひびき、ひくみ/つよみ透おりするながら、たえまなく
 透おり交わりするながら/ひびき透おり放ち、
 瞬たき、路おり乗するながら
夜として観護るごと、めばめき 帳ばり、ふた襞、はたはた ひらき 覆い/

 響き、/ 尽くし/吹く透おり/消え、
 しずみ、/ひくみ、/
ひびき透おり吹き
 ふためき、はたと墜として、はたり /途断え、やみ、蔽い

 吹く、吹く、吹く、おとないかぜ透おり、おとなしかぜ渉り、
 吹く、やすらぎ/すずしやぎ
りり、 りりり、りりり

夜する/ふんわり、かげろう 薄すまめぎ/口開き拠ち、
夜切り、浮きたち、ひろひろ透おり、澄み透おり透おり明かりするながら、
 絹ぎ/すき/消え/さやとおり 澄まり静まる夜する口開切り拠ち
 融け透おり/ 芯へおいて/燃やし尽くされ、消え/
 沈ずみ、充ち、放ち、高かみ、透おり交わするながら、
 清烈し静濫し/透おり
 豊かみ、ゆえみ、揺み、透おみ、たえまなく/ゆみ/とおり、まどやか/すみ/
 透おりつくし/透きみ/清み/撒き、透おり するながら
夜する口切り 透おり渉り透おり贈くるするながら

 そこ/とおり/とおり仄やか/しらめくくちなし匂おぎ
 ふっくら透おり渉り つうーん くちなし匂おき 透おり
 すうっとすずしやか/かすか/透おり渉り透おり匂いくちなし

るきっく とおり|あららぎ、あゆうーん/あゆーん/あゆーん/ゆーん ふううわーん/ふうわーん/ふわーん/ふわきりりっ
くっとおとおりりっくりき、とおおーん/とおーん\とおーん/とおん とおとおするながら
はじめてのみちするかた 情い
さらああーん さらああーん/さ、ああーん/さ、あーん
とおおーん/お、おーん、おーん やみなくくっく/ことっく/かたっく/とおとおり
こおおおん/こおおん/こおーん/おーん するながら、
すううーん/す、ううん/すうーん とおんび/とおとお/りり、りっく
たああん/た、ああーん/たあーん/たあーん りりっく、り 澄み純のめするながら

 りり、り りり、り 仄やぎ/憧れ 透おり、吹く、おとないかぜ、渉り 吹くやみしかぜ
 透おり
透おり、くぐり、りりっく、透おりするながら、
 りりり りり、り りり、り/
 さっとまろぎ、
 まろ深ぶかみ、透おり
 淡ららぎ、扇ききらり、扇ききらり、扇ききらり、あおきりしんせん充ち、すみきり
 おさららぎ すぎり、すぎりわたり透おり、
 あらたく/あらたやぎ 吹き、吹き、わたり透おりながら
すくりくけく、活づき、活づき、活づき
活づき透おり ま深ぶかみ
 遭ららぎ 扇ききり 扇ききり あふりきようじんすんなり充ち、すみきり、
 そぎららぎ 吹きとおりわたり
 あやたやぎ/あらた 透おり わたりながら
まろぎ透おり遭い交いながら
みなみなしぎ/みずみずしぎ 吹き、吹き、/吹き
あらたく/あらたやぎ 活づき 活づき/活づき
すずしやぎ/すく/すくりやぎ りりり、りりり、りりり/
遮ぎりなくしく/果てしなくしく
りりり、りりり りりり 吹く渉り透おり 吹く おさない、吹く おとないかぜ透おり吹く
おとないかぜ憧れ透おり

 とおーん/とおーん/とおん/とおとおんび 透おり りりっく/りっく くぐり 透おりするながら
吹く、渉りおさなとぎ透おり、吹くおとないしぎ透おり 吹く、おとなしぎ透おり 吹く 憧れかざかぜ透おり
りりり、りりり、りりり、りりり
くっく/くっく/くっく とおり/さ いおおーん/ふおおーん/ほおーん/おおーん
尨くらみ/むな/ふわふわり/尨くららみ、
 きらら、ぎん/すき/きらら 透おり添い/透おり添い透おり/きららっ 澄みあき/透おり
 優さしげ/柔わらかげ/憩らげ/消え きら/きらっ/きらっ/きら、澄み/きらら
 舞い/あが透おりながら、
 ひらら、ひらら/きえ/とおりたち とおり/とめ/すき/きえ/きらら
 そりとおりたち/いとけなくたちとおり/とおりたちとおり/むすうしむじゅうし
 ふうわり/ふうわり/ふうわり/ふうわり
りり り りり り りりり
 ひとつ/ひとつ、ひとつ、ひとつ 軽やけく/震るえやけく/繊やけく
 舞いちょうじ 透おり/透おり舞いちょうじきらら、きらら/ 透おりちょうじきらら舞い
 つどい透おり/きららっ緩っく緩っく察っく 舞いちょうじ 透おりながら
 きらら、きらら、きらら、透おりかい/透おりかい透おりながら、、きらららっ
 息き、/息き/息き/息ききり 舞いちょうじながら
 添い透おり/透おり添い/あが透おり消えながら、

りりり、りりり、りりり 吹く、透おり渉り透おり、吹く おさなしぎ 吹く、おとない吹くおとなしぎ 吹く
 憧れ かざしぎかぜ

 透おり、透おり
 仄やか、息き吹くる/乳白滞びる/ひろぎ、透おり交い充ち/とおくを支する街々するながら
遮えぎりなくして/果てしなくしく りりり、りりり、りりり
 澄み、透おり、たんちょうじ、拠ち/むくげ
 すらり、/すらり、すらり、
 透おりたんたん 透おり、たん/ちょうじ敏ん透おり
 むくむく/とおるく拠ち するながら、
 透おり、茫わ、茫わ/茫わ/むすうし、先すらり/すらり/すらり/あわび摩び/たん透おり、
 /たん、たん/細そめひらき、/、はなり、透おり/まぶしげ/あわげ むすう摩び
 察っとゆらき楽び透おりすらり、すらり、すらり 透おり先
 おく、とおとどき/さりさげなく/うつむきなく/透おり
 敏ん/敏ん/びん/敏ん/むくむくげ、
 ほおおーん/お、おーん/おおーん/ほおーん拠ちするながら
透おり、すらり/透き透おり/透おり透きすらり透おりひらきはなり/すらり透おり透き透おり/
あわげ/むすう/きら摩び、きらり/きらり、/きらり 先細めするながら
 さくっさく/たんちょうじ、透おり/たん/たん/たん/ひくみ透おり
 おくとおるく拠ち
 たんちょうじするながら

りりり、りりり、 渕ち さっと揚ぎ 吹き 吹き、吹き/憧れ透おり/ 吹く、吹く、吹く透おり渉り透おり吹く、おさなしおとなし かざ透おり おとなしかぜ
りりり、りりり、りりり

 瞼か/透おし 澄みめ純みめ/おく、とおとおく/透おし
 刷っとまみえだち、おうるみ 泊だち ひっこみ/ひっこみ 敏いいーん 透おするながら
ぽおおろろーん/ぽおおろろーん/ぽおろろん/ぽおろん/ぽおーん
ひくみ/ひくみ/ひくみ かなでを つづり、透おり
 親し/推し たん/たん/たん 透おり、むくむく/りりっく たんちょうじするながら、透おり
とおくを わかち/しずみ、りんりんひびきひくみ、透おり交い真するながら
 息吹く、息吹く 先がけ
 たえまなくひびき透おり、交わし/透おり ひびき、つよみ、放ち
しずみ しずみ ひくみ ひくみ つよみ透おりしずみ
ひびき、 そっと揺み透おり、うち顫るるえ しずみ ―― 渉り
渕ちより おくおもむきおくぶかみ、先拠って/孤し赴き汲み降するながらの むくむぐ/むーん
/先拠ちするながら
創り為しときしする 渕ち/はじまり、透おり くぐり、やすみなく、くぐり先拠ちするながら
越え創りなし、越え/ときしなする越え/想いするながらの ときしなするおわり
 まばたきなく/とびたつことなく
 えぴぐらむ さりさげなく/すうっとすき/とどききえ/とおり
 えぴぐらむ ひくみ/ひくみ つくしんぼおるく ひくみ 声ねに 烈しみ/はにかみ/澄み
 おくとくるくするながら、/
茫っ/茫っ/茫っ 摩び透おり 先すらり/透おり透おりすらりら先/ごくあわげ/あらぎ/
あわ、あわけ、察っ察っ透おり/察っ透おり/先震れ微っ/微っ/先透おり/ かんしょくし/
かんそくし/透っり 拠ち
 さわさわこぎ 息づき そよぐ森、くねり・施めき 白路する森 さわさわ透おり走り交り裡ち森

びゆゆーん/びゆゆーん/びゅーん/ゆん 匂ぎ ふっききり 渉りれ吹透おり吹く/吹くおとなし
かぜさわしぎかざあられ透おり
 あおきりしくせんすみきり充ち あふりきょうじんあわあわ充ち/すんなり
 攫っとえぴぐらむ/かぜかざ透おり ひくみ/ひくみ/ひくみ尽く/し/
えぴぐらむ つくざり透おり/ぴくりあららぎ/膨くらみ/澄み純みめるらきくとおとおく/し
かいてんつづり はじめするながら/
 とどき・きえ/とおおくうく/瞼かく/きき/とおりいりとおり
瞼か/おくとおとおく情い (/) たんちょうじ拠ち 先細めひらきすらり/すらり/あわげするながら
きっぱり //むくぐ
さいごのげんじさぬ ひくみ ひくみ ひくみ 透おしするながら

鵠じ担い走り続け/はじめるながら/先拠って
情い先拠ち
彷/精気、透おり<声ぬ> 初源彷

山本陽子「遙るかする、するするながらⅢ」(『山本陽子全集』2巻、漉林書房)

 

Why they'd set the meetings up in Monfalcone he couldn't understand. True, it was closer to the site, and they'd put him in a charming hotel on the corniche -a long road virtually at the sea's edge, so gently curved it could almost be straight, right across the top of the Adriatic, all the way to Trieste. But the area appeared empty and spiritless at this time between seasons, not to say windy, and left him with little to do but look inward. No problem normally, he tended to enjoy his own company, but he was in one of those flat places in life, listless.

Perhaps it was just the eight days of negotiations. And the uncertain weather. Some days, advanced as the spring supposedly was -it was the twenty-fourth of May already -seemed to look back toward winter, others only tentatively toward summer, and none of them with much conviction, so that you didn’t really know what to do with them. Yesterday morning, from the hotel, he’d watched Robbie, proprietor of the trattoria next door, come out and look at the pale sunshine, roll back his awning with a long crank-handle, then bring just the one table onto the pavement, putting an umbrella into the centre but leaving it furled. An announcement that it was time for the Season to begin. Or perhaps just a plea. As yet, so far as he could tell, no one had sat down there. Maybe today Robbie'd be luckier. It was warmer, the warmest day so far. Emilio at Reception was saying that it was going to be the first real day of summer, twenty-six degrees. The first real day of summer: when was that? The solstice? Weeks away.
――David Brooks Conversation

 

21世紀の残雪、のための

幻視の起爆力をそなえた唯一無二の作家、残雪。この短文では主にその評価の変容について、限られた知識しか持たない筆者なりに追ってみたい。

・ふたつの世紀をまたいで

日本で『蒼老たる浮雲』の単行本が河出書房新社から刊行されたのは1989年。1980~90年代において、一般の読書子の間で残雪の知名度は高かったとは決して言えないだろう。

海外小説事情に精通している筆者の知人によると、残雪は中国での評価よりも欧米での評価が早かったという。多数の残雪作品の翻訳を手がけた故・近藤直子氏が作成した著作リスト*1をみると、確かにこのようにある。

1     1987年     黃泥街     圓神出版社     台湾
2     1988年     天堂里的对话     作家出版社     
3     1989年     蒼老たる浮雲     河出書房新社      (日)
4     1989年     Dialogues in Paradise     Northwestern University Press     (米)
5     1990年     突圍表演     青文書屋     香港
6     1990年     突围表演     上海文艺出版社     
7     1990年     種在走廊上的蘋果樹     遠景出版社     台湾
8     1991年     カッコウが鳴くあの一瞬     河出書房新社     (日)
9     1991年     Dialoghi in Cielo     Edizioni Theoria     (伊)
10     1991年     Dialogues en Paradis     Gallimard     (仏)
11     1991年     Old Folating Cloud     Northwestern University Press     (米)
12     1992年     黄泥街     河出書房新社     (日)
13     1994年     思想汇报     湖南文艺出版社     
14     1995年     廊下に植えた林檎の木     河出書房新社     (日)
15     1995年     辉煌的日子     河北教育出版社     
16     1996年     黄泥街     长江文艺出版社     
17     1996年     Dialoge im Paradies     Ruhr-Universität Bochum     (独)
18     1997年     The Embroidered Shoes     Henry Holt and Company     (米)
19     1997年     突囲表演     文芸春秋     (日)
20     1998年     残雪文集(四卷)     湖南文艺出版社     
21     1999年     灵魂的城堡-理解卡夫卡     上海文艺出版社     
22     1999年     2000年文庫、殘雪卷     明報出版社     香港

1980~90年代の期間にすでにアメリカ、フランス、ドイツ、イタリア、台湾、香港などで翻訳が進んでいるのに対し、後述する「シティロード」90年のインタビューでは、作家自身が中国国内では評価が芳しくないという趣旨の発言をしている。またこの時期、日本の小説家が残雪の本を書評しているとか、影響を受けたなどと発言しているのを筆者はほとんど見たことがない。『世界×現在×文学 作家ファイル』(国書刊行会)、『世界の幻想文学総解説』(自由国民社)などにおいて近藤直子は残雪の紹介を担当しているが、後述する四方田犬彦中条省平など、海外文学の最新の動向に繊細な文学者による言及のほうがこの時期は目立つようにみえる。

決定的な何かをいつから、というかたちで触知できるわけではないが、そうした状況が21世紀に入ってから着実に変化を始める。

国内では『暗夜』が池澤夏樹=個人編集 世界文学全集に収録され(2010年)、新潮社の雑誌「考える人」が2008年に組んだ「海外の長篇小説ベスト100」特集内、「私の「海外の長篇小説ベスト10」」アンケートでは複数の評者が残雪の長編をベスト10以内に選出。海外に目を転じるとアメリカでは権威あるノイシュタット国際文学賞に2016年にノミネート。ブッカー賞の翻訳部門として2005年に創設された国際ブッカー賞の候補作リストにも、2010年代後半以降一度ならずその名が登場する。近年では、ノーベル文学賞の有力候補としても名が挙がる。

これも筆者の観測範囲に過ぎないが、2000年代前半以降のほうが、紙媒体あるいはネット上で、国内の書き手が残雪に言及する機会が増えているように感じられる。古谷利裕*2、牧眞司*3、酉島伝法*4、谷崎由依*5、朝日新聞の書評で『最後の恋人』を取り上げた佐々木敦*6……プロの書き手に限っても到底この小文でまとめきれるものではない。ネット上でも少なくない数の海外文学のファンが残雪に言及しているのを見つけることができるが、シーンとしての中国現代文学フォロワーでなくても、「面白い文学ならば国を問わず何でも」という貪欲な読者同士の情報交換を、インターネットという比較的新しい媒体が後押しているというのは否定できないのではないか。

2018年以降には国書刊行会で「文学の冒険」シリーズにも携わった藤原編集室の仕事で、絶版だったいくつもの作品が白水uブックス(新書版)で復刊されることになる。清潔感のある白い装幀と小ぶりな造本があらたな読者を引き寄せる契機となるのであればよろこばしい。

・残雪の創作作法と評論

本来、このようなトピックを論じるのは筆者の手にあまるものだが、「残雪研究」8号の「近藤直子著訳一覧」からも洩れている鮮烈なインタビュー記事を以前発見したので、ここで紹介してみたい。媒体は「シティロード」90年10月号、聞き手は桂千穂、通訳は近藤直子とクレジットされている。国内での残雪関連での記事では最初期に属すると言っていいだろう。

近作はまた長いものを書きまして、600枚ぐらいになると思うのですが、私は北京に行きまして友達の家でだいぶ書いたのですが、書き上げた時、その友達は「おかしいな、書いてるところなんか一度も見てなかったのにな」と言いまして(笑)。書く時間が異常に短いのです。私はだいたい1日に1時間くらいしか書かないのです。長くとも1時間半から2時間くらいで、それも事前に考えておくわけではなく、そこに座ってすぐに書き始めるという方法です。(略)要するに私は座れば必ず出てくるのです。けっして一挙にワッと出てくるというわけではないのですが、とにかく座って書こうとすれば出てくるたちですので。

大学時代、父親の蔵書から偶然この記事をみつけた筆者は、著者のあの作品群は、友達の家に遊びに行った時のスキマ時間にスラスラ書かれてしまう類のものなのか!と驚嘆したものだった。

なお、いつかありうべき「残雪邦訳書誌一覧」と相当数オーバーラップすると思われる「近藤直子著訳一覧」(「残雪研究」8号)を参照すると、「現代中国文学」のような少部数発行の雑誌に相当な数の短篇が訳出されていることがわかる。この文章を書いている2023年現在、「残雪研究」8号はFacebook上のページを通して注文できるので、ご関心がある方はチェックしてみてはいかがだろうか。この雑誌にも単行本未収録の短篇や評論が数多く訳出されている。

いまだ全貌が明らかになっていない残雪の側面のひとつは、その評論だろう。近藤直子氏の作成したサイト「現代中国文学小屋」には、ある程度の分量の評論が公開されている。*7筆者が判断するに、これは一般的な意味での文芸批評ではない。ただでさえ抽象度の高い書き手が、自身を追い込みながら独自の形而上学を展開させていく凄絶な肉の散文。その文章は自然、どこをみても徹底して断言のかたちを取らざるをえない。

魂の文学の書き手は、後へは退けない「内へ内へ」の筆遣いで、あの神秘の王国の階層を一層また一層と開示し、人の感覚を牽引して、あの美しい見事な構造へ、あの古い混沌の内核へとわけ入り、底知れない人間性の本質目指して休みなく突進していく。およそ認識されたことは、均しく精緻な対称構造を呈するが、それはもう一度混沌を目指して突撃するためでしかない。精神に死がないように、その過程にも終わりはない。書くことも、読むことも同様である。必要なのは、解放された生命力である。人類の精神の領域に、最下層の冥府の所に、たしかにそういう長い歴史の河が存在している。深みに隠れているせいで、人が気づくのは難しいけれど。それが真の歴史となったのは、無数の先輩たちの努力が一度また一度とその河水をかきたて、何年たっても変わらずに静かに流れ続けるようにしてくれたおかげだ。これはまるで神話のように聞こえるが、もしかしたら、魂の文学とはそういう神話に他ならないのかもしれない。それは不断に消え失せては、不断に現れる伝説であり、人間の中の永遠に治癒することのない痛みでもある。個人についていえば、魂の書き手の苦痛は、おのれの苦痛を証明できないことにある。彼は一篇また一篇の作品によってその苦痛を刷新するしかなく、それが彼の唯一の証明なのだ。こういう奇妙な方式のせいで、永遠に破られることのない憂鬱が彼ら共通の特徴となっているが、その黒く重い憂鬱こそ、まさに芸術史の長い河を流れる活水の源なのである。たゆみない個体がこうして内へ掘り進む仕事に励むとき、彼らの成果は例外なく、あの永遠の生命の河へと合流する。なぜなら歴史はもともと彼ら自身のものであったし、彼らがいたからこそ、歴史が存在し得たのだ。教科書の上の歴史と並行するこういう魂の歴史は、もっとも鋭敏な少数の個人によって書かれる。だが、その歴史との疎通し、通い合いは、すべての普通の人に起こりうる。これはもっとも普遍性を備えた歴史であって、読み手は身分、地位、人種の制限を受けない。必要なのはただ、魂の渇きだけである。

ボルヘスカルヴィーノらを論じた「精神の階層」という文章のほんの一部分だが、残雪の作品について、気になっているけれど本格的には読んでいないという向きも、このサイトを先にチェックすることを強くおすすめしたい。

・中国文学研究者以外の研究者が読む残雪

こうした項目を立てているのは、残雪を中国語圏に限らず、ほかの海外文学の流れとの関係において思索してみたいという理由による。

残雪の才能にいち早く気づき普及にひと役買っていた存在として、第一に「(既存の文学・文化研究においては)アジアも、女性も、映像も抜け落ちていた*8」という問題意識を持ち合わせて精力的に活動をしてきた四方田犬彦に注目してみたい。

残雪の掌編「荒野より」も掲載された89年の「ユリイカ」「特集:中国文学の現在」。本特集の翻訳作品選定にまでかかわったという形跡まではみられないものの、刈間文俊との対談で『蒼老たる浮雲』について早くも言及。「来たるべき作家たち 海外作家の仕事場1998」(新潮社、1998)というムックでは、「海外小説・ノンフィクション この10年、私の3冊」というアンケート企画が組まれている。この中でも3冊の中にこそ入ってはいないものの、コメント部分では残雪を入れるか迷ったとの記述がある。しかし、回答者がこれだけいる中で、アジアの文学を選出ないし言及しているのが四方田氏含めてふたりしかいないというのは時代を感じずにはいられない。

岩波書店の海外文学アンソロジー『世界文学のフロンティア』、その「夢のかけら」の巻(1997年)には秀作「かつて描かれたことのない境地」が収録されているが、これには編者の四方田氏、および後述する沼野充義の好みが反映されていると推察できる。なお、『黄泥街』のラスト1ページには「夢のかけら」という言葉が非常に印象的なありようで登場する。「響きと怒り」などほかのいくつかの巻も特定の作品の引用であるという事実を考慮すると、この巻のタイトルは案外残雪の第一長篇のフレーズから来ているのかもしれない。

第二に、つい最近の退官まで東京大学の現代文芸論研究室を牽引し、単なる一地域の文学研究者の枠をはるかに超えた活動を行ってきたスラブ文学研究者の沼野充義にも注目をしたい。氏は松永美穂阿部公彦、読売新聞文化部との共編『文庫で読む100年の文学』(中公文庫、2023)の座談会において、「世界に出して遜色のない作家」として残雪に言及。それに先行する2019年、「三田文学」の「特集:世界SFの透視図」座談会(氏のほかに巽孝之、立原透耶、新島進識名章喜が参加)では、「中国現代文学にはいわゆる純文学畑の、莫言、閻連科、残雪がいるじゃないですか。この人たちはSFとは言えないにしても、強烈な非リアリズムの小説を書いている。彼らのSFに対する態度はどうなんですか。純文学作家とSF作家の交流はありますか」という少年のように純真な質問を立原氏に投げかけてもいる。この質問に対する立原氏の回答も、中国における(SF)作家のSF観が窺える興味深いものとなっているので、一読をおすすめしたい。

・なぜいま、残雪か

21世紀も5分の1が過ぎたいま、多くの国々において女性作家の躍進のめざましさはあきらかなものとなっている。

書籍の販売部数を推定するサービスであるNPDブックスキャンによると、アメリカでは2019年、女性作家の作品がliterary fiction上位100位の売り上げのほぼ7割を占めた*9。また、The New York Times誌が2020年に選出した「注目すべき本100」リスト中、100冊のうち11冊が翻訳書、そのうち4冊は日本の女性作家の作品だった。『殺人出産』のようなモラルを無化して宙を走る作品を執筆する村田沙耶香のような作家と、残雪とのうちに同時代的な想像力を見出す視点も今後有効になりうるかもしれない。とまれ、中国のこの異才がアジアの現代女性作家の多様さを示す一例になることまでは間違いないと筆者はみている。まだ邦訳はないものの、『呂芳詩小姐』『新世紀愛情故事』など、仮に刊行されれば400ページを優に超えるサイズになるはずの長篇を2010年代以降エネルギッシュに書き継いでいるようだ。

2004年に原著が発表された『最後の恋人』を繙けば諒解されるように、残雪の作品は「西洋の読者にとっての中国らしさ」というようなエギゾティシズムにその求心力を頼るものでもなければ、筋の要約を易しく(優しく)受け入れる物語でもない。その存在感を無限に増す大いなる謎として、時代の混迷をも幽鬼のように貪りかつは糧としながら、これからも優美に疾走していくことだろう。

*1サイト「現代中国文学小屋」は、近藤氏が亡くなってからしばらくして消失したが、遺族が当時のままのかたちで復刻したものが近年になって公開されている。http://kondonaoko.web.fc2.com/siryou5cxbook.htm
*2画家、評論家の古谷利裕は、2008年の10月に近藤直子とのトークイベントを行った。「偽日記@はてなブログ」2008年9月~10月に、残雪についての多くの記事がある。 https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/
*3「SFマガジン」2014年5月号の海外文学書評欄ほか。
*4下記インタビュー参照。https://weirdfictionreview.com/2018/04/sisyphean-interview-weird-scifi-author-dempow-torishima/
*5谷崎由依「異国の、懐かしい景色」(「三田文学」2013年冬季号「特集:現代中国文学のパワー」)
*6 2014年4月20日朝⽇新聞掲載。https://book.asahi.com/article/11615707
*7http://kondonaoko.web.fc2.com/sub2.htm
*8巽孝之『想い出のブックカフェ』(研究社)における対談を参照。
*9The NPD Groupは企業向けに様々な業界情報を提供している調査会社。毎年このようなジェンダー比を元にしたデータを公表しているわけではないため、この原稿では2019年のデータを用いている。このデータと英語圏における日本文学の受容との関連は、辛島デイヴィッド『文芸ピープル』(講談社、2021)からも多くの知見が得られる。
(この小文を執筆するにあたっては、近藤直子氏の遺族から「現代中国文学小屋」内「残雪著書・訳書目録」の転載、および「精神の階層」を引用する許可をいただきました。感謝申し上げます)

初出:「カモガワGブックスVol.4 特集:世界文学/奇想短編」
※許可を得たうえで自分の文章を再掲載しています

 

アップダイクのエッセイ集More Matterより、アメリカ小説におけるユーモアの変遷について述べた文章(邦訳があるかは不明)。

Secondly, the humor of Benchley and Thurber assumed a kind of generic American experience—white, Protestant, male, bourgeois, basically genteel, timid, and well intentioned—that can no longer be assumed. Much of what used to be considered funny would now seem classist, sexist, and racist, in ascending order of unfunniness. Humor draws on stereotypes, and where “stereotype” is a dirty word, the humorist will find himself washing his hands too often.

これが書かれたのは数十年前だけど、アイデンティティ・ポリティクスなる語がよく聞かれる現在、where “stereotype” is a dirty word, the humorist will find himself washing his hands too oftenという傾向はいまはさらに強まっているのではないか。どうあっても、筒井康隆の「アフリカの爆弾」をいま書くことはできない。

マサチューセッツ工科大学出版局から2023年の10月に刊行されたJ・G・バラードの批評集、Selected Nonfiction, 1962-2007。Facebook上のグループ「J.G. Ballard」のDavid Pringleによる書き込みによると、およそ半数の文章は『千年王国ユーザーズガイド』と重複しているが、残りはこの本であらたに読めるものだそうです。なお、この四千人以上を擁するグループですが、バラードの翻訳もある国領昭彦氏なども英語で書き込みをおこなっています。

※記事の性格上、筆者が読んでいない本も(情けないハナシですが…)取り上げています

すぐれた選書とシックで上品な内装、すさまじい数のイベントで知られる台湾を代表する大型書店、誠品書店。この書店が毎月刊行している「書店誌」が「提案on the desk」だ。紙のものは各店舗で無料で頒布しているが、台湾に行かなくとも誠品書店のサイト、およびissueのサイト*1でバックナンバーを含め閲覧することができる。

赤松美和子、若松大祐編『台湾を知るための60章』(明石書店)によると、台湾の出版界では、(英語などではなく)日本語が翻訳点数第1位の言語となっている。*2あたかもこのデータを反映するかのように、「提案on the desk」では新刊旧刊両方ともに毎月驚くほど多くの日本の本(未訳含む)が紹介されている。そして、「精選は新鮮」とでも言い放つかのように、ベストセラー紹介だけに傾くことなく書店員のセンスと情熱が全面に押し出された誌面づくりになっている。

2023年4月の特集、「圖像世界不思議」。「探索!圖像幻想地」というセクションでは五十嵐大介『はなしっぱなし』、逆柱いみり『はたらくカッパ』、松本大洋メビウスなどの作品が、「発現!故事夢奇地」というセクションでは「無字的想像、圖與圖會講故事(こころみに英訳するとwordless imagination, a series of pictures can tell a storyという感じか?)」という小見出しとともにデヴィッド・ウィーズナーらの絵本が紹介されている。逆柱いみり繁体字だと「逆柱意味裂」というナンセンス度の昂まる表記になるのがすこぶる面白い。*3また、Editor’s Choiceのコーナーではまるまる1ページを用いてニール・スティーヴンスンのSF長編『スノウ・クラッシュ』が取り上げられている。

解像度を下げたうえで、一枚だけ引用をさせていただく。

さかのぼって2021年3月号で書影つきで紹介されている本を無造作にピックアップしてみると――伊丹十三『ヨーロッパ日記』、加藤周一『羊の歌』、吉野源三郎君たちはどう生きるか』(ジブリによる映画化前)、竹下文子の絵本、岡倉天心茶の本』、柳宗悦『茶と美』などなど。これらは未訳ではなく、すべて実際に訳された本である。恥ずかしいくらい日本語ネイティブの自分のほうが読んでいない!岩波新書講談社学術文庫のクラシックすら訳されているというのは、はたして欧米ではみられるような現象なのだろうか…?また、monthly recommendationの項ではまるまる1ページを用いて細野晴臣の3枚のアルバムが取り上げられている。

2018年12月に台北の店舗を実訪した際は、四方田犬彦ラブレーの子どもたち』がエッセイのセクションで面陳されていたり、小松左京やら竹中直人やらについての連日のトークショーのお知らせが告知されていたりした。内沼晋太郎+綾女欣伸『本の未来を探す旅 台北』(朝日出版)のインタビューによると、誠品書店では店舗全体で年間5000ものイベントが開かれているという。もちろん、そのうちのすべてがトークショーというわけではないし、さらにそのうちのどれだけが日本文化についてのものであるか筆者はデータを所持していない。それでも、やはり「熱気」という言葉をつい使ってみたくなる。

川本三郎は2010年代、ある場所で自分のエッセイ集が台湾で訳されることに戸惑い――自分の本を訳しても東京の地名など台湾の読者に理解してもらえるのか――すら表明していたが、それどころではない、日本の随筆や批評まで熱心に読まれているというのはため息をつくばかり。いや、これが仮に川本三郎ひとりであれば藤井省三が『村上春樹のなかの中国』でも示唆する通り、村上春樹人気との関連でたやすく理解しうるかもしれない。しかし、最大級のオンライン書店である博客來をちょっとのぞいて検索窓に四方田氏の名前を打つだけでも、『モロッコ流謫』『摩滅の賦』『ハイスクール1968』『李香蘭原節子』『ゴダールと女たち』『日本の書物への感謝』などなどの本がすでに繁体字で翻訳されていることがわかる。「伊藤整文学賞(引用者註:評論部門)」「講談社散文賞(講談社エッセイ賞)」の文句が表紙に躍る本もあるが、今のところ英語圏ではこうした文句をセールスポイントとして打ち出せるほどの市場は育っていないのではないだろうか。

この記事、気が向いたら続きます。

* 1 issue.com内のサイト(https://issuu.com/onthedesk)では2013年以降のバックナンバーをすべて無料で閲覧できる。
*2この話題を含む章はこの本の増補ないしアップデート版と考えられる赤松美和子、若松大祐編『台湾を知るための72章 第2版』(明石書店、2022)には収録されていないので、2014年のデータに基づいている。
*3 逆柱いみりは2009年にフランス語訳が刊行されているが、英語版は自分が調べた限りではいまのところ刊行されていない。

今、私は1933年に刊行された同人誌『文學(5号)』を開いている。たまたま立ち寄った鎌倉の古本屋で購入してきた。『詩と詩論』の後継誌として春山行夫が取りまとめた同誌には春山以外に安西冬衛北園克衛竹中郁西脇順三郎、瀧口修三などの面々が詩やエッセイ、評論、翻訳を寄せており、それらの生き生きとした調べに彼らが現代のこの瞬間を動き回っているような気がして、ふと目を上げる時もある。肉のように厚みのある、ほどけそうな紙面を漂う緊張感とは裏腹に、深々と印刷されている内容は日本に迫っている戦争の足音を微塵とも感じさせない、日欧米の柔らかな作品群や写真・絵である。
(略) 
彼らの文章を読んでいる内に、私が長い米国生活の中で親しみ、私の詩作の一つの源流となった米国詩の現在について書いてみたくなった。日本の現代詩は米国詩とT・S・エリオットやパウンド、ゲーリー・スナイダーを通じて繋がっているものの、彼ら以外の米国詩人の作品は(特に若い詩人の間では)幅広く読み込まれて来ていないのが実感である。しかし、この“ひとつの”世界の中で、米国で一篇の良い詩が書かれる事は、例え直に接点が無くとも、日本で書かれる作品の文脈的な位置付けを暗に変えてしまう出来事だ。逆もまた然りである。日本の詩人も米国の詩人も互いから無垢ではいられない。日本の現代詩をより“自意識的”に理解していく上でも、米国自由詩の領域における特徴的な動きを見ていきたい。
 まずは米国にて活動中の詩人が織りなす詩の現場を俯瞰したい。
 現在、ジョン・アシュベリ(John Ashbery)やビリー・コリンズ(Billy Collins)の詩が特に広く読まれている。スナイダーもビート世代の代表的な詩人として幅広い読者層を有している。
 また、アイオワ州の詩人テッド・クーザー(Ted Kooser)やセルビア系米国人のチャールズ・シミック(Charles Simic)も健在だ。ドナルド・ホール(Donald Hall)、ルイーズ・グラック(Louise Glück)、リチャード・ウィルバー(Richard Wilbur)、シャロン・オールズ(Sharon Olds)等が活発に動いている。
 少し世代が変わるが自らのエスニシティを前面に出したゲーリー・ソト(Gary Soto)やリタ・ダヴ(Rita Dove)、ベトナム退役軍人のユーセフ・コマンヤーカ(Yusef Komunyakaa)等の詩人も確固たる読者層の支持を得ている。1970年以降に生まれた若手だとトレイシー・K・スミス(Tracy K. Smith)やタオ・リン(Tao Lin)に勢いがある。
 米国の詩が置かれている状況を理解する上で特筆すべきは、詩壇に対する評論家の影響力の強さである。イェール大学のハロルド・ブルーム(Harold Bloom)を筆頭に、詩を学問の対象として日々研究している評論家が多くの大学におり、彼らによる評価が個々の詩人にとって無視の出来ないものとなっている。
 ブルームは“西洋文学系譜”(Western Canon)という概念の旗手として、ギリシャからローマを通り、中東に立ち寄った後に欧州に戻り、米国まで行き着いた西洋文学の流れに照らして現代の米国詩人を理解しようとする。ブルームによれば、西洋の詩の歴史を辿っていくと、どの時代に書かれた詩も先駆者の作品の模倣に過ぎない。ただ、模倣の過程で先駆者の作品の“誤読”が発生し、その“誤読”が新しい作品に独自性を与え、詩の形式の発展に繋がって来た、と指摘する。全ての詩は過去の西洋の古典との文脈的な繋がりを断ち切れないという理解が“西洋文学系譜”の基本的な姿勢となっている。(「詩客」自由詩時評第119回)

佐峰存がウェブで発表している詩の時評より、アメリカ現代詩の状況について語っている回。

この文章は掲載からちょうど10年が経っているのだけど、それでもすごく興味深い。こういう風に、それぞれの国の詩について専門的な知識を持っている書き手が、もっともっと現況(picture)について語ってほしい。

鈴木賢『台湾同性婚法の誕生  アジアLGBTQ+燈台への歴程』(日本評論社、2022)。これと赤松美和子、若松大祐編『台湾を知るための72章 第2版』(明石書店)をあわせて読むだけでも、台湾における同性婚合法化へのけして平坦ではなかった道のりが視えてくる。

自分がまったく知らなかったのは、同性婚をめぐる2018年の国民投票では同性婚推進派が大きな差をつけられて敗北していたこと(たとえば、「民法婚姻を男女に限定」の項目では766万対291万で同意票が上回っていた)。また、反対派のネガティブキャンペーンのための広告費は日本円で4億円を超えていたと推察され、同性愛はエイズ、およびそれがもたらす死の原因になるという安直な物語仕立てのCMがテレビではくり返し放送された(海外のキリスト教関係の団体から資金援助があった可能性も示唆されている)。また、『台湾を知るための72章 第2版』「性的少数派」の項目では、女性初の総統・蔡英文が「開明的」な法律学者を「日本の最高裁判所判事のような憲法解釈する職能」を持つ司法院大法官に指名したことが同性婚婚姻平等に間接的に影響をあたえたとはっきり書いている。少なくともひとつ判断できるのは、2018年において台湾一般市民のマジョリティが同性婚に対して寛大だったわけではなかったということだろう。