ひとつの本を読みながらこころは「いま、ここ」を離れて同じ作家のむかしの本に向かっている。響き、におい、温度、そういったものを思い出しながら目の前の一冊とそれとなく比較している。思考している。あるいはべつの作家の作品が、錆びついた記憶の井戸の底から急に浮上して、はっと意識される。さらにあるいは存在する本を読みながら存在しない本を夢想する。まだ書かれたことのない、あの作家この作家だれでもない作家の最高傑作。

佐々木マキ『HELP!』(トムズボックス)はもともと期待値が低いまま手にとったが、やはり『佐々木マキ作品集』(青林堂)が産み落とした小さな子供のような印象を受けた。数ページ読んで直感して、あとは頭の中にある『佐々木マキ作品集』のエッセンスをすこしでも再生しようという読書に切り替わる。

佐々木マキ作品集』は素晴らしかった。「素晴らしい」という文字のように天候の晴れた心地のする稀少な体験。読み終わってしばらくは目の良さと光の感度が150パーセントになって頭も冴えるので、部屋から外に飛び出したくなる。外に出てぼくだけの言語で叫ぶ。ことを想像する。

かれの初期のマンガは「どこでもない光景」の愉快な紙芝居だ。あまりにも奇妙な状況の描かれた開幕の意味を読者が考えるひまもなく、かれはもっともっと変な絵をひきつづいて連射してくる。その光景は奇妙といっても、逆柱いみりのような夢魔の犇めく濡れた市街図とは異なる。物語にはつながっていかない。どこまでも絵だと思う。ことば本来の意味での「漫画」の伝統。西洋的なるポップアートの血。そういったものを感じさせる。なんでもないさまざまな空間にレモン爆弾をつぎつぎに置き残しては去っていく、ひとりの風のような絵描きの姿が脳裏に閃く。そしてなによりここには前衛の熱さがある。時代も関係しているのだろう、ページから掌にかあぁぁっ、と伝わってくる。そのかあぁぁっ、は今の時代のマンガだとなかなか得難いものなので、ぜひ多くのひとに知ってもらいたい。とうとうつりたくにこまで復刊してくれた青林工藝舎ならやってくれるのではないか、という期待を打ち消せない。打ち消そうとしても飛び跳ねる期待にほとんど困ってしまう。

というわけで、マンガの話なのだった。あ、トムズボックスはいろいろ面白い本を出していますよ、と最後にフォローをさせてもらおう。