〈東方幻想〉の作家たち(に向けてのノート)

たったいま仮にタイトルに付した「〈東方幻想〉の作家たち」という言葉を目にして、あなたならどんな作家や具体的作品を思い浮かべるだろうか。たとえばユルスナールの『東方綺譚』やカルヴィーノの『見えない都市』といった作品なら、たしかな数の日本の読者、さらには作家にまで暖かく迎えられているように感じられる。いや、「西洋人が東洋を舞台にして書いた超自然の要素を持つ小説」というだけなら、数え上げるのがほとんど無意味に感じられるまでに多く存在する。

むしろ今日この記事で取り上げたいのは、固有名詞としての〈東方幻想〉の作家たちなのだ。ラテンアメリカ文学の〈ブーム〉の作家たち、というときと、日本におけるラテンアメリカ文学の翻訳ブーム、というときとでは「ブーム」という語の意味は異なるように、ある時期、ある雑誌、ある叢書に作品が凝集した作家たちの一団を中心にこれを考えてみたい。すなわち、1920~30年代の〈ウィアード・テールズ〉に寄稿していた、あるいは寄稿していなくても、何らかの点でその周囲の文化圏との親しさが認められるような英語圏の作家たちである。

当時の〈ウィアード・テールズ〉では、フランク・オウエンを売るのに「オリエンタル・ファンタジー(東方幻想小説、東洋幻想譚)」という惹句が用いられた。ひょっとしたらこれは当時の編集者が適当に思いついてその場でつけたフレーズで、当時からわずかな影響力しか持っていなかったかもしれない。ドナルド・コーリイやアーネスト・ブラマは、1960 年代後半~70年代前半まで続いたリン・カーター編の伝説的ファンタジー叢書〈Ballantine Adult Fantasy〉にてカーターによって再発掘されようとしたが、その時すでに彼らは「discovery」さるべき「忘れられた作家」として扱われていた。ともあれ、1920~30年代のジャンル文芸誌とリン・カーターによる再評価の視線をともに足場にすることで、英語圏における〈東方幻想〉の作家たちという文化圏を想定してみることは十分に可能なのだと言えると思う。

…などと語りつつ、のっけから恐縮だが、自分自身は以下にあげる作家の作品をわずか一作しか読んでいない場合もある。彼らは長編を書いておらず短編作家で、また邦訳そのものがそもそも一篇しかなかったりする。それでもこうして紹介をしたためるのは、やはり興味を持ってくれるかもしれない人のことを思ってだと思う(そして、なにより自分がもっと読んでみたい!)。時おりしも、アメリカ文学の埋もれた巨星、ジェイムズ・ブランチ・キャベルの長編の刊行が進んでいるが、これから詳述するコーリイの作品集に序文を付しているのがこのキャベルである。ジェイムズ・ブランチ・キャベル、A・E・コッパード、ヴァーノン・リーといった英語圏小説史に煌めく宝石の数々に、さらに彩りを添えるものが近く登場することを期待したい。

・ドナルド・コーリイ

・「金色の嘴の鳥」(「ミステリマガジン」91年8月号)

現時点で唯一邦訳されているコーリイの作品(翻訳は山崎淳)。アジアの一地域とおぼしきキルザンは大公によって支配されているが、その宮殿の紫瓦の屋根からは白い百合が花を咲かすように無数の細身の塔が伸びている。鶴、鵜、太陽鳥、今は孔雀と呼ばれているタキイム、臆病なセラヴ、高麗鶯、鵬(ロック)……遠い北の土地から、はるけき南の国から、この塔には季節に応じてどんな鳥もがやってくる。

この小説には、一般的な意味でのストーリーは事実上ない。後半に訪れる大公の妻ヌリバルスの悲劇はいかにも取ってつけたふうで、ほとんど小説を終わらせるためにしか機能していないかのように思えるほどだ。〈東方幻想〉の作家たちについて言及した数えるほどの日本語書籍である『世界幻想作家事典』からコーリイの項を拾ってみよう。

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 アメリカの小説家。(中略)創作活動の最盛期は1920年代、30年代であり、それ以後はまったく沈黙した。
 作品の特徴は、支那趣味(シノワズリー)を色濃く示す東洋綺譚風なファンタジーにあり、これといったプロットもなく、ひたすら東洋のエキゾチックな情景を描写する。J・B・キャベルの知遇を得たが、傾向としては、ヨーロッパ中世に眼を向けていたキャベルとは微妙に違うようだ。(後略)
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本短編においても、登場人物は前衛的なまでについぞ動き回ることがない。代わりに、緩漫に滑っていくハンディカムのような視点で、宮殿や中庭の外面や装飾、そこでバレエを踊る踊り子たちの様子が執拗に描写されていく。

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 けれども、この二つの伝説に基づくバレーは、もうずいぶん長い間上演されなかった。キルザン大公ラシャナディンが国境いの戦さで宮殿を留守にしていたからである。だが、大公が凱旋した夏のある日の午後、彼は妻のヌリパヌルに挨拶をし、銀糸細工でこしらえた角灯の形の耳環(その中に光源のつもりの紅玉がはめ込んであった)を彼女に贈った。そして打ち出し模様の鎧を脱いで絹のローブに着換え、戦陣の疲れを忘れるため、鵬のバレーと金色の嘴の鳥のバレーを演じるよう命じた。

 大公は寝椅子に寝そべって、二十人の踊る処女たちの姿に疲れた眼を休めた。処女たちは象牙で拵えた城を頭に載せ(それは異国の女人像柱のようだった)、肩に銀の塔を担いで大公の戦捷を祝う踊りを踊った。

 穀物を簸るときに用いる籠からたわわな花を取り出し、花粉を撒きちらすと(最初は、赤土と金色の砂とを舞踊着の衣裳の壁から撒いた)そこにできた幻の畑に穀物の種を蒔き、レジストリナの木の花と、黄と赤のミニアチュアの芥子の花を植えた。

 そして、頭に載せていた象牙の城と肩に担いでいた銀の塔を畑のなかに置くと、実り豊かな大地に城のある町がいくつも誕生した。これは大公の領地と財産のすばらしさを讃える踊りだった。そして、踊り子たちが被っていた青い薄絹が敷石の上に拡げられた。それは大公の領地の先きにある大海原になった。退場する踊り子たちは長い髪を畑の上になびかせて恵みの雨を、薄絹の上に脱ぎ捨てた沓によって大海に浮ぶ大公の艦隊を表わしたのである。
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こういう文章を提示してしまえる所に本作の読みどころと美しさはある。もう少し刈り込めば、小説としてではなく散文詩として媒体に発表できるのではないかと思えるほどだ。

この作品がコーリイの作品の中で良い部類に入るのかそうでないかということについては、本作しか読んでいない自分には判断はつかない。しかし上記〈Ballantine Adult Fantasy〉中、リン・カーター編のアンソロジー『Discoveries in Fantasy』(コーリイの作品が二作採られている)の装幀は本作をモチーフとしており、作風が確かに発揮されている一品であるというのが個人的な推測である。

惜しむらくは、これ以上の良い翻訳もありえるのではないかと考えられること(踊り子の「slippers」を「沓(くつ)」と訳しているといった工夫はみられるのだが)。西崎憲さんあたりの翻訳で読めたら最高ではないかと直感しているのだけど。

興味深いのは、「オリエンタル・ファンタジー」といいながら、アジアのどの国をモチーフにしているのか判然としないことだ。キルザン大公は「大公(原文では「arch-prince」)」という東アジア的でない呼称で呼ばれているし、「焼いた銀の魚のかけら」や「蜂蜜をかけた米の料理」が公子の食卓に上る一方で、そもそも「キルザン」という響きは中国ふうの印象を受けない。コーリイは生年すらわかっていないという謎の作家だが、20~30年代という時代を考慮すると、東洋を知るための情報源も限られ、オウエンと同じように想像と気合だけでひたむきな〈東方への夢〉を紡いでいたのかもしれない。


・フランク・オウエン

荒俣宏『世界幻想作家事典』より、オウエンの項を拾ってみよう。

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アメリカの怪奇小説作家。本名はRoswell Williams。主としてアメリカの怪奇パルプ誌〈Weird Tales〉に作品を発表したが,すでに1920年代からラフカディオ・ハーンに影響を受けた支那幻想小説を多数発表,ラヴクラフトやハワードら後に同誌の中核的作家になる人物でさえ生前ほとんど単行本を出せなかったのと対照的に,美しいハードカバー本を数冊出版した。処女集“The Wind That Tramps the World”I929に収められた標題作は、世界を渡って国々の秘密を盗み見る風が,その風の企みを知った人間を追い回す奇妙なファンタジーであり,他の短編集“”The PurpleSea'' 1930、“Della-Wu,Chinese Courtezan; and Other Oriental Love Tales”1931、“Rare Earth”1931、“A Husband for Kutani”I938、“The Scarlet Hill”1941もことごとくが幻想の支那に材を取った夢幻的なファンタジーを収めている。しかしオーエンは実際に支那へ出掛けたことがなく,その意味で純粋に支那趣味(シノワズリ―)の精華といえるだろう。本邦に紹介されるべき異数の作家である。なお最後のオムニバス集“The Porcelain Magician”1948は旧作のうち出来のよい佳作を集めたものである。(強調引用者)
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実際に中国に行ったことはないのに、ひたすら東方幻想の小説を書き続けたというのは、ひどく興味ぶかく感じられる。しかも20~30年代には、アメリカでは定期的なテレビ放送すら始まっておらず、中国に関する知識はきわめて限られていたはずだ。

高山直之編訳『Downwind』(盛林堂書房)にて「空を渡る老人」を読んだ時の感激を忘れることはできない。拙ブログ上の当時の感想を以下にコピーしておく。
「もう10年くらい前からずっと読みたかった作家なので、いいタイミングで読めてよかった。一応筋立てとしては、幻想の中国を舞台に、花園の主である老人とそこを訪れる童子との交流を描く。などと要約できなくもないのだけど、作品の魅力は翻訳であることを忘れてしまうような文章の美しさと、そこから醸成される無風地帯のように静かなこの雰囲気なので、綺麗な小説が好きな人はまずは現物にあたってほしい。」

これ以上の感想は個別に記さないが、非商業誌も含めるとある程度の邦訳があるので以下に作品をリストしておく。なお、中村融による架空アンソロジー風の王国』(ブログ「SFスキャナー・ダークリー」)においては「世界を渡る風」が劈頭に配置されている。


支那のふしぎな薬種店」(荒俣宏編『魔法のお店』(ちくま文庫))
「世界を渡る風」(那智史郎・宮壁定雄編『ウィアード・テールズ01』(国書刊行会))
「青の都」(大瀧啓裕編『怪奇幻想小説シリーズ ウィアード04 The Weird Vol.4』(青心社文庫))
「さかさまの家」(「幻想文学」64号)
「折れた柳」(「FANTAST」24号)

・アーネスト・ブラマ

この人も邦訳はおそらく一作きり。イギリスの作家だが、短編数作が〈Ballantine Adult Fantasy〉におけるカーター編のアンソロジーに再録されている。

・「絵師キン・イェンの不幸な運命」(「ソムニウム」4号 特集:シノワズリ
コーリイに引き続き、一作読んだだけで何かを語ることに不誠実さを感じる方もいると思うが、どうしても発掘したい。というか、初めてラファティ久生十蘭を読んだ時と同じくらいのショックを受けた。ただしそれはあくまで驚きの度合いということであって、想像力の質として似ている面などはたぶんない。無限退行すれすれの語り口だけで読者を卒倒させる異様な小説で、方法論としてはフラン・オブライエンの傑作「ジョン・ダフィーの弟」に少しだけ近いものを感じた。ストーリーそのものはミステリ小説に分類はされるだろう。

これは悪い小説だ。リン・カーターの時代にすでに<忘れられた作家>とみなされていた東方幻想の作家たち、そのアンソロジーを日本で企画するとして〈美的至福〉を味わえる一冊してパッケージングすることがただちに考えられる。しかし、オウエンやコーリイや他の作家のアンビエントな佳品が並んでいるところに本作のような作品を投入したら、鉱水に毒々しい泥水をぶち込むかのように一瞬でアンソロジーの色彩が変わってしまうのではないか。…と言ってしまいたくなるほどの破壊的傑作。

参考文献・参考記事
荒俣宏『世界幻想作家事典』(国書刊行会)
西崎憲「東洋幻想譚管見」(「SFマガジン」2004年7月号 特集:異色作家短編集・別巻)
幻想文学」67号(特集:東方幻想)
「FANTAST」24号(特集:オリエンタル・ファンタジィ)
「FANTAST」37号(特集:東と西)