関口涼子+パトリック・オノレ「『坂道のアポロン/Kids on the slope』マンガ共同翻訳のプロセス、可能性とその意義」(石毛弓、柏木隆雄、小林宣之編『日仏マンガの交流 ヒストリー・アダプテーション・クリエーション』思文閣出版、2015)

小玉ユキ坂道のアポロン』のフランス語への翻訳者で詩人としても知られる関口涼子と、その共訳者であるパトリック・オノレによる、マンガの共同翻訳についての論考。マンガの「共訳」を扱った文章というのは現時点では非常にめずらしく、日本のマンガの普及や翻訳に興味がある人にとっては探してでも読む価値があるかも。

面白く感じたことその1。2015年当時のデータとはいえ、フランスのマンガ産業にかかわる統計的な事実が載っている(参照しているデータは2010年のものも)。マンガ全体の売り上げは2008年から減少傾向にあるのにくらべて、新刊の刊行点数は2000年からずっと増加傾向にある(最近の日本の出版状況全体の流れと同じですね)。

面白く感じたことその2。マンガの擬音は(すでに多くの人が知る通り)外国語に移し変えるのが本当に難しいのだけど、フランスにおいてマンガ翻訳の黎明期にあっては「「オノマトペ辞典」のようなデータベースを作れば対応できる!」と考えた人もいたらしい。ただし、実際には個々のマンガ家でそれぞれの擬音のニュアンスがまったく違うこともあるのが明らかになってやめるようになったとか(たしかに、たとえば荒木飛呂彦ひとり思い浮かべれば納得できてしまう気がします)。

ちょうどこの記述に対応するようなかたちで、この本の巻末の座談会では、関口氏が平野耕太ドリフターズ』を訳した時のこんな発言をみることができる。

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関口:いま『ドリフターズ』という少年マンガを訳しているのですけれど、あの作品ですごく特徴的なのは「ゴゴゴゴゴゴ」という作者ならではの表現です。「ゴゴゴゴ」自体はどこでもあるオノマトペだと思うんですが、それがありとあらゆる場面で多用されるんです。いろんな意味をもっているわけで、怒りであったりとか、緊張状態であったりとか、逆に「あっ」とずっこけるようなときにも使われたりする。(略)個人的なオノマトペが使われるというところも、日本の独自性でしょう。この作家さんだけが使うオノマトペというのをおもちになっている方って、けっこういらっしゃいますよね。(強調引用者)

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面白く感じたことその3。『坂道のアポロン』の主人公は高校生達だが、フランスの高校にはそもそも卒業式なるものがないことが翻訳のネックになってくる。ただし、多くの「学園もの」の日本マンガに卒業式はすでに登場しているため、根本的なレベルの問題にはならなかったそう。とはいえ、「卒業式」という語のフランス語への決まった訳はまだ存在しない。

さらに注目したいのは、日本マンガにときおり現れる、「高校生が校舎の屋上に上る」というシーンについて。

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通常、高校には屋上があるが、オノレは、自分が高校生だったときに誰かが屋上に上ったという話は一度も聞いたことがなかった。それに、バンド・デシネでもテレビのドキュメンタリーでも、学校の屋上に上るという話を耳にしたこともなかった。フランスでは、屋上に上るというのは、思いつきもしない発想なのだろう。もしも、どこか落ち着いた、誰の目にも見られない場所を探すなら、学校の外、街中に出ればいいわけで、それが、フランスで誰も学校の屋上に上らない理由だろう。しかし、それが今日のフランス人の読者にとって理解しがたい要素というわけではない。それは、彼らが屋上を使うようになったというわけではなく、現在の若者、多くのマンガを読んだフランス人にとっては、日本のマンガの中で、屋上が重要なシーンで使われていることを知っているからだ。

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さらにこの論考のラストのページにはこんな箇所が。

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翻訳作品は、その一つ一つが他の作品に加わって、相互に理解を助け合うものであり、同時にそれぞれが独立し、自立した存在でもある。例えば、『ナルト』にでてくる卒業シーンを読んだ読者は、『坂道のアポロン』の卒業シーンをよりよく理解するだろう。ある意味で『坂道のアポロン』の卒業シーンを翻訳するのを助けているとも言える。またはその反対かもしれない。それぞれの翻訳は、ある時期に起こった一つの出来事のようなものだ。

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海外に作品を広めたいと思うとき、「これは日本固有の文化に依拠しているから翻訳は難しいのではないか」という視点はおそらくかならず入ってくる。けれど、ファンというものは作品に次から次へと身を浸す中で文脈をも湯水のように浴びていくわけで、小さい頃からインターネットを使う世代の拡大とリンクしつつ、注釈の重要性は薄くなっていくのかもしれない。