キアラン・カーソン『琥珀捕り』(東京創元社)

現代人は祖父に飢えている。動画投稿サイトやiTunesにひとたびアクセスすれば星の数以上のコンテンツが押し寄せてくる一方で、「太陽のもと、変わらぬものは何もなし」な社会のはげしい変化を背景に、実の祖父による長話や武勇伝に耳を傾ける機会は意外なまでに少なかったりもする。かくいう僕も実の祖父母と触れ合うことのできた時間は驚くほど少なく、たとえばラファティカルヴィーノといった卓抜した語り部のファンタ爺(じい)を読む時間とは、ありうべき「おじいちゃんとの時」を恢復しにゆく過程なのだと思わなくもない。

とまれ、よっぽどの物語欠乏症や大食漢の胃袋をも充分に満たしてしまうにちがいないのが、この現代アイルランド文学の核弾頭『琥珀捕り』である。「オウィディウスが描いたギリシアローマ神話世界の奇譚『変身物語』、ケルト装飾写本の永久機関めいた文様の迷宮、中世キリスト教聖人伝、アイルランドの民話、フェルメールの絵の読解とその贋作者の運命、顕微鏡や望遠鏡などの光学器械と17世紀オランダの黄金時代をめぐるさまざまの蘊蓄、あるいは普遍言語や遠隔伝達、潜水艦や不眠症をめぐる歴代の奇人たちの夢想と現実(出版社内容紹介)」――。こうした無数の綺想をtall taleのスタイルで語っていく本作は、「琥珀」という語の静的なイメージとは裏腹に、アイリッシュパブでの爆音のギグのように野蛮で挑発的かつ実験精神に満ち満ちている。

ひとつところにとどまる登場人物がひとりも存在しない、という点では「現代詩手帖」で四元康祐が指摘するように一般的な長編小説からはこれは確かにかけ離れているのかもしれない。けれど、この長大な枠物語の内部において、アイルランドの史実や語り継がれてきた民話が見逃せない位置を占めていることにはもう一度注意を払いたい。なお、自分がとくに好きな章は柴田元幸訳で「ユリイカ」にワンカットで先行掲載された「Antipodes―対蹠地」と、普遍言語の問題系を扱った「Tachygraphy――速記法」。

稀少な琥珀かハイパーレアなポケモンのように「めったに見ない」個体だから、英語圏の書評家たちも本作をどう言い表したらいいのか、戸惑ってしまったというのもうなずける。ただ、早くから賛辞を寄せてきた先述・四元康祐円城塔のひそみに倣うなら、この「A long story(「ひとつの長い物語」:原著における本書副題)」とはやはり複雑に縒り合わされたある種の網なのだと思う。カーソンは、僕たちが生きるこの無限の宇宙を球形のものに変形させ、奇譚になりうるエッセンスを本当にも一網打尽にしてしまう。世界の不可思議をあまねく描破しようとしてしまうこんな書物が世界に存在することは、世界の七不思議のもうひとつの七不思議。