むかし、ある日本語の文章を読んでいたら「ふたりぼっち」という言葉に出くわして、不思議な語感だなと感じたことがある。ひとりぼっちならわかるけど、「ふたりぼっち」って。
 
きょうカナダの詩人、アン・カーソンの『赤の自伝』の一節を読んでいたらふたりの登場人物―思春期を迎えたばかり―が仲良くなっていくさまを表すのに「イタリック体のように互いの存在に気づいた」、とあってひどく面白く感じられた。日本語の文章ではイタリック体はほとんど使われないが、横書きである英語ではとある語句を強調するときにわずかに傾けたりすることがある。この世において愛は目に見えないものとされているが、ふたりが近づいたその角度は分度器で測れるのだろうか。