気鋭の日本文学翻訳家・Polly Bartonの初エッセイ集Fifty Sounds(Fitzcarraldo Editions,2021)より"zara-zara"。

この本の読者の中にはヴィトゲンシュタインと聞いて裸足で逃げ出す方もいるかもしれないけれど(!)、私はこの章が大大大好き。私にとって『論理哲学論考』はいわゆる「買ったけど難しくて読み通していない」本の一冊なのだけど、あのようなfragmentのスタイルには抗えない魅力が存しているように感じる。

長い路を歩きながら、友人にヴィトゲンシュタインの思想について説明を求められるくだりには共感してしまった。自分は現代詩や現代文学の中でもとくに難解と呼ばれるような作品(小説であれば非線形のもの)を積極的に拾っていく傾向があるのだが、文章ならともかく、会話においてその魅力を満足に「要約」できたためしがない。本文にもtornという言い方が使われているが、本の話をしようとすると、観念の檻の中にいる自分と、対人関係においては温和かつ控えめに振る舞う(強く出れない)自分が一瞬で水と油のように分離する感覚にしばしばとらわれる。他人をalienateしたくないから「この本くらいは読んだ方がいい」という言い方は一度でもしたことはないと自己認識しているが、それは結局自分が口下手であるという感覚につながっていく。

しかし、私が本当に記しておきたいのはつぎのこと――もし著者が満足な説明をその時友人にできていたら、翻訳家としての自己を開示しているかにみえるこの章は、この書物に挿入されることはなかったのではないか。二重の自己はものを書くことにつながり、ものを書くことは二重の自己を拡大する。

そして、この章のラストも大好きだ。Investigationの一節がその日本語版においては擬音を用いて訳されていると直感し、日本の知人とメールでやりとりをしたエピソード。他人にとっては意味がないように見えても自分にとっては価値があるものを発見した瞬間、胸の底には見えざる灯りが点る(その時の擬音はどんな音?)。

翻訳家は文章を正確に把握することが求められる職業だから、世間からは「沈着かつ客観的に物事を捉えられる人間」と思われがち。しかし本当のところは、「ざらざら」に歓喜してしまうような感覚の持ち主、微小なserendipityを日々無数に感じられる人こそ翻訳に向いているのではないだろうか?ざらざらの乾いた地平に、抽象的な涙の粒が一粒したたり落ちる。