一般的に言って、ある国において「紹介が進んでいない国の文学」に脚光が当たるときは、「その国らしさ」が過剰に期待されてしまいがち。海外文化の受容については一定の役割を果たしてきた「ユリイカ」ですら、カルヴィーノの特集の副題には「不思議の国の不思議の作家」と、レイナルド・アレナスの特集の副題には「めくるめくキューバ文学の世界」とつけている。フランスの作家が特集される時に国名に焦点があたったことはないのだから、ある種の偏りは否定できないと思う。

こうした非対称性は、(状況は変わってきているとはいえ)英語圏における日本文学の受容についても当てはまる。辛島デイヴィッドの『文芸ピープル』(2021)をひもとくと、「quirkyな主人公」という小見出しがページに躍る。「エキゾチックな花」のような女性像は過去のものとなりつつあるも、川上弘美などを訳している翻訳家のアリソン・マーキン・パウェルが指摘するところによれば、「翻訳されている日本文学は、英語圏の読者がquirkyだと感じる作品に偏る傾向がある」と。筆者の言葉で言い換えると、「女性作家による、異様な想像力の産物にみえる幻想小説(現地ではしばしばマジックリアリズムと呼ばれる)」が受けやすい。

けれどここで警戒したいのは、これがステレオタイプとして流通してしまうことであり、日本ではquirkyという語はstrangeやweirdよりも人口に膾炙していないようにみえるからこそ、知らない間に海外で広まっていってしまう可能性もあること。また、小説内で異様なできごとが起こることは、作家のパーソナリティがエキセントリックであることを少しも意味はしない。「ある国の文芸とはこういうものだ」と端的に言いきってしまうことは、diversityを認める立場とはそもそも矛盾しはしないだろうか?あくまで個人的な印象だが、日本の最良の現代女性作家に共通する感性があるとしたら、quirkinessではなく、radicalismというか、何かを根本から問い直す力のような気もしている。

いっぽうで、鈴木いづみのような作家が今や日本よりも英語圏ではるかに読まれているようにみえる(Goodreadのreviewの数を見るだけでもびっくり)のは、こうした状況による後押しもあると推察している(そして『いづみ語録』こそradicalismの結晶体では?)。さらにこれからどういう変化が起きていくか、なんのかんの言いつつ楽しみである。