存在しない本 『書物の王国 天使』

幻想文学」60号に掲載された、須永朝彦山尾悠子の対談「天使と両性具有」。タイトル通り、天使や両性具有やさまざまなモチーフ、そしてもちろんそれにまつわる書物の話題に花が咲いているのだけれど、個人的に気になった箇所がある。

山尾 両性具有について私は納得できないから、誰か納得させてくれというので読んでいた時期に、ル=グインの『闇の左手』のような作品も読みました。
須永 あれはおもしろかったですね。僕は両性具有について本を一冊書こうと思っていたんだけれど、《書物の王国》で『両性具有』をやったあとでその気が失せました。いろいろなものを読んじゃったら、書けないと思いましたね。文学的にすぐれた作品に乏しいという問題もあるし、一つにまとめるには文学を越えた広範囲な勉強をし直さないといけない。(中略)結局神話や伝説にはあるけれども、文学でやるとなると、天使も含めても本当に作品が少ないんですよね。
山尾 《書物の王国》に『天使』も入れたかったけれど、作品が集まらないからとおっしゃってましたね。
須永 僕と山尾さんの作品で一冊というわけにはいかないでしょ(笑)。読者だって期待があると思うんですよ。天使の本って一時売れたから、仮に売れたとしても、読者ががっかりするようなものしか作れないように思ったんですね。

《書物の王国》には『天使』の巻を含めることが企画の段階では検討されていたのだけど、作品が集まらなかった、というのである。須永氏は神話や伝説の類ではなく、文学においては天使がモチーフの作品は本当に少ない、と言い切っている。筆者がこの発言を読んだ時、虚を衝かれたような思いがした。西洋にはことばには表せないほどに長い文学の歴史、文学的遺産があるのに、そして、「天使画」と聞くだけでだれもがおそらく何かしらの具体的絵画を連想できるほどには多く描かれて来たはずなのに、シンボルとしてのそれは文学の中には描かれてはこなかった……?

そんなはずは、とあわてて考え直して出た推論は、「絶対的な作品数が少ないということではなく、《書物の王国》のほかの巻とならべても遜色のないような一冊を編むための佳品が少ない」と須永氏は主張したいだけなのではないか、ということ。これを読んだ時に筆者がとっさに思いついた、「天使がモチーフの愛着ある短篇」はタブッキの『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』(矢川澄子の最晩年の思考の軌跡をもつぶさに追いかけたい読者以外には薦めづらい本なのだが、小説集『受胎告知』の中で言及されていて、すぐさま手に取った)の表題作わずか一作だけだった。

しかし、もしも仮に「文学史上、天使がモチーフの短篇には傑作が少ない」というのが真なのだとしたら、それはいったい何を意味するのだろう。宗教と文学の関係を考えるうえで、考えてみるに足る問いなのか。作品そのものの数は、ほんとうは少なくはない可能性もある。風間賢二氏は『天使と悪魔の物語』というアンソロジーを編んでいるし、欧米の文学研究者のなかに、「こんな作品も、あんな作品もある」といくらでも語りたい方もいるかもしれない。

この話題に緩く結びついて、個人的に長く気にかかっていることがひとつある。「別冊幻想文学 怪人タネラムネラ 種村季弘の箱」における種村季弘と渡邉一考との対談で、渡邉一考が藤野一友は天使を題材とした小説を遺していたらしい、という趣旨の発言をしているのだ。

藤野一友とは例の、フィリップ・K・ディックヴァリス』の装画(抽象的な籠)などで知られるあの画家である。そしてこれについて、種村氏のほうは、そういうものの存在は知らない、と淡泊に応じている。藤野の画集『天使の緊縛』に魅せられた身としては、知られざる活字作品がどこかに眠っているのだとしたら、ぜひ読んでみたいと思う。筆者のある知人にかつてこの話をすると、「どうせ一考さんのことなんだから、また記憶違いなんかじゃないの?」なんて笑いながら言っていたけれど、加藤郁乎の随筆集『坐職の読むや』には藤野さんと夜を通して天使について語り合った、なんてエピソードも出てくる。探していたことももう忘れてしまった失くしものがある時ぽろっと出てくるみたいに、傑作が発掘される日のことをわたしはひとり期待している。