現代中国文学小屋

残雪翻訳および紹介のパイオニアである近藤直子氏が、生前に運営していたサイトだけど、いまも多くの記事をWayback Machineで見ることができる。残雪の小説以外の文章には初めて触れたが、これは、「小説家による批評」などという言葉で要約しうるものをはるかに超えている。ボルヘスカルヴィーノといった固有名詞にかならずしも意識を向ける必要もないと思う。深く思考することを厭わない人のための、肉の凄惨さえ感じさせる根源的な散文だ。

精神の階層は今、これまでのいかなる時代よりも明晰な形で突出している。これは一方では自然科学の飛躍的発展のおかげであり、他方では人類の精神自体への深い探索と絶え間ない開示のおかげである。後の仕事は哲学者、芸術家、心理学者、言語学者等が共同で成し遂げたものだ。複雑な精神世界が立体状を呈して現れたとき、文学は正式な分化を開始した。事実上、文学が誕生した日から、この分化はずっとひそかに意識的、あるいは無意識的に続いてきている。それは文学の本質によって決定されているのだ。

 あるタイプの文学者は、精神の表層に留まるのに満足しない。彼らはあの、かすかに感じられる未知の国土に強烈な好奇心を抱いている。その国土は、彼らが創造の過程で思いがけず発見したものだ。潜在する精神の王国は人々の共通認識の中にはない。もしかしたら、大多数の人々にその王国は見えず、ただあの勇敢な男女の芸術家たちが、たゆみなくそこに分け入り、探検し、それについてのさまざまな描写を持ち帰ってくるだけだといってもいいかもしれない。しかし歴代芸術家の描写はそのまぼろしの王国の境界を不断に押し広げている。この夜の世界に属する芸術家は、いずれも精神生活がきわめて複雑な人である。わたしの読書史の中では、この隊伍のメンバーは、ダンテ、シェイクスピアセルバンテスゲーテボルヘスカフカカルヴィーノなどだが、ほかにあの古い聖書の物語の創作者たちもいる。これらの芸術家が注目するのは表層の生活ではなく、あのより隠された、ことばでは表し難い、だが、到るところに作用をおよぼしている深層の生活である。そういう生活は「マクベス」や「ジュリアス・シーザー」の劇中劇に表れているが、それはボルヘスのいう「二幕劇」でもある。彼らの作品は始めはべつに大衆のものでもなければ、多くの者に審美的な満足をもたらすこともできず、影響を与えるのも、始めは少数の者に限られている。だが、それは魂を震撼させ、人生観を変えさせるほどの影響なのだ。

自国の文学について批判的に言及している箇所も興味深い(引用にあたり改行を挿入しました)。

新時期十年の文学(中国では文革後の文学を「新時期文学」とよぶ)が転機を迎えたと き、中国の文学界は喜びに沸いて勇みたち、国外の中国文学界は眼を見はった。かつて曹 雪芹や魯迅のような偉大な作家が現れたこの古い国の文学に、天地をも覆すようないかな る変化が起ころうとしているのか。いかなる巨人が生まれようとしているのか。ひとたび 束縛が除かれたからには、百花一斉に開き、鳥うたい花香る日もすぐそこではないか。少 なからぬ楽観的な人々が、これに大きな希望を抱いた。いわゆる流亡作家の劉賓雁(大胆 に中国社会の暗部を暴いたルポルタージュ作家、現在は米国にいる)はかつて、中国には 数十年の内に大文学者が現れるだろうと予測するとともに、若手作家に、彼の求めに応じ て、いわゆる「学者化」の道を歩み、大文学者たるべく勉学に励むようにと呼びかけた。 今や新時期の十年はとうに過ぎ去ったが、中国の文学界はいったいどれほどの様変わりを 見せたであろうか。あくまでも独自の個性をもち、作品は首尾一貫し、重複のない作家は 、いったいどこにいるのだろうか。答えはもう徐々に現れつつある。おもしろくないこと でもあり、他人のことなどどうでもいいとしても、国外の純文学界はすでに中国の新文学 のほとんどに興味を失いつつある。学者化の道を歩む霊丹妙薬も、明らかになんの効き目 もなく、もともと十分混乱していた文学の観念を一層混乱させ、我らが貧血した想像力と 、青ざめた無気力な、性衝動なき難産を覆い隠しただけであった。

中国の人々は得意になってこういったことがある。我々には「赤いコーリャン」のよう な良い作品があるが、これは外国人も見くびれないりっぱなもので、こういうりっぱなも のが出たからには、中国文学も世界へ乗り出すのに成功したのだ、と。この問題について 、筆者の意見は大方の人々とまるで反対である。思うに、ああした原始的な民俗、神話の 類いに粉飾を加え、いい加減にでっちあげ、生命そのもの衝動に見せかけたまがい物は、 我々の民族にとって、正に麻酔薬にほかならない。それはべつに目新しいものでもなく、 魯迅が数十年も前に描いた阿Q精神の延長でしかない。「赤いコーリャン」が強調するの は、我々の「昔の羽振り」はよかった、大したものだったということなのだ。本当に羽振 りがよかったのかどうか、どうせ外国人にわかりはしない、ほらをふくにはもってこいと いうものだ。図体のでかい西洋人が龍袍(昔、皇帝が着た刺繍入り長衣)をまとい、あや しげな声と調子で「娘よ大胆に進め」(映画「赤いコーリャン」の歌の一節)などと歌う とき、筆者には、実に、これにまさる悲哀はないように思われるのだ。数年前、「赤いコ ーリャン」の大きくも小さくもない騒ぎの中で、筆者の心は日に日に沈み、やりきれない 気持ちで一度ならず思ったものだ。中国人に自分自身を見せ、外国人にありのままの中国 人を見せるのは、盲目の人に太陽を見せるのと、おそらく同じなのだ、と。古くからの歴 史の大河の中で、「赤いコーリャン」は正にこうしたまぼろしの水の泡にすぎない。それ は多くの人々に幻覚を見せ、かなりの程度まで真実を粉飾した。この手の水の泡がこの河 にはまだいくらでもある。人眼をひきはしないが、いずれも大同小異だ。

新時期十年来、創作上のいわゆる多彩さと、批評界の新名詞、新概念が、続々と現れて いる。個々の一定の才能をもった作家は別として、これらの「新たなものを創りだす」運 動のいずれもが、何らめざましい成果をあげていない。すべてが予想どおり、すべてが期 待はずれである。我々の作家はとうに、どうやって性交するのか、どうやって生命を創造 するのかを忘れている。彼らが馴染んでいるのは、無性生殖と、他人の身体に寄生するこ とだけだ。