ひさびさの鈴木いづみ、『ハートに火をつけて!』。大学時代、SFセミナー企画『鈴木いづみRETURNS』ではじめて存在を知り、ル=グィン『闇の左手』を扱ったゼミ発表で「女と女の世の中」を引いて恩師に建設的助言を賜ったのもいい思い出。愛に餓え70年代を光よりも速く駆け抜けたこの作家が、いまや国内よりも国外で熱心に読まれているというのは数奇さを感じずにはいられない。

読後感をうまく整理できず自分以外の感想を少し探してみて、惹かれたのが「作中に漂う力強い諦念と、プラスチックみたいな透明な明るさが、切実で美しい。」との三浦しをんの言。諦念とは、ふつうはよわく脆いものなのではないか?それが、鈴木いづみの場合は力強いなにかへと、転化されているというのだ。

今年もまた、例の夏がはじまる。いつもの夏が。みどり色した疲弊をしょいこんで、あちこちを犬みたいにうろつく夏が。(略)夏におこることは、たいてい尾をひかないから、いい。きしみをあげるような光と、ぐったり湿った空気がなくなると、全部がウソだったような気がするから。パッケージにひとまとめにして、天井ちかくの戸棚にしまっておけるから。とりだしてあげると、時間感覚の奇妙さのせいで、いつでも新鮮なのだ。何年まえの夏だろうが、関係なく。そして、三年前の夏が、二年前の夏より遠い、ということはない。
鈴木いづみ『ハートに火をつけて!』(文遊社)

鈴木いづみ語録』などはなぜか3回購入し決まった箇所をくりかえし読んだりしてきたのだが、この自伝的長編についてはいまは感想として散文化できそうにはない。ぼんやりといま考えているのは、むしろ「女と女の世の中」のこと。The New York Times書評では英訳SF短篇集がル=グィンと関連づけて論じられていたりするが、個人的にはかならずしも大文字の文学として捉えなくてもいい、とも思っている。「女と女の世の中」は、男の子が出てくるシーンがとても印象的。鍾愛する、マーガレット・セントクレア「街角の女神」「地球のワイン」のような、夢見がちな(ほとんど)ふつうの女の子が夜も更けて自分の手帖に書き始め書き上げたような、満月の夜の夢の残り香をお裾分けしてくれるような、小粒なるものだけが発散するアンビアンスがだいすきなのだ。