最近買って「どうしても紹介したい!」と思った洋書のひとつがAnatomy of Wonder。1976年に初めて刊行されたSF研究書で、英米だけでなくデンマークスウェーデンルーマニアからイスラエルまで非英語圏のSFについて国ごとの概論と主要な作品の解説を多数掲載していることを特徴とする。

この本の「日本SF」の項がすこぶるよい。こんなに古い本でも、こうしてブログで紹介する価値があると信じさせられてしまうほどよい。SFマガジン1990年3月号の山岸真の連載「海外SF取扱説明書」がこの本を取り上げていて、以下のように述べている。

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『驚異の解剖』の日本SFの項を書いているのは、長く日本に滞在し、SF関係者とも親交のあったデイヴィッド・ルイス。SF作家でもあり、〈オムニ〉に載った日本SFの英訳者でもある。まず総話では、石川喬司氏の評論をひいて、日本人の想像力を『古事記』にまで遡ってから、芥川、川端、三島といった文学者の作品に見られる幻想的な要素に言及する。つづいて明治時代からの日本SF史をたどり(横田順彌氏らの業績を踏まえている)、現代SFの発展の過程から、雑誌や現在の出版状況、ファンダムに触れている。翻訳SFの与えた影響とか、英米SFと比べて科学への関心が薄いことなど、批評的コメントを交えながら、かなり細部まで論じられているのが新鮮。簡単な作家紹介があったあと、日本のSFはもはや英米の模倣ではなく、英米の読者は日本SFが英訳されるようもっと関心を持つべきだ、と総括はしめくくられる。

 多分翻訳家の方などの助言もあったのだろうが、日本でも日本SF入門に使えそうなほど、手際よくポイントを押さえたもので、これがアチラでの日本SF認識のスタンダードになるなら、とりあえずいうことはないという感じ。(強調引用者)

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90年の文章であるから今の山岸氏が本書を再読したらどう感じうるかは別なのだけど、少なくとも当時氏が「きわめて好意的に言及していた」と言ってしまってもよいのではないだろうか。

執筆者のデイヴィッド・ルイスは後にデーナ・ルイスと名を改めるが、山野浩一「鳥はいまどこを飛ぶか」や菅浩江の短編などを訳し、翻訳家としても日本SFの紹介に大きく貢献している。くわしくはご本人が参加した2018年のSFセミナーについてのウェブ上の各種レポートなどを参照のこと。

さて、ルイスの文章がインターネット上の英語による日本SFレビューの多くよりすぐれていると思える所は、各作品のプロットの要約や評価にとどまらず、日本SF史というより大きな流れの中での作品の立ち位置や日本SF史内側での作品の影響関係までをも少ない語数で外部に発信しているところ。

引用におさまる範囲でいくつか紹介したい。

まずは筒井康隆ベトナム観光会社』。

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5-241. Tsutsui, Yasutaka. Betonamu Kanko Kosha (The Vietnam Sightseeing Company). Tokyo: Hayakawa Shobo, 1967.

A set of later short stories by Tsutsui including what is perhaps his best-known work. A company specializing in arranging honeymoon trips for newlyweds plans tours to the Moon and to the Vietnam War. Filled with puns, takeoffs on the names of other science fiction writers, and sharp satire against the institutions and values of modern Japanese society, this story helped define a subgenre that has become known as “dota-bata SF,” literally “slapstick SF,” and is practiced by many younger Japanese writers. Compare with Kanbe’s Kessen: Nihon Shirizu [5-213].

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サブジャンルとしての“dota-bata SF”への言及のしかたが簡潔かつ正確に見えます。

続いて、山尾悠子『夢の棲む街』。

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5-251. Yamao, Yuko. Yume no Sumu Machi (The Town Where Dreams Live). Tokyo: Hayakawa Shobo, 1978.

Born in 1956, Yamao is one of the most accomplished of Japan’s young SF writers and the best of the handful of Japanese women writing science fiction. Her themes and techniques come as much from the Japanese avant-garde as from the science fiction community, and her sometimes excessively intellectual prose, thick with symbols, also reflects this allegiance. This first collection of her work nonetheless contains several powerful stories that systematically assault conventional wisdom, using surrealistic techniques and occasionally grotesque characters. Compare with Ballard’s “The Sound Sweep” and Vermilion Sands[3-61].

「Her themes and techniques come as much from the Japanese avant-garde as from the science fiction community, and her sometimes excessively intellectual prose, thick with symbols, also reflects this allegiance.」。「the Japanese avant-garde」ってこれ、「前衛」というよりかは指そうとしてるのは澁澤龍彦文化圏であって、日本の「異端文学」みたいなニュアンスでこの訳語を当てたんでしょうね。

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さらにこのルイス氏原稿が一歩進んでいるように思えるのは、当時手に入るレファレンス書籍もていねいに取り上げていること。以下、『世界のSF文学総解説』。

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5-261. Ishikawa, Takashi, and Norio Itoh, eds. Sekai no SF Bungaku Sokaisetsu (A Comprehensive Guide to World SF Literature). Tokyo: Jiyu Kokuminsha, 1978.

Not as comprehensive as the title suggests, this remains an excellent reference work providing synopses and author information (up to two full pages for major works) on hundreds of novels, short story collections, and outstanding single stories from around the world. Particularly valuable to a Western reader are the nearly 100 entries on works by Japanese authors. Ishikawa is Japan’s leading SF critic; Itoh is close behind and is also one of Japan’s best translators.

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Sekai no SFってローマ字表記で見ると、ちょっとフシギな感じで微笑を誘う。「Not as comprehensive as the title suggests」っていう指摘も言われてみれば確かにという気がしますね。伊藤典夫についても「one of Japan’s best translators」と評価。

他に単独で項目を設けて紹介されているレファレンス書籍としては、横田順彌『日本SFこてん古典』、福島正実『SFの世界』など。

ここに引用したのはほんの2つだが、第一世代の大御所作家だけでなく、河野典生鈴木いづみ『女と女の世の中』など、英語圏では言及されることが少ないかにみえる作家の著作についても単独で項を設けて紹介している。なお、自分が持っているのは1981年の第2版だが、山岸氏が持っている版は神林長平などより下の世代までカバーしている模様。

ここで話は21世紀に飛ぶ。日本SFを海外に普及させたいと考える時、「普及」と「翻訳」はイコールではないことにすぐ気づく。たとえば今日、「Tobi Hirotaka Ragged girl」でgoogle検索をしてみると、2件目に表示されたのは2007年の横浜ワールドコンに向け日本のSFセミナー・スタッフが英語で書いた紹介文だった。作家によっては英語版wikipediaに項目が立っているが、英文の質としても著作の網羅性としても、いろいろな意味でばらつきがある気がする。デーナのような影響関係や歴史までをおさえた質の高い、端正な文章をプロが書き、ポータルサイト的な空間で無料で公開していくといういとなみには意義があると思うのですけど、いかがでしょうか皆さま?