とある勉強会のために作成したハンドアウトですが、参考までに転記しておきます。本来は縦書きで、改行位置以外は手を加えていません。
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大滝和子『銀河を産んだように』を読む
1.primitiveness(原初性)
つい最近まで、月にはウサギが住んでいた。20世紀後半以降、人工灯が都市を覆い、科学によって事象を峻別する「合理的」思考が根付くのに伴い自分たちの運命を星占いに求める人間も少なくなった。Youtubeにひとたびアクセスすればいまや容易に火星の表面を観ることができる。野外で星の運行を眺める時間が減るにつれ、人類は以前より宇宙に対して畏怖を感じなくなったのではないか。サイエンスフィクション(量的には1950年代に黄金時代を迎えたとされる)がフォーミュラフィクションの色彩を帯びて以降、作家がたとえ宇宙を舞台として設定しても、それが単なる書き割りであることも極端な例ではなくなった。大滝和子が「銀河」「惑星」「光年」「地球」という語彙を用いる時、そこにはほとんど常に稀少なプリミティヴネスが保持されてはいないだろうか。
創作とは鬼才の独創の世界である限り、それを持って世代ごとの想像力を論じるのには危険がつきまとう。しかしたとえばともに1930年代生まれの詩人、矢川澄子や〈遊星の人〉多田智満子が「宇宙」と唱えればその瞬間、読者をとり囲む宇宙は実際に鳴動するという気がする。宇宙に対する感覚に世代差は関係するのか。あるいは、それについて検討することに意味はあるのか(大滝和子は1958生まれ)。
2.巨視的と微視的の往還/極小と極大の一瞬
初恋に韻ふみて恋う 金星軌道のかたちの指輪ひだり手に嵌め
迷いつつ脈打つわれの肉体が白点となる距離もあるべし
麦畑腕の帆はりてふりむけば背中のうしろに広がる未来
サンダルの青踏みしめて立つわたし銀河を産んだように恋しい
宇宙線に髪梳かれいるここちして白木蓮の公園めぐる
あしたへの遠近法の坂道をユークリッドと腕くみ進む
光年を離れまたたく現実をねむれぬ夜の窓から仰ぐ
銀河が産まれるさま、あるいはヴァイオリン状の人類(それとも人類状のヴァイオリン?第二歌集タイトル「人類のヴァイオリン」より)をたとえば小説やナラティブとして叙述するには、必ずある程度の語数が必要とされる。しかし詩歌であれば、直喩であれ隠喩であれ、「銀河を産む」は一瞬で発動してしまえる。こうした詩歌の強みを非凡なかたちで活かしているのがこの歌人の美点ではないか。
〈直喩〉
吾ひとり影うつされて過ぐる晩よ輪廻のごときジャズ浴びて寝る
スカートがわたしを穿いてピクニックへ行ってしまったような休日
指柱それぞれ離し眺めおり手のひらという吾の神殿
〈隠喩〉
画布上に銀河大の疑問符を寒色に塗りこめて部屋でる
眠らむとしてひとすじの涙落つ きょうという無名交響曲
「相対性理論を習うまなざしの二億秒まえ飼っていた猫」に着目してみる。物理的な近景・遠景の往還だけではなく、時間軸においても現在/悠久、未来/太古を歌人は瞬間的に移動してみせる。「ボールの起源たどりてゆけばそのむかしアダムとイヴに食われた林檎」に見られるように、変哲のない日常の事物を眺めても「起源」を幻視してしまう。スポーツをも叙事詩に流転させてしまう。
論点:レポーターはひとまず巨視的と微視的という二分法における、運動や反転というよりも一瞬の変容のようなものを作者のセントラルモチーフとして捉えているが、これは妥当だろうか。二分法という理解で取りこぼすものも多いかもしれない。同時に、カメラが線的にズームイン/アウトするようなイメージを結ぶ歌はほぼ見つけることができなかったように思う。
3.「隔たった」古代文明、神話への関心
エジプト神聖文字の石碑に刻されし鳥さわさわと水際はなる
プラトンより遠くから吹く風に散り桜は粒子運動をする
ペルシア語はなしてみたき舌先をもてあましいる春のゆうぐれ
秋風にきよく額をみがかせてアテネの神話おもいておりぬ
て・に・を・は、と舌より分泌しやまざるアルタイ語族ひしめく電車
神話や異国、文明のモチーフは頻出するが、たとえば東南アジアや中国、アフリカなどの国・地域よりも頻度としては古代ギリシアや中東などが言及されることが多いようにみえる。地域名がなくても「羊皮紙」「角笛」といった言葉が登場する歌は多い。これはなにを意味するのか?「プラトンより遠く」という語法からは、作者がプラトンを遠い存在として捉えているとひとまず見て妥当だろうか?いずれにせよ、こうした固有名詞のおおらかで自在な召喚が大滝ミクロコスモスの悠久性に寄与していることは間違いないのではないか。
論点:特定の文明、地域への関心はなにを意味するのか。
4.その他細かなトピック
・細かな技巧面:なにを「ひらく」か、あるいは表記上の工夫
修道院の塀しろませたる塵の上いっぽんの指触れつつあゆむ
こうした「ひらきかた」がおおらかさ、やわらかさに寄与しているか。歌集中では、読み方が難しい漢語などはほぼまったく使われてないように見える。
・科学への関心、形而上学・言語学用語の多用
こうした語を好んで使うとはいえ、ペダンティックというよりは身体性、おのが肉体を出発点としていると言えるだろうか?
肉体の文法かなし 草汁と汗がまじる白いTシャツ
向日葵の高きにありて素枯れゆくひとつの季節はひとつの人称
あじさわう目からあふれるH2O つめたき鍵を遠因として
・作者の文学的バックボーン
宮沢賢治(の作品世界)への言及がとみに多い?
→アニミズム、交響性という共通点?
教室の窓いっせいに拍つ驟雨かがようバッハの楽となりたり
4.以上の論点に回収されない秀歌(恋愛モチーフ、その他)
17進法で微笑し目をそらすもう少しはやく逢っていたなら
《夜まで》の《まで》がいっぽんの楡となりきみへきみへと葉擦の音は
きみの名と同音である抽象語ふとさりげなく会話に入れる
ハーブシャンプーしたての髪を拭くわたし12種類の声で歌える
平行四辺形の女がやってくる 並木道を泣きながら
天文台学術員はわれに云う みどりのムーンのぼる異星を
資料
谷川俊太郎「二十億光年の孤独」(1931生、詩集は1952)
人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする
火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或いは ネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした