折にふれて聞く「オーストラリアでは選挙で投票をしないと違法になる」という文化の違いについてちょっと知りたくなって、竹田いさみ・森健・永野隆行編『オーストラリア入門』(東京大学出版会、第2版刊は2007)。「投票手続きを理由なしでおこたれば20ドルの罰金(本刊行時のデータ)」、「制度が導入された時には投票率が58.0%から91.3%に跳ね上がった」など興味深いデータが満載。しかし、オーストラリアではごく一部の例外を除き文字通りすべての候補者にひたすら「優先順位」をつけていくというシステムが採られていて(詳しい仕組みは本を参照)、これが結果として労働党保守連合の二大政党の維持、強化につながっているとの解説もあって面白い。やっぱり内側から眺めてからこそわかる問題点もあるはずで、「若者の投票率も低いんだし、日本も強制投票制にすればいい」という見方に同意できるかどうかはたぶん別の問題。

ほかに、オーストラリアは国土が広大で僻地が多いからこそ事前投票やリモート投票が整備されているという話などもなるほどと思ふ。

マンディアルグの翻訳というと生田耕作澁澤龍彦のイメージが一般的には強いが、1950年代の前半から大濱甫 (シュオッブの翻訳家で礒崎純一氏の先生としても知られる)がすでに「三田文学」「文藝」などの雑誌に訳している。1953年の「三田文学」に訳された「クロリンダ」(おそらくこの作家の初邦訳)は昔図書館で現物を読んだのだけど、かなり短い作品だし、白水uブックスで読める作品と同一のものだったと記憶している。50年代の雑誌なので、もちろん紙は黒くてほろほろ。

ただ、たとえば皆川博子岸田今日子(ともに1930年生)であればひょっとしたらその頃からすでに読んでいたのだろうか、などとふと想ったりもする。その可能性の低さそのものは問題ではなくて、たのしむための気まぐれな空想として。岸田今日子の最後の短編集『二つの月の記憶』は薄くても深い余韻を残すとてもチャーミングな本だと個人的に思うけど、マンディアルグのとある本がかなり印象的な場面で登場するのだ。

日韓の名字の比較

「ことばと文化の日韓比較」という副題の付された任栄哲、井出里咲子 『箸とチョッカラク』(大修館書店)。この中で日韓の名字を比較するコラムがあって、「金」「李」「朴」が韓国の名字では多数を占めるというのは本を読む前から知っていたけど、韓国の名字は286種、日本では13万種あると具体的なデータが示されていて目からウロコ。ちなみに中国はおよそ3500種とのこと(上記、すべて本が刊行された当時の数字)。

韓国の名字は一字がほとんどというのはなんとなく把握していたけど、二字はごく少数、三字以上は「そもそも存在しない」というのも知らなかった。そのため、韓国の人が「金田一春彦」というような日本の名前に出会うと、場合によっては「かねだ・いちはるひこ」と区切って読んだりもしてしまうそうな。ところでこの文章を見ているみなさんは、四字、五字以上の日本人の名字をどのくらい思いつきますか?

最近「え、この作品、英訳あるの?」と驚いたのが尾崎翠の「第七官界彷徨」。

「MONKEY」(英語版のほう)vol.1の巻末には、「Why hasn't this been translated?」という名の、未訳の日本文学について数人の翻訳家が紹介するコーナーがある。ここで尾崎翠第七官界彷徨」が取り上げられているのだが、公式サイトから目次だけを見た場合、未訳だと思ってしまうのは自然ななりゆきだろう。しかしこれ、紹介者も言明している通り、書籍のかたちで刊行されていないだけでReview of Japanese Culture and Societyという学術誌の27号(2015)に全体が訳出されている。だからこのWandering in the Realm of the Seventh Senseについては、「Why hasn't this been published?」と言っているにひとしいわけである。

筆者のちょっとしたリサーチに基づくと、たとえば左川ちかといった書き手であればModernismというタームを足がかりとして、近年ある程度英語圏の大学の日本研究の授業のテキストなどでも使用されてきているような様子。

Russel Hoban『The Lion of Boaz-Jachin and Jachin-Boaz』(Valancourt)

One of the best novels that I have ever read. I used to have little interest in things like love, growth, or any other central feelings of human. Also, I had thought that explained why I am fond of writers like J.G.Ballard. This book, however, convinced me that it is love which I have long sought for in my life. This story has that power of introspection that can change a reader’s personal philosophy.(2021)

当ブログの目次を作成してみました(→Link)。ブログ開設以来の書評、作家・マンガ家への言及を(ほぼ)すべて五十音順にしてリストしています。

日本の幻想文学研究の俊英、ピーター・バナードが今学期とある日本の大学で開講しているGhosts and Goblins in Modern Japanese Literatureという授業(使用言語は英語で受講生は留学生が多い)。週替わりで短編ないし長編の一部などを読んでいくが、テキストは早い週から順に、幸田露伴泉鏡花漱石森鴎外小泉八雲柳田國男、村山槐多、佐藤春夫折口信夫金井美恵子、松田青子、酉島伝法(作品によっては二週にわたって扱うもの、一週で二作扱うものもあり)。村山槐多は「悪魔の舌」、金井美恵子は「兎」。こっそりモグりたい気持ちを抑えられぬ。

コンビニで小梅ちゃんを見ると、それだけで一日ハッピーな気分になる。僕にとって林静一とはイラストレーターである以前に『赤色エレジー』を描いた「ガロ」の漫画家。そんな人の絵を令和の今も日常的に見ることができるというのは、まちがいなくささやかな幸せのひとつなのだ。ほかに「ガロ」で活躍していたマンガ家だと、たむらしげるも中学校の教科書の表紙にイラストが用いられたりしていて、気づくと思わずクスッとしてしまう。

気鋭の日本文学翻訳家・Polly Bartonの初エッセイ集Fifty Sounds(Fitzcarraldo Editions,2021)より"zara-zara"。

この本の読者の中にはヴィトゲンシュタインと聞いて裸足で逃げ出す方もいるかもしれないけれど(!)、私はこの章が大大大好き。私にとって『論理哲学論考』はいわゆる「買ったけど難しくて読み通していない」本の一冊なのだけど、あのようなfragmentのスタイルには抗えない魅力が存しているように感じる。

長い路を歩きながら、友人にヴィトゲンシュタインの思想について説明を求められるくだりには共感してしまった。自分は現代詩や現代文学の中でもとくに難解と呼ばれるような作品(小説であれば非線形のもの)を積極的に拾っていく傾向があるのだが、文章ならともかく、会話においてその魅力を満足に「要約」できたためしがない。本文にもtornという言い方が使われているが、本の話をしようとすると、観念の檻の中にいる自分と、対人関係においては温和かつ控えめに振る舞う(強く出れない)自分が一瞬で水と油のように分離する感覚にしばしばとらわれる。他人をalienateしたくないから「この本くらいは読んだ方がいい」という言い方は一度でもしたことはないと自己認識しているが、それは結局自分が口下手であるという感覚につながっていく。

しかし、私が本当に記しておきたいのはつぎのこと――もし著者が満足な説明をその時友人にできていたら、翻訳家としての自己を開示しているかにみえるこの章は、この書物に挿入されることはなかったのではないか。二重の自己はものを書くことにつながり、ものを書くことは二重の自己を拡大する。

そして、この章のラストも大好きだ。Investigationの一節がその日本語版においては擬音を用いて訳されていると直感し、日本の知人とメールでやりとりをしたエピソード。他人にとっては意味がないように見えても自分にとっては価値があるものを発見した瞬間、胸の底には見えざる灯りが点る(その時の擬音はどんな音?)。

翻訳家は文章を正確に把握することが求められる職業だから、世間からは「沈着かつ客観的に物事を捉えられる人間」と思われがち。しかし本当のところは、「ざらざら」に歓喜してしまうような感覚の持ち主、微小なserendipityを日々無数に感じられる人こそ翻訳に向いているのではないだろうか?ざらざらの乾いた地平に、抽象的な涙の粒が一粒したたり落ちる。

 

お客さんがリクエストしたキャラクターを「3Dラテアート」でなんでも再現してくれる原宿のカフェ、REISSUE。Shaun TanのArrivalに出てくる不思議な生き物を描いてもらったよ~!

 

 

日本のとある大学でピーター・バナードの授業を受けているインドネシアの友人と少し話す。courseでは泉鏡花幸田露伴や村山槐多といった面々が登場すると聞いてニヤリ。それぞれの作家の作品がassignmentになっているかまでは聞きそびれてしまったけど、源氏物語の英訳が広く読まれているのと同じロジックで、鏡花も日本語で読むより外国語訳の方が平易だろうと推察される。

とある書店に入ったら、入り口にアニー・ディラード『本を書く(原題:The Writing Life)』が平積みにされていて目を瞠った。

文庫に近いサイズになったそのうちの一冊に、瞬間に汗ばんだ手を伸ばし奥付を見てみると、つい今年になってから復刊されたばかり。読んだ人間の眺望を変えうる書物だと思うので、広く読まれてほしい。再読する時間がいまはないので、09年に自分が書いた文章をここに転載しておく。

 

円城塔に「傑作しか書けないのが弱点」とまで書かれてしまったテッド・チャンの新作がいよいよ「SFマガジン」誌上に到来する。迫ってきている。

原書で読み終えた識者たちがこぞって絶賛しているところをみると、その弱点は今回もまたカバーできなかったのだな、とにやにやしてしまう。期待という花は開花をいまかいまかとうかがっている。咲き狂う花びらの一枚一枚すらも忘れがたい鮮烈な残像を残す、そんな作品であればいいと願う。たとえばジョン・ヴァーリイのそれのように。

チャンはあるインタビューの、「本屋で働くとしたらスタッフのおすすめコーナーに何を置きますか?」という質問に対する答えとしてアニー・ディラードの本をあげている。ディラードを精神的支柱に据えている作家の作品なら信頼できないわけがない。

たとえば『本を書く』。この本は進行中の書き手にすぐさまの飛翔を約束するものではないが、未来に何かを書く際の最高点を、到達の限界点を思いきり引き上げてくれるにちがいない。志(こころざし)という一語の響きの陳腐さと、その意味範囲の絶大な広さの溝を思う。

あの日誰かがイタチに出会い交感が生じたように、チャンの作品にも誰かが出会ってびっくりすればいい。その驚いた顔にチャンもまた驚くかもしれない。

いつか、かれの夢の書店に行ってみたい。ディラードの本を好きな人はディラードをまわりに勧めたがってうずうずしているにきまっているのだから。そしてチャンの本もまたそうなのだろう。そうなればいい。(2009)

個人的メモ。名状しがたい、ある種の「痛む」感覚にみちたSFの秀作群。

ジェフ・ライマン「オムニセクシュアル」
ブルース・スターリング『蝉の女王』
カリン・ティドベック「ジャガンナート――世界の主」
伊藤計劃『ハーモニー』
村田沙耶香「殺人出産」
市川春子『25時のバカンス』
蜈蚣Melibe『バージェスの乙女たち』シリーズ
鬼頭莫宏『殻都市の夢』
押井守イノセンス」(映画)

フィリピンの先生とスカイプ英会話。セブ○イレブンの揚げ物コーナーの写真を見せて、「からあげ棒」の説明(あなたの国にもセブンイレブンがあるのは知っているが、本国のとはゼンゼンちがうんだ、と前置きをしてから)。

「からあげ」は日本語で「fry」という意味で、「棒」は「stick」とか「skewer」などと訳せるけど、これはカエルのお肉なんだ、カエルは日本では良質のたんぱく質源とみなされているんだ、などと吹き込む。その証拠に、この商品の名前にはどこにも「chicken」を表す語句はないだろう。ウソだと見破られずにどこまで話を続けられるかやってみる。というのは、ミミズ肉のハンバーガーの逸話とかと同じなわけだけど、がんばって都市伝説に国境を越えさせたい。