〇月〇日
3号にアルメニアにおける日本文学受容について論考を寄稿してもらうアスタさんとともに、Mさんの講演をある私大の附属施設に聞きに行った。アスタさんは大江健三郎、村田沙耶香、松田青子などをアルメニア語に訳していて、『コンビニ人間』の翻訳はロシア語よりもアルメニア語のほうが先行した。

アスタさんが来日されると知ってから、面識のあるMさん(大学教員で翻訳家)に連絡をとった。せっかく日本にいらしているのだったら、いろいろなご経験をされてほしい、アスタさんがお会いされたらプラスになるような方を、ご紹介いただくのはむずかしいでしょうか。このように送ったところ、よかったら〇〇日に講演をするのでお越しください、〇〇さんを紹介できると思います、とのお返事がきた。

この日、アスタさんからアルメニア、ソ連ほかにおける日本文学受容に関する面白い話をいろいろ聞かせてもらったのだが、それは3号を読んでのお楽しみ。

以下、個人的な記録。お会いする前、アルメニアの日本語教育に関する情報を集めるなかでブリューソフ国立大学のことを知った。直感的に、この大学の名前がワレリイ・ブリューソフから来ているのではないかと思って聞いたら、その通りだった。旧ソ連国家にある大学では、作家の名が冠されているものが多いらしい(第一、第二など数字が付されているものも多いとのこと)。ブリューソフは、荒俣宏『別世界通信』巻末の幻想文学リストで紹介されていて以前手に取った。白水uブックスではなく、絶版の単行本でしか読めなかった頃。

なぜ大学名が作家の名にちなむはずだと推測をしたかというと、おなじく『jem』3号に寄稿くださる高柳聡子さんの本を以前読んでいて、ブリューソフが文学史上にたしかな位置を占めている存在だとそのときはじめて知ったからだった。だから、縁のようなものを感じた。

自分が翻訳家でもないのに、「翻訳家と運命」というテーマについて延々と考えている。この日聞いたMさんの講演も、その講演のもとになった本も、翻訳家と運命をめぐるチャーミングなエピソードの歓ばしい連続体のように思えた。

最近読み直していた文章。映画『ドストエフスキーと愛に生きる』のパンフレットのなかで、沼野充義は「翻訳の仕事を始めたいきさつ」について次のように書いている。
「外国語で読んで気に入った作品は訳したくなってしまうのです。それで学生の頃からSFや詩の同人誌に、好きな作品を勝手に訳して載せていました。ブローティガンの詩も訳しました。ドイツのSFや映画論の翻訳でお金を稼いだこともあります。小説を一冊初めて翻訳したのは、ロシアの幻想作家グリーンの長編『輝く世界』です。まだ大学院に入ったばかりの僕に、荒俣宏さんが声をかけてくれたのです。(略)そんな風に、幻想文学やSF関係のつながりで、20代の頃から次々に仕事が来ました。翻訳と恋愛がパラレルにどんどん進行する、楽しい青春時代でした。」

ここで言う恋愛とは、どのような意味なのだろう。人間を対象とした恋愛なのだろうか。それとも、テクストへの恋に落ちたことを言っているのだろうか?

なお、アスタさんのお子さんは妖怪好きで、水木しげるが好きらしい。

ロバート・フロストは「詩とは翻訳で失われるもののことである」と定義した。オクタビオ・パスは「詩の翻訳などありえない。あるとしたらそれは再創造だけだ」という趣旨のことを書いている。エドワード・ゴーリーによる脚韻を多用したテクストを柴田元幸が短歌で訳すといった芸は、後者の典型例といえる。韻律を別言語に移植することはできないという命題は、多くの詩論や翻訳論でコンセンサスというよりも思考のための出発点になっているようにみえる。

しかし、ここで「現代詩手帖」(特集:韓国現代詩への旅)2026年4月号に訳出されたシン・ミナ「見たことのない種になって誤解される詩を書く(清水知佐子訳)」を繙いてみる。

お前が捕縛した意味がお前を匍匐し
私が補足した比喩が私を包囲し

この箇所は原文ではつぎのようになっている。

네가 포박한 의미가 너를 포복해
내가 포착한 비유가 나를 포위해

原文で韻が踏まれている箇所が、翻訳で読んでもきれいに再現されている。調べたかぎりでは、訳文の多くの箇所は辞書通りの直訳にみえる。こうした現象には東アジアの言語同士であるという根拠が核にある、と単純に説明することはできても、ここから広げられうるテーマ、その広げられ方は単純ではなく豊穣ではないかという予感がある。

先月の読売新聞の記事で、気色のわるくなるようなものに出会った。
「外務省は、日本の哲学や思想を海外に発信し、外交に生かす取り組みを始める。今年度中に哲学を解説した冊子を作成し、講師の海外派遣を目指す。国際社会で「知日派」を増やし、日本の主張が受け入れられやすい土壌作りにつなげる狙いがある。
日本文化を発信する独立行政法人「国際交流基金」が事業を担う。研究者を海外に派遣して外国政府の官僚や外交官に講義したり、その国の日本研究者と交流したりすることを検討する。派遣先は、東南アジアやインド、アフリカなど新興・途上国「グローバル・サウス」を想定している。
同省は「米国や中国など大国に価値観を押しつけられてきた新興・途上国にとって、調和を図る日本哲学は受け入れやすい」と説明する。海外で人気を集める日本の映像やアニメ作品に通底する自然信仰などの思想も「外交ツール」として活用できると見込む。(略)
 手始めに、日本近世の儒学者を研究する米国の大学教授を招待し、7月下旬に東京都内で講演してもらう。(後略)」
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20260704-GYT1T00182/

記事中の図には、「新興・途上国に照準」「日本の理解者を育成」といった文言がみられる。

想起したことを数点、述べていきたい。

『現代インドネシアを知るための60章』(明石書店)中、二次大戦中のインドネシアと日本の関係を扱う「日本軍政」の項には次のような記述がある(倉沢愛子執筆)。
「(引用者註:インドネシア)住民に戦争目的を十分理解させ、彼らの意識を変えるための宣撫工作や教化活動がおこなわれ、軍政監部宣伝部に配属された日本人文化人たちがこれを担当した。彼らは、規律、「頑張り」精神、滅私奉公、国家への忠誠、質素倹約など日本的価値観を教え込むとともに、日本の戦争目的の周知徹底に努めた。そして「大東亜」戦争は日本の利益のための戦いではなく、われわれの共通の利益と尊厳のための戦いであるとして、(略)「アジアはひとつ」などのスローガンがいたるところで叫ばれた。
(略)
こういった教化・宣伝活動を実施するための手段として、日本はまず、新聞、雑誌などの活字メディアを掌握した。朝日、毎日、読売など日本の大手の新聞社が占領地ごとに分担して経営を委託され、新聞発行にたずさわった。」

インドネシアで教養、思想がイデオロギーの道具として利用された時代は日本の敗戦とともに終わったのではないようだ。インドネシアの作家インタン・パラマディタがハーバード大で行った英語講演によると、スハルト政権下では女性活動家が大量投獄され思想集団も解散、女性の役割を規定・制度化するため様々な抑圧が行われたそうだ。くわえて、公の場また家庭内における“skill”や家庭の調和、また理想の/目指すべきイメージとしての「理想の母」が強調された。これは「教養ある良妻賢母」が近代日本の女子教育において賛美さるべき理想像とされたことと相似形に感じられる。とすると、インタンが話す“skill”とはいわば暴力装置としての教養に近いものではないのか。(“A New Direction of Feminism in Indonesia.” Harvard University Asia Center, April 20, 2022.)
https://www.youtube.com/watch?v=jvu_IboFCHY&t=1705s

国家からすれば、感化しやすい人々というのは都合のよい存在だ。柄谷行人が「思想は文学から出てくる」と述べたときには、そんなことはわざわざ言うほどのものなのか、と半畳を入れた批評家がいた。しかし、それは確認する価値のあることだったのだと思う。作家は人々に思想の芽をはぐくむから、国家にとっては都合の悪い存在、邪魔なのである。

朴槿恵政権下ではブラックリストによって検閲が行われており、そこにはハン・ガンなども含まれていたことが明らかになっている。

今年6月、来日中に会ったシンガポールの作家(公式サイトではqueer activistとも名乗っている)イン・シーシェン(Ng Yi-Sheng)は、イスラエルを非難するよう政府に促す文書を提出したら警察から警告の文書が来た、と自身のinstagramに昨年投稿している。現在もイベントなどに参加しようとすると警察から多くの質問が来る、と会った日に話してくれた。同じくactivistであるインのインドネシアの友人は、zoomなどオンラインのミーティングに参加しようとすると第三者によって“interfere”されるのだという。

同月、わたしが討論者として参加した中国の文芸関係のイベントでは、「政治や宗教などに関する話題は、配信が中断される可能性がある」と開催直前になって連絡がきた。討論のパートで韓国の作家が戒厳令の話題をし始めたときは、これは配信が中断されるのだろうか、と一瞬脳裏をよぎったりした。

日本政府は少子化対策を最重要政策に掲げ、低下が続く出生率の「反転」を目指しているそうだ。少子化が深刻化する状況をエクストポラレーションの手法で描破する村田沙耶香『殺人出産』(すでにイタリア語訳など外国語訳も出ている)や、アセクシュアルという価値観を探索する川野芽生のエッセイ集のような本が、いや、こうした書き手の存在が、(少なくともいまの)国家にとって都合のいいはずがあるだろうか。わたしたちは行動しなければならない。

i, and Le guin

ル=グウィンによるブログ記事、“To my Readers in Japan”。2011年、東日本大震災の直後、ル=グウィンの翻訳者である谷垣暁美さんの求めに応じて、日本の読者に向けて書かれたエントリーです。

日付は3月14日。読んだのは更新された当日ではなかったかもしれませんが、これを読んだ日のことは忘れようもありません。“There is an ocean between us, yet that ocean joins us.” 号泣して、と今パソコンで打ちながら、またあらたな涙が流れてくるかのようです。号泣して、あれ、私はなにを打とうとしていたのでしょう。

大学入試に合格してから少なくとも6年間、堕落しきって英語の勉強を放棄した自分にとって、英語のアルファベットとは線分と曲線の忌まわしい集合体でしかありませんでした。しかしこのル=グウィンの文章については、辞書も引かずに「意味が取れた」ことを覚えています。詩人らしい簡素な散文と感じたことも、後年になってからのあとづけではありません。

ひとつだけ気になったのは、谷垣暁美さんの名が“my translator-friend Akemi Tanagaki”と表記されていたことです。「谷」でtanaと読むような読み方はあるのでしょうか。

今年になってから、このル=グウィンが晩年になって始めたブログのエントリーを、現役の作家や批評家、友人たちが読んでコメントしていくポッドキャストIn Your Spare Time: From the Blog of Ursula K. Le Guinが始まりました。文字通り、ブログ記事が音読されるのです。オーディオブックが普及している文化圏では、ごく自然なコンテンツなのかもしれません。

現在、英語のポッドキャストであれば内容を問わず手当たり次第に聴いています。エピソードをひとつ聴いてみて、あの日のことが堰を切ったように思い出されてきました。3月14日の記事は、あの日のまま残っています。そういえば、当時のtwitterでは「助けて」といった言葉を最後に更新が途絶えたアカウントもあったのでした。

Akemi Tanagakiという表記に今回もあのときのように引っかかり、喉から小骨が生えてきました。複数のサイトで確認しても、「Tanigaki」が正しいようです。ということでメールを送ったところ(だれに?)、「ル=グウィンの遺族に修正してもらう」とすぐに返事が来ました。数時間後、ブラウザを開いてみると“my translator-friend Akemi Tanigaki”とたしかに一文字だけ変わっています。このエピソード、“To my Readers in Japan”はいまだポッドキャストでは音読されていません。放送されていたら、誤ったまま読み上げられてしまったはずなので、それを回避したことになります。

作者がすでに亡くなったサイトが更新されることは稀でしょう。しかし、あのときたしかに海を隔ていた人間の意志、つまり私の意志で、卒論で扱った作家の文章を一文字だけ変えてしまったのは、運命の不思議を感じます。

去年、教えている中学3年生に「みんな3.11っておぼえてる?」と聞いたら、男子生徒から即座に返されました。「覚えてるわけないじゃないスか、オレらゆりかごのなかですよ」。不思議そうに見つめられてしまいました。そう、単純計算すれば、覚えてるわけはありません。ただ、そのとき生徒たちがニコニコしていることに少しだけ、震度0.1未満の動揺を感じました。伝えていくべきこと、伝えなければならないことは、やはりあるように思います。No Time to Spareとは、そういうことではないでしょうか。

追記(8/25)
このエントリーをアップしたわずか一週間後、谷垣暁美さんが、“To my Readers in Japan”を読むエピソードがIn Your Spare Time: From the Blog of Ursula K. Le Guinで公開されました。ル=グウィンと谷垣暁美さんの交友のことを、エピソード冒頭の数分で(ル=グウィンの息子である)セオ・ル=グウィンが話しています。

一般書店ではあまり見かけない気がするものを二冊購入。金柄徹『韓国の若者と徴兵制』(慶應義塾大学教養研究センター選書)と水口良樹・柳原恵・洲崎圭子編『日本から考えるラテンアメリカとフェミニズム』(中南米マガジン、2025)。前者は価格700円。

購入しただけなので、以下は感想未満の泡。『日本から考えるラテンアメリカとフェミニズム』は執筆者は基本的に研究者。信頼できる内容の予感がする。

グロリア・アンサルドゥーアという、すごく気になっているけど未読の作家について扱われている章がある。インタン・パラマディタがLitHubその他で幾度も言及していて、「現代思想」『世界文学のフロンティア』で訳出されているが、邦訳は出ていない。2010年代の「早稲田文学」の座談会で、いま今福龍太が訳しているはず、いう話題が出ているが、企画はその後どうなったのだろうか。異言語混交のスタイルで書く作家で、言語ヘゲモニーの問題についても洞察が得られそう。
 
読んでいて驚いたこと。洲崎圭子「ラテンアメリカ文学、フェミニズム、そしてマチスモ」は「マチスモ」という語の使用の歴史について、ラテンアメリカ以外の地域を視野に入れながら言及している。アンサルドゥーアの未訳の本によると、アメリカ国内では「自分たちが劣っていて、無力だと感じると」、その「感情をすり変えて、チカーノを侮辱する」。そのときにしばしば使用されてきた単語が「マチョ」なのだという。

驚いたのは自分だけではないようで、座談会で水口良樹は、「マチスモ」という語がアメリカでは「チカーノを周縁化するために」用いられてきたのであれば、「ラテンアメリカの家父長制というものを、欧米がステレオタイプ的に貶めてきた部分があるという理解」が可能になってしまう。そのように困惑を隠さない。周囲の地域がジェンダー後進国であると名指すことによって、自分たちを内省する機会は失われ、そのまま安心して日々を過ごすことができる。

ではこのような議論は、どのように感情移入しうるのか。比較的若い世代が、自分たちより上の世代がジェンダー的に非常識な発言をしているのを目にしたとき、「昭和の人間は」とか、「昔はコンプライアンス意識がなかった」などと述べることがある。それを世代論に帰すことによって、少なくとも自分はそのような問題あるコミュニティには属していないと切り離すことができる。包丁でニンジンでも切りおとすように、簡単に。

周囲の世代がジェンダー後進国であると名指すことによって、自分たちを内省する機会は失われ、そのまま安心して日々を過ごすことができる。ゆえに、そのまま構造は温存される。

クラウドファンディングをやっていると、泣きながらパソコンで文章を打つことが多くなる。

泣くと本当に涙が出る(中村葉子)

涙とはうつくしい事故 ひさびさに人と会いたる四月二日の(佐藤弓生)

近年、「情動論」という分野が注目されているようで、論集なども何冊も出ている。なぜ、涙をテーマにした文学アンソロジーが出ていないのだろう。私たちの好きな孤独を、濾過せずに受けとめてくれるような精華集。深夜にひとり泣きたくなったときに、手に取れば代わりに泣いてくれるような本。

深夜AIに、「理性の対義語をおしえて」と聞いてみた。感情、本能……案の定、どれも違う。理性の対義語は、涙だと思う。

エーヴァ・リンドストロム『ぼくらをからないで』(よこのなな訳、岩波書店)

直感で手に取ったのだけど、『jem』3号で企画を進めている「海外文学と言語教育の交点」で取り上げてみたいくらいの本だった。

仮に反戦や平和教育の絵本だと呼んでみれば、じつは潜在的な読み手、読めば気に入ってくれるかもしれない読者たちを取りこぼすこともあるかもしれない。散文的な一、二行のメッセージに煎じ詰めた瞬間、エッセンスは失われる。でも、この本の射程はもう少し広いはずだから、そういう風には紹介をしたくない。

競争原理の相対化とか、カテゴリに押し込めることの暴力とか、友だちとちがう趣味をもっていてはいけないの?という問いとか、多くの要素がたぶんこの本には詰まっている。

友達をコンパスで刺してはいけない、これはおとながことばを尽くせば、きっと理解してもらえる。でも、もう少しみえづらい、フィジカルではない、けれど構造的な暴力に、早いうちから気づいてもらえるにはおとなは何をしたらよいのだろう。

戦争や虐殺はよいことだと思うか。二者択一で迫れば、小学生の多くはノーと回答するのではないだろうか。そもそも、道徳教育のヒドゥンカリキュラムとは本音と建前の使い分けを強化するはたらきを帯びてきたことをも、ここで思い起こしてみたい。けれど、日常生活のなにが戦争につながるかを、おとなの意図によってじっくり考えさせるのは簡単ではない。

そこで、シマリスくんならぬ、伝え方くんの出番になる。岩波書店サイトには、対象年齢は「児童」としか書いていない。けれど、語彙のレベルでは、小学低学年ならばたぶん読むことができるだとう。くり返すと、競争原理の相対化、ということばをこの本が想定する児童にわかるようなことばで言い換えるのは簡単ではない。辞書を渡しても意味はない。しかし寓話は、なにかにそれとなく気づかせる契機をあたえてあげることができる。

大半の書評子にとって、絵本の絵の部分の魅力を端的に伝えるのは困難だ。だから、内容と形式を切り離すという必要悪をおかすことになる。けれど、荒井良二が「ぼくのあこがれ」と呼び交わし、アストリッド・リンドグレーン記念文学賞を受賞しているというのなら、手に取る理由はもう十分ではないか。いや、現在の出版業界にあっては十分ではないのかもしれない。だから、いい本だった、とここに記しておきたい。

阿部大樹+タダジュン『翻訳目録』読書会レポート

昨年友人と行った、阿部大樹+タダジュン『翻訳目録』(雷鳥社)を課題とした読書会の簡単なレポート。以下文中の登場する「私」などの一人称は、このブログの筆者とは限りません。許可の上でまとめています。

★全体の感想
・文章から入る人、絵から入る人両方にとって楽しめる本。はじめに企画した編集者はすごい
・本として凝っている ページごとに難易度にバラつきがあっておもしろい
・絵本という形式の妙

★個別のページについて
・p18-19 
アラビア語では地震のことをジルジラと言う。ABAB式の擬音語だが、地震以外にこのことばは用いられない

韓国語も、日本語ほど多くはないが、ABAB式のものがかなりある(韓国の友人談)

「さらさら」のようなABAB型の語は、boing boingなど英語に少ないかもしれない。けれどそのことは英語という言語がリズミックでないことをまったく意識しない。crash, thudといった語を見ればネイティブはそこに音を聴き取る(マンガの英訳におけるオノマトペの処理はその例証かも)。あるいはbreak it upといったCVCのリズムのもたらす効果も考慮に入れてみると、単に「擬音の在り方」がことなるだけかもしれない

宗教における祈りのことばの反復性とスーフィズムの起源の関係

・P54-55
阿部さんのこのスタンスが好き いろいろな分野にあてはめられそう このページが好きな人が複数人

・P94
わたしが仕事で関係している業界では「濡れ性」ということばがある

・ページ数失念
ウィンタミン ビタミンなど「ミン」はケミカルな感じがする

・p24
アラビア語では接辞ごとの意味が強固にきまっている 古英語、ノルマンフレンチ由来の差など歴史的背景もあるかもしれないが、英語はけっこういいかげん?

★疑問点
・p90
「盛り込むことのできる情報は増える傾向にある」理由は、接続詞の数を減らせる以外に理由はあるのか?ふだん意識しないが、「段落」は縦書きを前提とした概念で、段が落ちると書くのはおもしろい 

・漢字はほんとうに表意文字と呼べるか

・p101
「ザンコクキワマル」を「中欧的な音」とする根拠はどこにあるのだろう

★ワークショップ「みんなの翻訳目録をつくろう」コーナー
・チェスの駒の動きの評価で用いられる言語について

・「butterfly in stomach」英語では緊張というニュアンスが強いが、ドイツ語ではたとえば恋愛中でハッピーなときに用いられる どうして言語によってちがうのか

多和田葉子の、あるインタビュー記事のタイトル「言葉の裡にひそむドラゴンの逆鱗に触れたくて」→ふつうはだれも人の「逆鱗に触れ」たくはないはずなので、とても面白い アジアの龍とヨーロッパのドラゴンも差があるはず
…ほか、要約できないくらい様々なコメント

★参考になるかもしれないもの(参加者間で後日シェアしたもの)
・接辞の生産性と透明性について(p24)
https://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/2011-11-18-1.html
堀田隆一さんが英語史の観点から面白い記事をたくさん書かれています。トップページから「接辞 生産性」で検索するといろいろ出てきます。

・助数詞について
助数詞は日本語、中国語、韓国語以外にタイ語、ユカテコ語、アメリカ大陸先住民の言語などにあるそうですが、「環太平洋」という軸を考慮すると見えてくるものがある、という話題は松本克己さんの著作にあると友人が言っていました。

・音象徴について
川原繁人さんが一般向けにさまざまな本を書いています。

・ZINE『tanec』のチェコ特集
チェコ語のことわざについての記事が面白いです。

2025年の収穫(になる前のもの)

二年に一度のペースで読んだものの収穫をブログに掲載している。常に飢えていて、発育不全で、なのに咀嚼をするのに人一倍時間がかかる。前回から一年しか経っていないので載せないつもりでいたのだけど、けれど少し並べ始めるとろうそくに灯がともる。信じられないことに〈ほんとうに書かれてしまった〉書物への感謝の意を込めて、こっそりと掲げてしまおう。

・★は別格で愛着があるもの
・新刊かそうでないかを問わず、該当する年に読んだもの
・自分が編集した『jem』に収録されている作品や文章の類は外す

今回は収録情報は記さない。様々な事情でここに挙げないものがある。

『チェスワフ・ミウォシュ詩集』★
フレーブニコフ「カー(抄)」★
フレーブニコフ「ザンゲジ(抄)」★
クルチョーヌィフ「太陽の征服」★
エレーヌ・シクスー「サヴォワール」★
エルゼ・ラスカー‐シューラー「バグダードのティノの夜」★
楠勝平『彩雪に舞う…』★
麦原遥『逆数宇宙』★
山本沖子『花の木の椅子』★
関口涼子「詩人が翻訳家である十二の理由」★
阿部大樹『Now Loading』
金田理恵『ぜんまい屋の北京 道ばたの椅子』★
糸川乃衣「私は物語を殺さない」「珠洲に行ってきた話」(note記事)
市川沙央『ハンチバック』
ル=グウィン『所有せざる人々』
オクテイヴィア・バトラー『血をわけた子ども』
キム・ボヨン『どれほど似ているか』
デュナ「二番目の乳母」(未訳)
Wole Talabi “Saturday’s Song” 
Nalo Hopkinson“The Most Strongest Obeah Woman of the World”
ファン・モガ「透明ランナー」
シルヴィア・タウンゼンド・ウォーナー「五羽の黒鳥」
エカ・クルニアワン『虎男』(未訳)
ジャン・フェリー『虎紳士』★
朱天心「想我眷村的兄弟們」(未訳)
濱田麻矢「世紀末台湾の女学生――朱天心『古都』」(『少女中国』)
ジギー・ゼシャゼオフィナザブリスキー「公開法廷」
エラ・ヤング『Flowering Dusk(抄)』(館野浩美note)
ノヴァイオレット・ブラワヨ「ブダペストをやっつけに」
河野道代『思惟とあらわれ』
岡本啓「すがた」
季村敏夫「生かされる場所」
高貝弘也「白秋現代語訳」★
高田怜央『ANAMNESIAC』
小笠原鳥類『テレビ』
奥間埜乃『黯らかな静寂、すべて一滴の光』
ソホラーブ・セペフリー「住所」
デルモワ・シュワルツ「デルモワ・シュワルツ詩二篇」
小原奈実『声影記』★
大滝和子『竹とヴィーナス』★
水原紫苑「第一歌集『びあんか』より百首」(『星の肉体』) ★
角宮悦子『銀の梯子』
小川双々子『囁囁記』
阿部完市『軽のやまめ』
眞鍋呉夫『雪女』
高柳聡子×アレクサンドラ・プリマック「「あなたへ」と「あなたから」のあわいで」(「webふらんす」) ★
金景彩+孫眞元「文学とジャンルの(不)和──1990-2000年代の韓国におけるSFの位相」
斎藤真理子『隣の国の人々と出会う』
今福龍太「砂漠と書物 ジャベス『書物への回帰』」
沼野充義「さまよえる境界、捏造された幻影」
橋本輝幸「さよならアフロフューチャリズム」(再読)
秋草俊一郎・戸塚学編『教科書の中の世界文学』
角悠介『呪文の言語学
高島鈴・水上文編『反トランス差別ZINE われらはすでに共にある』

・補遺 リファレンス性の強い書籍含め、通読はしていないが現在進行形で影響を受けているもの
『澤』137号 特集永田耕衣
山口裕之編『地球の文学』
英詩研究会『Right Margin』
日本比較文学会学会編『越境する言の葉』

番外
ジョン・クロウリー『リトル、ビッグ』(1)(原書未読了)
イベント「随筆邂逅ーーZuihitsu、Haibun、世界文学、そして詩の現在地」(蜂飼耳×堀田季何×佐峰存×宮崎智之×平川綾真智)
「イラン現代詩を語る会」(8月)

現在、複数の映画館で「ネリー・カプラン・レトロスペクティヴ」と題し、これまで劇場で観ることが難しかったカプランの映画四作が上映されている。これを機に、カプランの小説にも脚光が当たるとうれしい。

「ネリー・カプラン・レトロスペクティヴ」の公式SNSではカプランの小説邦訳はふたつであるとされているが、雑誌『魔王』2号(書肆不死者画報、2003)に五篇が訳されている。特集名は「魔女のいる文学史」だが、編集後記で女性シュルレアリストの特集であることが明記されている。また筆者は未見だが、創刊号ではウルスラ・ナグジェフスキーとウニカ・チュルンについての特集が組まれたと記されている。

関心を持つ読者、読んだらきっと驚く読者もいると思うので、特集部分の目次をここに転記する。

A・ピエール・ド・マンディアルグ「女流シュルレアリスト」宮川尚理訳
宮川尚理「黒い哄笑―ベレンとネリー・カプラン」
ベレン掌編作品集】収録作:「絆の歓び」「キルケ―の洞窟」「疲れる事情」「カインとラ・ベル」「ある出会い」
宮川尚理「ベレン書誌」
加波都るみ「青い手袋の婦人―リーズ・ドゥアルムとアンドレ・ブルトン
リーズ・ドゥアルム「真実の日」加波都るみ訳
水引幸大「春雷の聞こえる午後 性を謳った女流詩人鈴木しづ子について」

ほかに特集外の記事として、相馬俊樹の幻想美術紹介、水引幸大の奇書をめぐる連載、丸木砂土の評論の復刻。

カプランの小説が秀作揃いなのに加え、比較文学を専門とする宮川尚理「黒い哄笑―ベレンとネリー・カプラン」はブルトン、カプラン、アベル・ガンスの三人の写った写真はじめ6枚の豊富な図版、『官能の貯蔵庫』発売時に本に折り込まれたベレンによる架空のプロフィール文(ベレンのエッセンスが凝縮されたフィクショナルな散文)の翻訳などを備えた卓越した作家紹介/伝記/論考となっている。「ネリー・カプラン・レトロスペクティブ」のパンフレットに鈴⽊雅雄が寄せた文章で触れられているブルトン、スーポー、マンディアルグらとの関わりにももちろん言及あり。

翻訳家垂野創一郎による、この特集に触れたブログ記事を紹介する。なお、この記事中のK氏とは筆者のこと。


「(略)K氏(ブログには書かないでくれと頼まれたのでここではイニシャルのみ)から、「ベレンの翻訳が載ってますよ」と教えてもらった『魔王 第二号 魔女のいる文学史』をようやく入手した。限定三百部。造本はAtelier空中線の間奈美子さん。発行所は書肆不死者画報という怪しさ満点のところである。しかしどの記事も驚くほどレベルが高い。

ベレンの翻訳も期待を裏切らないすばらしいものだった。悪徳の中のイノセンスをおしゃれな文体で追求する掌篇には中井英夫を思わせるものがある。自己の神話化とか昇華されたナルシシズムとかも共通している。いまでは入手困難になった雑誌だけでしか読めないのはあまりに惜しい。願わくはこれを訳された宮川尚理氏の手によってベレン(ネリー・カプラン)の翻訳が単行本としていつか出んことを。」

プヒプヒ日記「魔王 第二号 魔女のいる文学史」

 

『jem』2号内容紹介(簡易版)

11月下旬、ついに『jem』の第2号を刊行します。総力特集は「「世界の中の日本文学」の現在」、小特集は「覚醒する韓国SF」。

 

【内容紹介】
日本語文学の普及と、海外に眠る煌めく原石の発見のための文芸誌。雑誌を創刊するに至った経緯についてのエッセイが『群像』に掲載されるなど、注目を集めています。
 
制作資金を補填するためのクラウドファンディング(推薦コメント:秋草俊一郎、金原瑞人松永美穂、吉田恭子)も成功を収め、満を持しての登場となる2号は総力特集〈「世界の中の日本文学」の現在〉、小特集「覚醒する韓国SF」。
 
〈「世界の中の日本文学」の現在〉では世界中の翻訳家、研究者に協力をお願いし、アラビア語インドネシア語ポーランド語、フィンランド語、フランス語、英語(2000年代以降の現代詩)、中国語(簡体字幻想文学)という計7語圏について、「日本文学が世界でどう読まれているか」をテーマとした論考を一挙掲載します。ワルシャワ大学で教鞭をとっている研究者、日仏翻訳文学賞、日本翻訳大賞を受賞している翻訳家など高度に専門的な知識を有する執筆陣による、信頼性の高い、充実した記事を集成します。
 
古今和歌集から川上弘美伊藤比呂美までを翻訳するアンナ・ザレフスカ選出の「日本近現代文学ポーランド語訳主要100冊」、詩歌や自費出版物までを含める網羅性をそなえた上山美保子作成「日本近現代文学フィンランド語訳リスト」はじめ、膨大な量の書誌やグラフや表やデータが付されている保存版です。主要文芸誌や学術論文でも、ここまでの規模のものは現在発見できないという水準を目指しました。
 
小特集〈覚醒する韓国SF〉では、韓国科学文学賞の優秀賞を受賞したキム・ヘユン(日本初紹介作家)「ブラックボックスとのインタビュー」を一挙掲載。人間の意識を機械に移植することが可能になった社会を舞台にした、美しく、深い余韻を残す傑作です。また批評家イ・ジヨンによる、韓国SFの巨大な流れを包括的に論じる大ボリュームの本格論考をこちらも一挙掲載します。韓国SFの隆盛を社会や現代史との関連で知ることができるだけでなく、未訳作のガイドとしても必携の内容です。また、さらに多様な作家の紹介が進んでいくことを願って、日本では未訳の作家ふたりに創作観などについて書き下ろしの短文を寄せてもらいました。


【目次】
まえがき 変化の風が吹くとき
総力特集 「世界の中の日本文学」の現在
Ⅰ 
インドネシアにおける日本文学受容の一側面 太田りべか
アラビア語圏における現代日本文学の翻訳―その歩みと今 ラナ・セイフ
ポーランドにおける日本近現代文学―『不如帰』から李琴峰まで アンナ・ザレフスカ 芝田文乃
日本近現代文学ポーランド語訳主要100冊 アンナ・ザレフスカ選
フィンランド語に翻訳された日本の文学作品についての一考察 上山美保子
日本近現代文学フィンランド語訳リスト 上山美保子作成
Ⅱ 
二〇〇〇年以降の日本現代詩の英訳状況と課題 田中裕希
中国における日本の幻想文学の受容 劉佳寧
翻訳家インタビュー パトリック・オノレ 聞き手=木村夏彦
私たちの知らない所で日本文学の花は咲いている―種子への讃歌としての小さなリファレンスガイド〈1〉 木村夏彦
 
小特集 覚醒する韓国SF
ブラックボックスとのインタビュー キム・ヘユン 廣岡孝弥訳
韓国SF―ジャンルの固有性と現代的テーマ意識 イ・ジヨン 廣岡孝弥訳 
未訳作家アンケート ソ・ユンビン/へ・ドヨン
執筆者略歴
 
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リンク
・公式noteの紹介記事
・BOOTH(紙版の通販)の『jem』商品ページ
・クラウドファンディングプロジェクトページ(内容予告などを活動報告の欄に掲載しています)
 
頒布場所:現在BOOTHで通信販売を行っています。
 
頒布価格:2100円税込(A5版、200ページ)
装画、表紙デザイン:YOUCHAN(トゴルアートワークス)

4月7日発売の『群像』5月号に、「蘇生と時差」という題で『jem』を創刊した経緯についての短い随筆を寄せています。自分はあくまで寄稿してくださった方の「原稿をお預かりした」身分に過ぎず、このような場に登場していいものだろうか、とも思いました。ただ、どういう経験が雑誌を始めるきっかけになったかということはこれまで語ってこなかった部分でもあり、自分なりに思考して書いてみました。手に取って頂ければ、これ以上にうれしいことはありません。

 

その他、『jem』に関係した情報につきましては公式noteをご覧ください。

A ee mi『Platonic Love』

 

この短文では、台湾の俊英女性アーティスト、A ee miのフルカラー漫画作品を紹介する。目をみはるような異能の色彩センスと強固な批評意識が実装されたジェンダーSFの秀作である。

まず物語冒頭では、宏大な無辺の宇宙をバックに、作者による序文が白抜き文字であらわれる。2017年、台湾の司法院は現行の法律が同性同士の結婚を許可しないという事実を差別にあたると判断した。保守勢力は同性婚の法制化が施行されるに先んじてそれを阻止すべく国民投票に持ち込んだ。本作は、2018年に行われたそうした国民投票の直前に描かれた――。

台湾の司法院と作家の住む地域をわざわざ言明しているところからも、この序文そして作品が海外の読者を意識していることがすぐに了解される。物語全体が現状への強い批判として組み立てられているという事実がすでに示されているのだ。

ページをめくると、舞台はとつぜん神話空間へと移行する。ギリシャ神話においては人間は奇妙な球体のごとき似姿をとり、四本の手と脚を持つ。男、女、そして第三の性として両性具有(アンドロギュヌス)が存在するが、この両性具有の力の強さを目にしたゼウスは脅威を感じ、おのおのを男女へと切り分けてしまう。この時以来、半身に分けられた男女は互いを不断に欲し、焦がれるように探し求めあうようになる。ショッキングピンクとその補色である緑を用いてここで描かれるアンドロギュヌスは妖しく蠱惑的、鳥肌が立つほどにグロテスクで、一度でも見てしまえばこの像を忘れることはできないだろう。ここに本書の固有性があるのだと、まずはちいさな声でさけびたい。

さて、ここまでは、プラトンがその著書『饗宴』においてアリストファネスの口を通して語らせている、いわば一挿話である。

しかしさらにページを繰ると、舞台はふたたび星々のまたたく銀河へと戻る。今度は無数の惑星を登場人物に見立てたうえで説明的なモノローグが続いていくのだが、この語り手はなんと、ギリシャ神話における半身と、天体に作用する重力は相同であると言い切るのである。

いわく、たがいにはるか離れた星の肉体はつよく惹かれ合っている。同性恋愛の惑星も、異性恋愛の惑星もパートナーと混交し同一化するちからをそなえている。しかし宇宙には破壊をもたらす存在が周遊しており、この存在は同性恋愛の惑星だけを標的として攻撃、破壊を企てる。強大なこのちからは、法律、宗教、社会などさまざまな領域においても発現する(註:コマをみれば、この記述は社会差別のことを表しているとわかる)。

続いて物語は近未来へとさらに場面を転じる。この社会においては、すべての人間は産まれ落ちたときから手の甲のそばにしるしを持っている。男は緑、女は赤――。異性愛こそ普通、同性愛は「異常」とされ同性愛カップル間の結婚も禁じられている。ただしこの社会では、すべてのひとはそのしるしによって不思議なちからをも授けられている。鏡に映ったおのが肉体に刻まれているしるしを凝視(ルビ:みつ)め、つよく念じれば宇宙旅行ができるのである。

本作における主人公はここにきてようやく登場する。短髪に筋肉質の手足、ピンク、オレンジ、黄、青、緑のコスチュームと装身具を身にまとわせたこのキャラクターは、多元宇宙をあまねく探しても出会える可能性の限りなく低い片割れをもとめて旅に出る。

以後の展開は、比較的単線的でわかりやすいプロットをそなえた探求物語(行きて還りし物語)のかたちをとっている。それぞれの旅路には通し番号が振られていて、片割れを探す旅がバッドエンドに終わる度に同性愛の主人公は再度姿をまったく変えて新たなる旅へと立つ。宇宙旅行ではどこに飛ばされるかは予想できないことが作中で説明されるが、本書において主人公は完璧性の恋人を求め、不自由なままに次々と転身していくのだ(だから本書のタイトルとなっている「プラトン的恋愛」は、純化された精神的恋愛への志向という点で語義通りの意味で用いられている)。

14度目の旅では舞台は鬱蒼としたジャングル、主人公はキュートで愛くるしいピンク色の恐竜として世界をさまよう。この旅では片割れを発見するところまでは辿り着くのだが、ふたりが抱擁するはずのその瞬間、予想外のできごとによって悪夢的な結末をむかえてしまう。

さて、ここでこのシーンひいては本作と呼応する台湾の社会状況について解説してみたい。

台湾が、現在アジアのなかで同性婚を唯一法的に認めている地域であるということはニュースなどにより比較的よく知られていると思う。これを聞くと、台湾はリベラルで国民の誰もがセクシュアルマイノリティに寛容な、“進歩的な”国だという印象を持ってしまう向きも多いかもしれない。けれど、鈴木賢『台湾同性婚法の誕生  アジアLGBTQ+燈台への歴程』(日本評論社)および赤松美和子、若松大祐編『台湾を知るための72章 第2版』(明石書店)を繙いてみると、同性婚合法化へのけして平坦ではなかった道のりが視えてくる。同性婚をめぐる2018年の国民投票では同性婚推進派が大きな差をつけられて敗北している(たとえば、「民法婚姻を男女に限定」の項目では766万対291万で同意票が上回っていた)。この際、反対派は日本円で4億円を超えていたと推察される巨額の広告費を投じ、「同性愛はエイズ、およびそれがもたらす死の原因になる」という物語仕立てのCMをテレビでくり返し放送した(海外のキリスト教関係の団体から資金援助があった可能性も鈴木氏の本では示唆されている)。『台湾を知るための72章 第2版』における「性的少数派」の項(劉靈均執筆)によると、偏見にみちたこうしたネガティブキャンペーンにより自殺やリストカットに追い込まれた当事者の数は100人以上だったと言われる。A ee miの作品において「同志(台湾ではもともと「同性愛者」の隠語だったが、90年代以降「性的少数派」を表すように意味が広がった)」に悲劇が降りかかるのはこの現実世界とそのまま地続きのできごとであり、そこに境界線は存在しない。

以上、結末に触れないかたちで作品ならびにその理解に通じてゆくと思われるコンテクストを紹介してきた。15度目以降の旅については、それぞれの読者がその目で展開を見届けてもらえればと思う。自由を希求する切なる思いを銀河のなかに結晶させる光景、それに立ち会えるのはきっと幸福なことだ。

散文的なメッセージに還元されうるレイヤーをすべていったん留保しても、間近で視る地上3メートルの虹のように鮮烈なこの色彩感覚(visual logic)に恵まれた漫画はきわめて稀少であるようにみえる。そうと気づかないうちにこうした作品をくるしいほどに渇望している世界中の読者に、光輝とともに発見されてほしい。

※Paradice Systemはアメリカの出版社だが、本書は出版社のサイトから通販で買えるほか、国内ではブックギャラリーポポタムおよびそのネット通販で購入することができる。また、筆者は以上の英語版で読んだが、中国語版は台湾のwildflower bookstore(荒花書店)から刊行。後者は国内ではLONLINESS BOOKSの通販で買うことができる。

参考図書
鈴木賢『台湾同性婚法の誕生  アジアLGBTQ+燈台への歴程』(日本評論社、2022)
赤松美和子、若松大祐編『台湾を知るための72章 第2版』(明石書店、2022)
プラトン『饗宴』(新潮文庫、2006)
多田智満子「かのオルフェウスも言うように」『書物の王国 両性具有』(国書刊行会、1998)
(初出:海外マンガ情報誌『漫海』Vol.4、2024)

 

 

大滝和子歌集『銀河を産んだように』勉強会のために作成したハンドアウト

とある勉強会のために作成したハンドアウトですが、参考までに転記しておきます。本来は縦書きで、改行位置以外は手を加えていません。

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大滝和子『銀河を産んだように』を読む

1.primitiveness(原初性)
つい最近まで、月にはウサギが住んでいた。20世紀後半以降、人工灯が都市を覆い、科学によって事象を峻別する「合理的」思考が根付くのに伴い自分たちの運命を星占いに求める人間も少なくなった。Youtubeにひとたびアクセスすればいまや容易に火星の表面を観ることができる。野外で星の運行を眺める時間が減るにつれ、人類は以前より宇宙に対して畏怖を感じなくなったのではないか。サイエンスフィクション(量的には1950年代に黄金時代を迎えたとされる)がフォーミュラフィクションの色彩を帯びて以降、作家がたとえ宇宙を舞台として設定しても、それが単なる書き割りであることも極端な例ではなくなった。大滝和子が「銀河」「惑星」「光年」「地球」という語彙を用いる時、そこにはほとんど常に稀少なプリミティヴネスが保持されてはいないだろうか。

創作とは鬼才の独創の世界である限り、それを持って世代ごとの想像力を論じるのには危険がつきまとう。しかしたとえばともに1930年代生まれの詩人、矢川澄子や〈遊星の人〉多田智満子が「宇宙」と唱えればその瞬間、読者をとり囲む宇宙は実際に鳴動するという気がする。宇宙に対する感覚に世代差は関係するのか。あるいは、それについて検討することに意味はあるのか(大滝和子は1958生まれ)。

2.巨視的と微視的の往還/極小と極大の一瞬

初恋に韻ふみて恋う 金星軌道のかたちの指輪ひだり手に嵌め

迷いつつ脈打つわれの肉体が白点となる距離もあるべし

麦畑腕の帆はりてふりむけば背中のうしろに広がる未来

サンダルの青踏みしめて立つわたし銀河を産んだように恋しい

宇宙線に髪梳かれいるここちして白木蓮の公園めぐる

あしたへの遠近法の坂道をユークリッドと腕くみ進む

光年を離れまたたく現実をねむれぬ夜の窓から仰ぐ

銀河が産まれるさま、あるいはヴァイオリン状の人類(それとも人類状のヴァイオリン?第二歌集タイトル「人類のヴァイオリン」より)をたとえば小説やナラティブとして叙述するには、必ずある程度の語数が必要とされる。しかし詩歌であれば、直喩であれ隠喩であれ、「銀河を産む」は一瞬で発動してしまえる。こうした詩歌の強みを非凡なかたちで活かしているのがこの歌人の美点ではないか。

〈直喩〉
吾ひとり影うつされて過ぐる晩よ輪廻のごときジャズ浴びて寝る

スカートがわたしを穿いてピクニックへ行ってしまったような休日

指柱それぞれ離し眺めおり手のひらという吾の神殿 

〈隠喩〉
画布上に銀河大の疑問符を寒色に塗りこめて部屋でる

眠らむとしてひとすじの涙落つ きょうという無名交響曲

相対性理論を習うまなざしの二億秒まえ飼っていた猫」に着目してみる。物理的な近景・遠景の往還だけではなく、時間軸においても現在/悠久、未来/太古を歌人は瞬間的に移動してみせる。「ボールの起源たどりてゆけばそのむかしアダムとイヴに食われた林檎」に見られるように、変哲のない日常の事物を眺めても「起源」を幻視してしまう。スポーツをも叙事詩に流転させてしまう。

論点:レポーターはひとまず巨視的と微視的という二分法における、運動や反転というよりも一瞬の変容のようなものを作者のセントラルモチーフとして捉えているが、これは妥当だろうか。二分法という理解で取りこぼすものも多いかもしれない。同時に、カメラが線的にズームイン/アウトするようなイメージを結ぶ歌はほぼ見つけることができなかったように思う。

3.「隔たった」古代文明、神話への関心
エジプト神聖文字の石碑に刻されし鳥さわさわと水際はなる

プラトンより遠くから吹く風に散り桜は粒子運動をする

ペルシア語はなしてみたき舌先をもてあましいる春のゆうぐれ

秋風にきよく額をみがかせてアテネの神話おもいておりぬ

て・に・を・は、と舌より分泌しやまざるアルタイ語族ひしめく電車

神話や異国、文明のモチーフは頻出するが、たとえば東南アジアや中国、アフリカなどの国・地域よりも頻度としては古代ギリシアや中東などが言及されることが多いようにみえる。地域名がなくても「羊皮紙」「角笛」といった言葉が登場する歌は多い。これはなにを意味するのか?「プラトンより遠く」という語法からは、作者がプラトンを遠い存在として捉えているとひとまず見て妥当だろうか?いずれにせよ、こうした固有名詞のおおらかで自在な召喚が大滝ミクロコスモスの悠久性に寄与していることは間違いないのではないか。

論点:特定の文明、地域への関心はなにを意味するのか。

4.その他細かなトピック
・細かな技巧面:なにを「ひらく」か、あるいは表記上の工夫

修道院の塀しろませたる塵の上いっぽんの指触れつつあゆむ

こうした「ひらきかた」がおおらかさ、やわらかさに寄与しているか。歌集中では、読み方が難しい漢語などはほぼまったく使われてないように見える。

・科学への関心、形而上学言語学用語の多用
こうした語を好んで使うとはいえ、ペダンティックというよりは身体性、おのが肉体を出発点としていると言えるだろうか?

肉体の文法かなし 草汁と汗がまじる白いTシャツ

向日葵の高きにありて素枯れゆくひとつの季節はひとつの人称

あじさわう目からあふれるH2O つめたき鍵を遠因として

・作者の文学的バックボーン
宮沢賢治(の作品世界)への言及がとみに多い? 
アニミズム、交響性という共通点?
教室の窓いっせいに拍つ驟雨かがようバッハの楽となりたり

4.以上の論点に回収されない秀歌(恋愛モチーフ、その他)

17進法で微笑し目をそらすもう少しはやく逢っていたなら

《夜まで》の《まで》がいっぽんの楡となりきみへきみへと葉擦の音は

きみの名と同音である抽象語ふとさりげなく会話に入れる

ハーブシャンプーしたての髪を拭くわたし12種類の声で歌える

平行四辺形の女がやってくる 並木道を泣きながら

天文台学術員はわれに云う みどりのムーンのぼる異星を

資料
谷川俊太郎「二十億光年の孤独」(1931生、詩集は1952)
人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする
 
火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或いは ネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ
 
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
 
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
 
宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である
 
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした

大学時代のゼミの友人たちと。「東京人」に連載されている池澤春菜「東京異国ごはん巡り」11月号で紹介されている、アラブ・パレスチナ料理「アルミーナ」。オーナーはイスラエル生まれのパレスチナ人の方。この連載は食文化についての歴史的な視点からの記述や社会情勢への言及を含んでおり、字数はごく短いけれど面白い。パレスチナ人は東京に12人、日本全体でも82人のみで、みんな顔見知りなんだそう。温かいヤギのチーズケーキ、クナーフェは今まで食べたどんな食べ物にも似ていなくて、爆発しそうな味。絶対おすすめ。