『jem』創刊号についてのお知らせ

12/1の発売日に文学フリマ東京39頒布分、通販分ともに完売した『jem』創刊号ですが、このたびBOOTHにて少部数ですが通販を再開しました。どうぞよろしくお願いいたします。特集は「未来視する女性作家たち」、小特集として「東方幻想の世界」。詳細は公式noteをご覧ください。執筆者一覧(五十音順):秋草俊一郎、阿部大樹、あわいゆき、石川美南、礒崎純一、大島豊、木海、岸谷薄荷、木村夏彦、鯨井久志、焦陽、白川眞、菅原慎矢、高山直之、垂野創一郎西崎憲、パウ・ピタルク・フェルナンデス、平山亜佐子、ヘレン・ホラン、堀田季何、増田まもる、マヌエル・アスアヘアラモ、ミミ・シェン、山口真果、山本貴光、劉佳寧、ローレル・テイラー、渡邊利道、王子豪

 

リンク
・BOOTHの『jem』創刊号商品ページ
・雑誌内容の詳細な紹介(公式note内)

大滝和子歌集『銀河を産んだように』勉強会のために作成したハンドアウト

とある勉強会のために作成したハンドアウトですが、参考までに転記しておきます。本来は縦書きで、改行位置以外は手を加えていません。

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大滝和子『銀河を産んだように』を読む

1.primitiveness(原初性)
つい最近まで、月にはウサギが住んでいた。20世紀後半以降、人工灯が都市を覆い、科学によって事象を峻別する「合理的」思考が根付くのに伴い自分たちの運命を星占いに求める人間も少なくなった。Youtubeにひとたびアクセスすればいまや容易に火星の表面を観ることができる。野外で星の運行を眺める時間が減るにつれ、人類は以前より宇宙に対して畏怖を感じなくなったのではないか。サイエンスフィクション(量的には1950年代に黄金時代を迎えたとされる)がフォーミュラフィクションの色彩を帯びて以降、作家がたとえ宇宙を舞台として設定しても、それが単なる書き割りであることも極端な例ではなくなった。大滝和子が「銀河」「惑星」「光年」「地球」という語彙を用いる時、そこにはほとんど常に稀少なプリミティヴネスが保持されてはいないだろうか。

創作とは鬼才の独創の世界である限り、それを持って世代ごとの想像力を論じるのには危険がつきまとう。しかしたとえばともに1930年代生まれの詩人、矢川澄子や〈遊星の人〉多田智満子が「宇宙」と唱えればその瞬間、読者をとり囲む宇宙は実際に鳴動するという気がする。宇宙に対する感覚に世代差は関係するのか。あるいは、それについて検討することに意味はあるのか(大滝和子は1958生まれ)。

2.巨視的と微視的の往還/極小と極大の一瞬

初恋に韻ふみて恋う 金星軌道のかたちの指輪ひだり手に嵌め

迷いつつ脈打つわれの肉体が白点となる距離もあるべし

麦畑腕の帆はりてふりむけば背中のうしろに広がる未来

サンダルの青踏みしめて立つわたし銀河を産んだように恋しい

宇宙線に髪梳かれいるここちして白木蓮の公園めぐる

あしたへの遠近法の坂道をユークリッドと腕くみ進む

光年を離れまたたく現実をねむれぬ夜の窓から仰ぐ

銀河が産まれるさま、あるいはヴァイオリン状の人類(それとも人類状のヴァイオリン?第二歌集タイトル「人類のヴァイオリン」より)をたとえば小説やナラティブとして叙述するには、必ずある程度の語数が必要とされる。しかし詩歌であれば、直喩であれ隠喩であれ、「銀河を産む」は一瞬で発動してしまえる。こうした詩歌の強みを非凡なかたちで活かしているのがこの歌人の美点ではないか。

〈直喩〉
吾ひとり影うつされて過ぐる晩よ輪廻のごときジャズ浴びて寝る

スカートがわたしを穿いてピクニックへ行ってしまったような休日

指柱それぞれ離し眺めおり手のひらという吾の神殿 

〈隠喩〉
画布上に銀河大の疑問符を寒色に塗りこめて部屋でる

眠らむとしてひとすじの涙落つ きょうという無名交響曲

相対性理論を習うまなざしの二億秒まえ飼っていた猫」に着目してみる。物理的な近景・遠景の往還だけではなく、時間軸においても現在/悠久、未来/太古を歌人は瞬間的に移動してみせる。「ボールの起源たどりてゆけばそのむかしアダムとイヴに食われた林檎」に見られるように、変哲のない日常の事物を眺めても「起源」を幻視してしまう。スポーツをも叙事詩に流転させてしまう。

論点:レポーターはひとまず巨視的と微視的という二分法における、運動や反転というよりも一瞬の変容のようなものを作者のセントラルモチーフとして捉えているが、これは妥当だろうか。二分法という理解で取りこぼすものも多いかもしれない。同時に、カメラが線的にズームイン/アウトするようなイメージを結ぶ歌はほぼ見つけることができなかったように思う。

3.「隔たった」古代文明、神話への関心
エジプト神聖文字の石碑に刻されし鳥さわさわと水際はなる

プラトンより遠くから吹く風に散り桜は粒子運動をする

ペルシア語はなしてみたき舌先をもてあましいる春のゆうぐれ

秋風にきよく額をみがかせてアテネの神話おもいておりぬ

て・に・を・は、と舌より分泌しやまざるアルタイ語族ひしめく電車

神話や異国、文明のモチーフは頻出するが、たとえば東南アジアや中国、アフリカなどの国・地域よりも頻度としては古代ギリシアや中東などが言及されることが多いようにみえる。地域名がなくても「羊皮紙」「角笛」といった言葉が登場する歌は多い。これはなにを意味するのか?「プラトンより遠く」という語法からは、作者がプラトンを遠い存在として捉えているとひとまず見て妥当だろうか?いずれにせよ、こうした固有名詞のおおらかで自在な召喚が大滝ミクロコスモスの悠久性に寄与していることは間違いないのではないか。

論点:特定の文明、地域への関心はなにを意味するのか。

4.その他細かなトピック
・細かな技巧面:なにを「ひらく」か、あるいは表記上の工夫

修道院の塀しろませたる塵の上いっぽんの指触れつつあゆむ

こうした「ひらきかた」がおおらかさ、やわらかさに寄与しているか。歌集中では、読み方が難しい漢語などはほぼまったく使われてないように見える。

・科学への関心、形而上学言語学用語の多用
こうした語を好んで使うとはいえ、ペダンティックというよりは身体性、おのが肉体を出発点としていると言えるだろうか?

肉体の文法かなし 草汁と汗がまじる白いTシャツ

向日葵の高きにありて素枯れゆくひとつの季節はひとつの人称

あじさわう目からあふれるH2O つめたき鍵を遠因として

・作者の文学的バックボーン
宮沢賢治(の作品世界)への言及がとみに多い? 
アニミズム、交響性という共通点?
教室の窓いっせいに拍つ驟雨かがようバッハの楽となりたり

4.以上の論点に回収されない秀歌(恋愛モチーフ、その他)

17進法で微笑し目をそらすもう少しはやく逢っていたなら

《夜まで》の《まで》がいっぽんの楡となりきみへきみへと葉擦の音は

きみの名と同音である抽象語ふとさりげなく会話に入れる

ハーブシャンプーしたての髪を拭くわたし12種類の声で歌える

平行四辺形の女がやってくる 並木道を泣きながら

天文台学術員はわれに云う みどりのムーンのぼる異星を

資料
谷川俊太郎「二十億光年の孤独」(1931生、詩集は1952)
人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする
 
火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或いは ネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ
 
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
 
宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
 
宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である
 
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした

大学時代のゼミの友人たちと。「東京人」に連載されている池澤春菜「東京異国ごはん巡り」11月号で紹介されている、アラブ・パレスチナ料理「アルミーナ」。オーナーはイスラエル生まれのパレスチナ人の方。この連載は食文化についての歴史的な視点からの記述や社会情勢への言及を含んでおり、字数はごく短いけれど面白い。パレスチナ人は東京に12人、日本全体でも82人のみで、みんな顔見知りなんだそう。温かいヤギのチーズケーキ、クナーフェは今まで食べたどんな食べ物にも似ていなくて、爆発しそうな味。絶対おすすめ。

 

文学フリマ東京39の収穫

●『カモガワGブックスVol.5 特集:奇想とは何か?』

・下村思游「国立国会図書館デジタルコレクションの全文検索を用いた「奇想」および「奇想小説」の語誌の概観」:
「「奇想小説」と何らかの作品群を称することはあれど、その語の由来、使われ方の変遷をあまり意識することはない。そもそも「奇想」という語は日本において、どこから使われだしたのか? 現役の司書であり、円城塔研究で知られる下村氏による、国会図書館デジタルコレクションのデータベースを駆使した「奇想」という語の歴史を辿る貴重な論考」。(公式サイトより)

先日もホイト・ロング『数の値打ち』を拾い読みしていたが、文学研究における数量的アプローチには関心を抱いている。大森望の文章で「奇想小説」という語を初めて目にしたときに、何のこと?どんな小説?と訝しんだ記憶を覚えているけど、まさにこういう記事を読んでみたかった。さまざまなほかの術語で変遷を追ってみても面白いのではないか。たとえば「魔術的リアリズム」というとラテンアメリカ文学との連想が日本では強いが、1955年に岩波から出たエルンスト・ユンガー『大理石の断崖の上で』を読んだとき、その訳者あとがきに早くも魔術的リアリズムという語が出てきて、歴史を知りたいなと感じたことがある。

ラッセル・ホーバン『リドリー・ウォーカー』(第一章研究訳)
期待値のとても高い本の、冒頭の試訳。原書が現在倉庫にあって参照できず、これだけでコメントするのは控え、完訳を読んでみたい。そして、完訳が出たとしても、死ぬまでにホーバンのほかの長篇も読んでみたいと切に願う。

・坂永雄一「小さなはだしの足音」
数回前の更新を参照。

ほか、蛙坂須美「ラテンアメリカ奇想小説パレード」:などブックガイドも相当な熱が入っている。「第2回カモガワ奇想短編グランプリ受賞作」は未読。既刊に掲載された谷林守「レイナルド・アレナスを概観する」など含め、カモガワGブックスの海外小説記事は、「ちょっと好き」というレベルを超えて、ファナティックな領域に行っているものが多いと思う。なお、Vol.4に寄稿した筆者の文章は、許可を得たうえでこのブログに再掲しています(ポートフォリオ参照)。


●ファン・モガ『地上生活適応困難症』

・「スウィート・ソルティ」
移民文学のエッセンスを宿した好短篇。「ワームホール」などの名が出てくるラスト1ページよりも、人生の総てを海の上で過ごしたゆえに、初めて陸に降り立つと主人公は(いわば)「地上酔い」が止まらなくなる、そうしたアイデアの方にSF性、思考実験性を感じた。著者のファン・モガは日本に十数年在住されているそうで、そうした伝記的事実を非方法論的に投影して読むことはもちろん先入主になりうるだろう。ただ、「エミュー国」「海の泡国」といった名の鏤められたこの小説で横浜という港町だけは実在の地名であるのには注目したくなってしまう。「イデのネックレス」が電灯のスイッチ紐になった、とあるのはとりたてて華美でない日本の一般的な家屋を想起するのが正しいのではないかと思えてくるのだ(さして広くない集合住宅の和室を思い浮かべて読んだ)。寓意的な雰囲気が、後半にいたり日本の日常に溶け込んでしまう異物感。

だから、主人公にとって「地上適応困難症」を克服することは、「海の上」という永遠に場所がひとつところには定まらないという意味で故郷とは呼べないはずの、けれど精神的にはやはり暖かな居場所であった空間の記憶を忘却することをも同時に意味してしまう。このあたりの記述は移民二世、三世にとっての同化(assimilation)の問題を描いていると個人的には読んだ。スウィートでありソルティでもあることは、ある個人の内面の運動ではけして矛盾しないのだと思う。

・「オメラ市へ還る人々」
「オメラスから歩み去る人々」を下敷きにした作品が、世界中で書き継がれていることは知っているつもりだった。BTSの有名なMVも観た。ただ、本作で「青梅等市」という表現を目にしたときには、虚を突かれたような感覚を覚えた。一年間、東京の西のほうで働いていたことがあって、そのころは、毎日青梅駅行きの電車にゆられていた。大学生の頃に読んでショックを受けたあの短篇の、どこから行っても遠いはずのオメラスという土地が、いきなり自分と馴染みのある土地に不意打ちのように接続されてしまったような唐突さ。オメラスを準拠枠とする作品はこれからもますます書かれるにちがいないが、こうした経験はアジアの文学を読まないと訪れないはず。

アニタ・ルース『紳士は金髪がお好き』(ハンガーの巣)

マリリン・モンロー主演の映画『紳士は金髪がお好き』の原作です。多くの映画の脚本を手がけた作家アニタ・ルースによる小説。フィッツジェラルドの『偉大なるギャツビー』と同年に販売され、その翌年にはアメリカで2番目に売れた小説となりました。「100年前を切り取るベストセラー」を読んでみませんか?
日記を模した小説(書簡体小説)であり、すべての文章に日付が振られています。金髪女性に言い寄る紳士たちや型破りな女友達の様子が、主人公ローレライの目からコミカルに描かれていて、読んでいて飽きません。」(公式サイトより)

生田耕作も一目置いていた(邦訳の一種はサバト館から刊行)、Roaring Twentiesのアメリカ文学中篇。

「教育的」という語が頻出するけれど、ふつう想起されるものは(この時代であればとくに)男性と女性のあいだに明確な力関係がある展開。言いかえると、男性が女性を一方的に「教育」するというモデル。ただ、主人公は受け身からは程遠く、一見そう見えるときでも出会う男性出会う男性をひらり軽やかに翻弄する筋書きとなっている。その倒錯、というよりはチャーミングな「いつの間にか」性に魅力があるのかなと個人的には感じた。

本書には収録されていないが、常盤新平訳(大和書房)に付された作者の序文を読むと、テクストの持つ意味が大きく変わってくると思う。ここでは詳述はしない。ちなみに、秦豊吉訳、常盤新平訳と本書をくらべると、本書の訳注がもっとも詳細で、情報量が多い。

平山亜佐子吉川浩満編『今思い出してもよくわからない謎の体験を語る あれはなんだったんだろう 其ノ參』(あれはなんだったんだろう制作委員会)

読み途中。あとから振り返ると「あれはなんだったんだろう」という奇妙な感覚が残る実話エピソードをまとめた読者参加型の本。コンセプトが、筆者が作品を掲載してもらったことのある、高橋源一郎内田樹編「ナショナル・ストーリー・プロジェクト日本版」と少し似通っていて、なんだか親しみを感じてしまった。柳下毅一郎なども参加者にいるが、間奈美子の名を見つけてとても驚いた。空中線書局から出ていた未生響名義の詩集を追っていた身としては、こういう媒体に書くとはちょっと想像しがたいと思ってしまったのだ(内容と形式は分離できない、美学の結晶した、あの愛くるしいちいさな本…)。今でも、商業媒体では実質作品をまとめて読めない詩人のなかでは最高の一人だと思っている。高輪の啓祐堂で出会った、未生響の歌う、そして見上げる天末線、あれはなんだったんだろう。

 

ロシア文学者の高柳聡子とロシアの詩人・アレクサンドラ・プリマックの往復書簡 、「「あなたへ」と「あなたから」のあわいで」。どんな内容かな、と電車で軽く目を通すつもりが、最新の分まで凄く集中して読んでしまって、アレクサンドラ・プリマックの詩が訳出された12月の回を読んで泣いてしまいました。感情の正体はよくわからないのですが、「泣くと本当に涙が出る(中村葉子)」。奈倉有里が「群像」で、原発について聞き書きをするのを理由のひとつに新潟に移住した、そこから都内の大学に通って教えていると語っていたのを目にしたときに凄絶な驚きを感じましたが、この詩人は「12月31日、広島に行って、12時の願い事を原爆ドームで」することを思い立ちます。その帰りの新幹線の中で書かれた作品です。

webfrance.hakusuisha.co.jp

lithub.com

ティプトリーの伝記(自分は未読です)でつとに知られるJulie Phillipsによる、ル=グィンの政治活動への関わりを精査する記事(1/3のLiteray Hub)。韓国SF界ではオメラスを下敷きにした作品が大量に書き継がれているそうですが*、「オメラスから歩み去る人々」は創作メモの段階ではオメラスを外部から訪れた人間が子どもを救い出すという設定だったとの記述があります。この事実はル=グィンの伝記執筆に現在取り組んでいるJulie Phillipsがどうも初めて明るみに出したようで、少なくない数の英語圏の読者が驚きを表明しています。*書かれなかったオメラスがあるという事実は、作家をさらに刺激する創作の源となってしまうかもしれません。

*1 11/30に本屋B&Bで行われたパク・ヘウル×ファン・モガ×inch magazine「新たなる韓国SFの世界」でのトーク内容より。
*2 ジョナサン・ストラーンとゲイリー・K・ウルフのThe Coode Street Podcast最新回(1/6、書評家の橋本輝幸さんがマストドンで紹介していて知りました)でもこの話題が出ています。36:00頃~。

朱天心「想我眷村的兄弟們」

朱天心の『古都』は、この十年で読んだ海外小説で十作選ぶなら必ず入ってくる、それくらい僕にとっては大切な作品(これから読まれる方は川端の『古都』を必ず先に読むこと、でないと味わえない)。この「想我眷村的兄弟們」のことは中国の翻訳家の方が教えてくださった。日本語訳はないようですが*英訳ならあります、との言葉とともに。

本作は眷村文学の傑作という名声をすでに確立しているそうだが、作品の歴史的背景やプロットの紹介、詳細な分析は赤松美和子氏の『台湾文学と文学キャンプ: 読者と作家のインタラクティブな創造空間』(東方書店)に収められている論考「朱天心「想我眷村的兄弟們(眷村の兄弟たちよ)」に見る限定的な「私たち」」が参考になる。方法論の観点からすると、『古都』で全面的に展開されている手法の萌芽、非凡なる重層性がすでにこの作品では明確に見て取ることができる。作品としての価値はどうしたって『古都』に軍配が上がるはずだ。しかし眷村をここまで正面から扱った作品は恥ずかしながら読んだことがなく、その意味で台湾の歴史を知る意味でもいま読めて心からよかったと思う。そして読み手の現実に接続されるこの幕切れは圧倒的。

以前ブログで『古都』の感想を書いた際にもカルペンティエールクロード・シモンに触れたが、『古都』が真性の傑作『バロック協奏曲』に少しも劣らない、という気持ちは少しも変わっていない。朱天心、という整った漢字三字のつらなりを見るだけで、冷静さを失ってしまう。胸の鼓動が速くなる。

そして聞いたところによると朱天心は最近小説を書いていないらしい(真偽はわからない)。普通の作家についてそうしたことを聞けばふつうは嘆息してしまう。しかし朱天心ほど明敏な書き手であれば、それもあり得るな、となぜか奇妙に納得してしまうのだった。もちろん、新作が現れるのであれば、狂おしいほど読んでみたい。

*ISBNのついていない書籍として、邦訳は九州の小さな出版社から90年代に刊行はされているらしい。詳細未確認。英訳はコロンビア大学出版局の『The Last of the Whampoa Breed: Stories of the Chinese Diaspora』収録で、筆者はこれで読んだ。

2023~2024年の収穫

わずか一年の読書ではテーマが前景化しないので、2023~2024年というおよそ七百日に読んだ本の収穫。

それにしても、この頑迷な肉体!日に幾度となく自分の遅読ぶりに思いを馳せ、神を呪いたくなることもしばしばだ。でもそんなときは、詩人・批評家のSusan Stewartが自分の学生たちに向けて語ったことば、「詩の社会的な効用のひとつは読者の読む速度を遅らせることだ」ということばを思い起こして自分を慰めることにしている。

・★は別格で愛着があるもの
・新刊かそうでないかを問わず、該当する年に読んだもの
・刊行から4年以内のものは発行年も示す
・自分が編集した『jem』に収録されている作品や文章の類は外す(ただし再録は除く)


大江健三郎同時代ゲーム』(新潮文庫)★
ケイト・ウィルヘルム『杜松の時』(サンリオSF文庫)★
ジャン・ジュネ『判決』(みすず書房) ★
小松理虔『新復興論』(ゲンロン) ★
Pemi Aguda Ghostroots(Virago, 2024)★
キム・チョヨプ、キム・ウォニョン『サイボーグになる』(岩波書店、2022) ★
残雪『最後の恋人』(平凡社) ★ 
残雪『黄泥街』(白水uブックス)
Samantha Harvey Orbital (Grove Press, 2023)
Rebecca Solnit A Field Guide to Getting Lost(Penguin)※邦訳あり
Ursula K. Le Guin Steering the Craft(Eighth Mountain)※邦訳あり
Ursula K. Le Guin “A Left-Handed Commencement Address”(Ursula K. Le Guin公式サイト)
アリエット・ド・ボダール『茶匠と探偵』(竹書房)
アレン・カーズワイル『驚異の発明家の形見函』(創元推理文庫、上下巻)
尾崎翠『ちくま日本文学 尾崎翠』(筑摩書房)※一部再読
鈴木いづみ『ハートに火をつけて!』(文遊社)
岡田利規「掃除機」(『掃除機』白水社、2023) 
谷崎由依『鏡のなかのアジア』(集英社文庫)
円城塔『文字禍』(新潮文庫)
佐藤春夫「女誡扇綺譚」(『女誡扇綺譚 佐藤春夫台湾小説集』中公文庫ほか)
泉鏡花草迷宮』(岩波文庫)
泉鏡花「化鳥」(『日本幻想文学集成 泉鏡花 化鳥』国書刊行会)
坂永雄一「小さなはだしの足音」(『カモガワGブックスVol.5 特集:奇想とは何か?』2024)
アンリ・ミショー『魔法の国にて』(『アンリ・ミショー全集4』青土社) ★
アンナ・ゼーガース「死んだ少女たちの遠足」(『世界文学全集 94 ゼーガース/A.ツヴァイクブレヒト講談社) ★
ジーン・リース「あいつらにはジャズって呼ばせておけ」(『あの人たちが本を焼いた日』亜紀書房)
パウル・ツェラン「山中の対話」(『パウル・ツェラン詩文集』白水社) ※再読
タチヤーナ・トルスタヤ「夜」(沼野恭子訳『魔女たちの饗宴 現代ロシア女性作家選』新潮社)※再読
フリオ・コルタサル「クロノピオとファマ」(『クロノピオとファマその他の物語』)※未訳
Rosario Ferré “The Youngest Doll” in Ann and Jeff VanderMeer(ed.)The Big Book of Modern Fantasy(Vintage)
Ogawa Yukimi “Perfect” in The Dark Magazine 2014年5月号
ルーシャス・シェパード「竜のグリオールに絵を描いた男」(『竜のグリオールに絵を描いた男』竹書房文庫)
フランク・オウエン「世界を渡る風」(「世界を渡る風」(那智史郎・宮壁定雄編『ウィアード・テールズ1』国書刊行会)
フランク・オウエン「折れた柳」(「FANTAST」24号)
野村喜和夫「戦後散文詩アンソロジー」(「現代詩手帖」2024年7号)
崎原風子『崎原風子句集』(海程新社)★
堀田季何『人類の午後』(邑書林、2021) ★
大滝和子『銀河を産んだように』(『「銀河を産んだように」などI・II・III歌集』短歌研究社、2024)★
平出隆『家の緑閃光』(書肆山田)※再読★
山本陽子全集』第二巻 (漉林書房) ★
四元康祐『噤みの午後』(思潮社)
辻征夫『かぜのひきかた』(書肆山田)
ジャン=ミシェル・モルポワ『見えないものを集める蜜蜂』(思潮社) ★
ワート・ラウィー「詩とは反逆だ」(福冨渉note) 
アイリーン・ニクリャナーン 「捕獲」(「英文学評論」2023年5月号)
リンゲルナッツ「全生涯」(安野光雅森毅井上ひさし池内紀編『ちくま文学の森9 賭けと人生』筑摩書房)
ユリイカ 特集:現代語の世界」(2022) 
阿部大樹『翻訳目録』(雷鳥社
阿部大樹『Forget it not』(作品社、2022)
栗田路子ほか『夫婦別姓』(ちくま新書、2021)
阿良田麻里子『世界の食文化 インドネシア』(農山漁村文化協会)
ニール・カミンズ『もしも月がなかったら』(東京書籍)
イ・ソンチャン『オマエラ、軍隊シッテルカ!?』(バジリコ)
金田理恵『ぜんまい屋の葉書』(筑摩書房
山田参助あれよ星屑』(1)~(7)(エンターブレイン) ★
伊藤重夫『ダイヤモンド・因数猫分解』(アイスクリームガーデン)
A ee mi『Platonic Love』(Paradice System、2023)
プラトン「アンドロギュノスについて」(『書物の王国 両性具有』国書刊行会)
和田忠彦×四元康祐「詩、小説、翻訳の向こう側」(「現代詩手帖」2019年10月号) ★
和田忠彦×四元康祐「シベリア経由、ヨーロッパ⇄東京」(「現代詩手帖」2020年2月号) ★
沼野充義「ルジェヴィッチ、あるいは生き残りの論理」(『世界文学論』作品社)
Binyavanga Wainaina“How to Write About Africa”(「Granta」)
橋本輝幸「私たちの相違と共鳴」(「文藝」2021年春季号)
伴名練「戦後初期日本SF・女性小説家たちの足跡 第九回 稀代の幻想小説家とSF界をめぐって――山尾悠子(「SFマガジン」2023年10月号)
劉佳寧「魔窟訪問記」
内沼晋太郎、綾女欣伸編著『本の未来を探す旅 ソウル』(朝日出版社)
千葉文夫「パリのキューバ人 アレッホ・カルペンチェール」(『ファントマ幻想』青土社)
尹相仁+朴利鎮+韓程善+姜宇源庸+李漢正『韓国における日本文学翻訳の64年』(出版ニュース社) ★
クリス・ローウィー+今野真二「日本語表記のアーキテクチャ」(「未草」2023~2024年) ★
井上ひさし「振仮名損得勘定」(『私家版日本語文法』新潮文庫)
松浦寿輝「点の滴り」(『松浦寿輝詩集』〈現代詩文庫〉思潮社)
パトリック・オノレ「新たなるパラディグム」(『定本夢野久作全集』月報、国書刊行会)※再読★
パウ・ピタルク・フェルナンデス「スペインにおける日本文学の翻訳事情」(『多元文化』7号、早稲田大学多元文化学会)
ジェフリー・アングルス「詩史と同性愛の削除」(「現代詩手帖」2012年11月号)
梅木英治『最後の楽園』(国書刊行会)

・補遺 リファレンス性の強い書籍含め、通読はしていないが現在進行形で影響を受けているもの
the Times Literary Supplement Podcast
John Updike Odd Jobs(Random House)
John Updike More matter(Random House)
皆川博子皆川博子随筆精華』1~3(河出書房新社)
山尾悠子『迷宮遊覧飛行』(国書刊行会、2023)
大名力『英語の綴りのルール』(研究社、2021)
大名力『英語の文字・綴り・発音のしくみ』(研究社)
海老島均、山下理恵子編著『アイルランドを知るための70章【第3版】』(明石書店)
伊藤亜人、大村益夫、高崎宗司、武田幸男、吉田光男ほか監修『韓国朝鮮を知る事典』(平凡社)

・映画
「祈り」(テンギス・アブラゼ監督)
「奇跡」(カール・ドライヤー監督) 
「吸血鬼」(カール・ドライヤー監督) 
アンダーグラウンド」(エミール・クストリッツァ監督) 
「はちどり」(キム・ボラ監督)
ひなぎく」(ヴェラ・ヒティロヴァ監督)

自分のいわゆるポートフォリオを作ってみました。作り手側に回ったのは『jem』が実質初めてに近いような気もします。そのあたりは自分ではよくわかりませんが、肩書きとかそういうことよりも、何よりていねいな「読み手」でありたいと思っています。
 

 air-tale.hateblo.jp

 

NEW ATLANTIS

2006~2009年ごろにかけて、「NEW ATLANTIS」というサイトを愛読していた。当時自分が運営していたブログのトップページから、二年ほどリンクを張っていたから忘れるはずがない。こうして夜中にサイトの名をタイプしてみると、プラネタリウムのような美麗なサイトデザインの記憶がまず無音であざやかに破裂する。鉱物や工作舎の刊行物、少年性の嗜好品。端正な文章で書かれた書物の紹介と、日常の記録。四方田犬彦『摩滅の賦』など、そこで興味をもっていつか読みたいと今も思っている本は一冊ではない。

ウェブサイトがその人のいい部分の詰まっている空間なのだとすれば、その書き手に関心がゆくことは自然であるはずだ。研究など日常の記録もそこにあり、記述から勝手に憶測するに自分と極端に歳の離れた方ではないと知覚され、ますます仰ぎ見てしまうのだった。

「NEW ATLANTIS」は美学だけでなく強さと理知の感じられるサイトでもあった。幻想文学の愛好家は、ときに過度なナイーブさを露わにしたり社会への意識が希薄だったりする場合もある。しかしある日、木地雅映子『氷の海のガレオン』について肯定的でない評価をしているごく短い記述を読んだときに、――当時の自分が幾度となく読み直していた作品であったにも関わらず――ああ、この人の物の見方に照らせばそう結論されうるのだろうなと、なぜか必然性を感じた記憶がある。あとづけの理屈かもしれないが、自分が惹かれていたのはフラジャイルなものへの志向に回収される部分ではなく、ではそれがなんであったか、というのは言語化するのはためらわれる。けれど確かなのは、「NEW ATLANTIS」はとても意志的で、闇夜の色なのにだから星座が映えるようにまぶしくて惚れ惚れしてしまう、つまり勇敢な少年のように「かっこいい」サイトだったということ。現在は単著もすでに刊行しているライターとして旺盛に活躍されているようで、とてもうれしい。

文学フリマで期待とともに購入した『カモガワGブックスVol.5 特集:奇想とは何か?』を面白く読んでいる。

坂永雄一「小さなはだしの足音」は足跡発人類史経由銀河行きという骨太の思索的サイエンスフィクション。後半に至り、虚構内の仮説を誰もが知る童話に接続させてしまう手つきが凄い。ところで、同氏の「奇想的宇宙SFの世界」冒頭でビショップ「宇宙飛行士とジプシー」が取り上げられていて、小さなはだしの足音よりもずっと小さな声を上げてしまった。この作品はいまだ「SFマガジン」1975年5月号に訳出されたきり書籍に収録されていないが、今まで読んだ限りの浅倉久志の翻訳作では僕にとって文字通り最も愛着のある作品なのである。普通に考えれば本作を「宇宙SF」として紹介するのはいささか無理があるのだが、おそらく書き手はそれを承知で掬いとりたかったのだろう。

この号には「jem」創刊号にも異様な熱を帯びた原稿の礫を寄せてもらった大島豊さんが参加しているが、もともとはこれもビショップのおかげ。僕が大島さんの名を強烈に意識しやがてこちらからコンタクトを取り、ついに知遇を得ることになったのは「宇宙飛行士とジプシー」でネット検索して出てきた浅倉久志をめぐる記事にどうしようもなく強く惹かれたからである。安田均がかつて明敏にも指摘したように、ビショップはやはり共感回路を人と人のあいだに生成してしまう作家なのではないか。

おや、雑誌の熱について語るはずが、きょうは感傷的な追想にひたってしまって一回休み。続きはまた、いつかの夜に。

11月23日のThe Guardianに掲載されたイギリスでの日本文学受容についての記事。読んでいてある種の居心地の悪さを感じますが、2022年、イギリスの翻訳小説の売り上げの25%は日本語の作品という点は知りませんでした。

個人的に注目したいのは、日本文学ファンサイトでも呼ぶべきRead Japanese Literatureを運営するAlison Fincherさんが識者としてコメントを寄せていることです(Alison Fincherさんが最近ある場所に投稿していた文章は、The Guardianのような媒体に登場するのは今回が初めてであることを示唆しています)。すでに英語圏の翻訳家にはよく読まれているサイトで、英語圏の出版社の日本文学の近刊情報、そして(もちろん合法的に)ウェブサイトに公開されていて無料で読める日本小説のリストをまとめてくれているのでたいへん有用です(わたしも重宝しています)。他方、Podcastを数回分聞いた限りでは、かなり危うい内容に個人的に思えます。テーマ別に「文学史」的な視点で作品を語っているのですが、限られた数の既訳作をベースに「これは(おそらく)この時代ではもっとも〇〇な作品」といったassertiveな言及を重ねるのは過剰一般化のように感じられます。

いきなり発表!奇想短篇小説マイフェイバリット

空舟千帆さん、および「jem」創刊号のアンケート企画にも寄稿くださった鯨井久志さんの「カモガワGブックス」Vol.5「特集:奇想とは何か?」への期待からなんとなく作ってみました。

・入手の困難さなどは度外視して好みを打ち出しました
・連作長篇中の一篇も入れてしまいました
・お遊び企画です!瞬間的に思いついた作品だけですのであしからず。

オクタビオ・パス「波と暮らして」
カルペンティエール「選ばれた人びと」
バルガス・リョサ「子犬たち」
フリオ・コルタサル「クロノピオとファマの物語」(未訳)
アウグスト・モンテロッソ「ミスター・テイラー」
フェルナンド・ソレンティーノ「傘で私の頭を叩くのが習慣の男がいる」
ラモン・ゴメス・デ・ラ・セルナ「乳房島」
デヴィッド・ブルックス“Map Room”(未訳)
イタロ・カルヴィーノ「王が聴く」(未訳)
ヴォルテール「ミクロメガス」
シャルル・フーリエ「アルシブラ」
レーモン・ルーセル「黒人たちの間で」
アンリ・ミショー「魔法の国にて」
ジョルジュ・ペレック「冬の旅」
シオドア・スタージョン「考え方」
フリッツ・ライバー「ラン・チチ・チチ・タン」
デーモン・ナイト「人類供応のしおり」
キット・リード「ぶどうの木」
エムシュウィラー「ピアリ」(らっぱ亭訳)
ジョゼフィン・サクストン「障壁」
ジョージ・コリン「マーティン・ボーグの奇妙な生涯」
アルヴィン・グリーンバーグホルヘ・ルイス・ボルヘスによる「フランツ・カフカ」」
R・A・ラファティ「町かどの穴」
イアン・ワトスン「スロー・バード」
バリントン・ベイリー「知識の蜜蜂」
コニー・ウィリス「わが愛しき娘たちよ」
チャイナ・ミエヴィル「ロンドンにおける“ある出来事”の報告」
Ogawa Yukimi “Perfect” (未訳)
イン・イーシェン「世界の妻」
ジュリアン・バーンズ「密航者たち」
フラン・オブライエン「機関車になった男」
キアラン・カーソン「対蹠地」
エリック・マコーマック「刈り跡」
アーネスト・ブラマ「絵師キン・イェンの不幸な運命」
ディーノ・ブッツァーティ「七人の使者」
ジョルジュ・マンガネッリ「虚偽の王国」
ジョヴァンニ・パピーニ「泉水のなかの二つの顔」
パウル・シェーアバルトセルバンテス
イルゼ・アイヒンガー「わたしの緑色の驢馬」
フランツ・カフカ万里の長城
レオ・ペルッツ「月は笑う」
オスカル・パニッツア「三位一体亭」
ルフレート・デーブリーン「たんぽぽ殺し」
クリスティン・ブルック=ローズ「関係」
ロバート・クーヴァー「ラッキー・ピエール」
ドナルド・バーセルミ「バルーン」
ジョン・バース「アンブローズそのしるし」
スティーヴン・ミルハウザー「アリスは、落ちながら」
ヴィクトル・ペレーヴィン「倉庫XII番の冒険と生涯」
ウラジミール・ソローキン「愛」
スワヴォーミル・ムロージェク「所長」
スタニスワフ・レム「我は僕ならずや」
サーテグ・ヘダーヤト「幕屋の人形」
三橋一夫「腹話術師」
渡辺温「兵隊の死」
黒井千次「冷たい仕事」
正岡蓉「ルナパークの盗賊」
山本修雄「ウコンレオラ」
藤枝静男「田紳有楽」
中井紀夫「山の上の交響楽」
皆川博子「結ぶ」
山尾悠子「透明族に関するエスキス」
筒井康隆「上下左右」
円城塔「誤字」

辻真先『アリスの国の殺人』簡体字版の翻訳を少しだけお手伝いしました

辻真先『アリスの国の殺人』の簡体字版、《爱丽丝梦境事件》(木海訳、浙江文艺出版社、2025年1月刊)翻訳のお手伝いをほんの少しだけいたしました。訳文はいっさい作っておらず、単純に日本語母語話者の視点からの助言です。木海さんが訳者あとがきに私の名前を入れてくださっています!多くの読者の手に渡りますように。

 

 

中国の幻想文学研究者・翻訳家の劉佳寧さんによる「魔窟探訪記」

当誌『jem』創刊号では中国の幻想文学研究者・翻訳家の劉佳寧さんにインタビューを行いました。その末尾でも話題のある、web連載「魔窟探訪記(魔窟探访记)」。幻想文学に関係する方々の書斎、蔵書に取材する企画です。第1回は後藤護さん第2回は山尾悠子さん第3回は礒崎純一さんのもとを訪問(緑色の「阅读全文」を押せば全体が見られます)。

山尾悠子さんはかつて工作舎の雑誌「遊」に「今月私が買った本」という連載を寄せていましたが、「不世出の作家」とも言われたことのある山尾さんの御自宅まで実訪して写真に収め、このような驚異の記事を著してしまったのは劉佳寧さんが初でしょう。澁澤蔵書目録である『書物の宇宙誌』という本は刊行されていても、(それが完全なものでなくても)山尾さんの蔵書を記録するという発想はこれまでなかったはずです。一冊一冊大切に買い集めてきたに違いない、美麗な書物の数々に目を奪われます。

1970年代刊行の本などでも保存状態が良い本が多いのに驚かされます。山尾さんが2015年に書いたあるエセーで、森開社版のシュオッブ『少年十字軍』(1978年刊)について、「これはもちろん大事にして、白く美しく手元にある」と書いていますが、この言葉について誰よりも嬉しそうに言及していたのは他ならぬ森開社社主の小野夕馥さんでした(森開社ブログ参照)。

なお、上から数えて3~7枚目までの写真は、山尾さんの蔵書ではなく、倉敷にある古本屋・蟲文庫さんの店内の写真ですのでご注意ください。誤った推測などがSNS、インターネットを通じて流布すると迷惑がかかる場合もあると考え、勝手ながら記します。後藤護さん、礒崎純一さんの回もとても興味深いのですが、そうした話はまたいずれ。