わたしがシドニーで泊まったのは、キングス・クロスという地城の歓楽街のすぐそばにあるホテルだった。あまり古本屋めぐりをする時間がなくて、一軒だけ行ったのがそのホテルの近所にある店。なにしろ怪しげな歓楽街のそばだけに、想像してはいたが、やはり入ってみるとポルノ雑誌が所狭しと並べられている。それに興味がまったくないわけでもないものの、こういう店に意外な掘り出し物が落ちていることも多いので、ペーパーパックの棚に視線を集中することにした。店の親父は、変な日本人が来たとさぞかし不思議がっていたことだろう。半時間はどの検索の後、収穫は二冊。そのうちの一冊は、ずっと昔に読んだことがあり、すぐに古本屋に売ってしまったが、しばらくしてからもう一度読みたくなって、ずっと探し求めていたエロール・フリンの自伝My Wicked, Wicked Ways (1959)。(…)この種の伝記は、うっかりするとそれこそ小説よりもおもしろいことが往々にしてあるものだ。しかし、もしかすると、手放してしまった本は、記憶が必要以上に美化してしまうのかもしれない。(若島正「オーストラリア便り、あるいは境界なき読書について」「SFマガジン」1995年11月号)

「もしかすると、手放してしまった本は、記憶が必要以上に美化してしまうのかもしれない」。

この一文をはじめて目にしたときに、なぜか間違って売り払ってしまった書物たちの装幀が頭のなかで閃き、「ああ、自分にもそんな本がいくつもあるなあ」と嘆息したものだった。ところで、この言葉が真実を含むと仮定してみるのなら、次のようには言えるのだろうか?読み終えてしまったある本の評価を自分のなかで高めるためには、遠ざかっていくことを自身から択ぶかのように物としてのそれは売ってしまうほうがいい。大蔵書家よりも、家には小さな本棚ひとつかふたつだけを持ち、定期的に本を処分せざるをえないような読書家の方が、記憶のなかで作品の感触を吟味してやまない小さくて大きな夢想家になりうるのだと。