世界から物語を引けば

江口寿史に「カッコ悪さを極めた、(70年代後半)の大友克洋」と評されたのもいまはむかし。「初期」のいましろたかしは欲望にまみれた無数のむさい男たちが、まさにその欲望を達成せんとエネルギッシュに爆走し、その空回りぶりが読者の涙を誘った。そこにはバブル期に波に「乗れなかった」彼らの切実な気持ちを代弁し、強く何かを物語ろうとする意志があったように思う。

だがその「物語ろうとする意志」をありったけ注ぎ込もうとして始めたかにみえたストーリーマンガ、『デメキング』はあと一歩、というところで失敗に終わった。デメキングという、天空に向かって打ち上げられたかにみえたデッカイ巨大爆弾は不発弾だったのだ。いましろは本作の失敗を機に、本格的に物語を語ろうとすることを放棄し、作品には「諦念」の感情が目立つようになる。

『クール井上』『釣れんボーイ』を経由し、いましろの世界からはますます意味がはがれ落ちていく。『盆堀さん』においてかろうじてページを空白から救うものは、物語の終わった世界に生きる人物たちの、わずかに残る煩悩のつぶやきだけだ。スクリーントーンは使われず、スケッチのようなタッチで淡々と日常が描かれる。いましろは確信犯的に現代の虚無感を浮き彫りにしようと、このような作品をつづっているのだろうか。わたしにはそうは思えない。やる気のない人物の自走にまかせ、静かに、ほとんど惰性で筆を動かしているだけにみえる。ページは着実にそしてゆるやかに、すべての燃え尽きたあとの灰、白の世界に近づいている。

数年後、いましろは何を書いているのか。何も書いていない、書くことをやめてしまうのではないか、という不安が脳裏をよぎる。それでもわれわれは桜玉吉と同様にその動向を静かに見守るしかないと思う。そのことが読者にできる唯一のことだと、ひそやかに確信する。