わたしはいつも“人生”そのものがこよなくファンタスティックだと信じてきた。したがって、ここにおさめた物語も、ただ、いかに人生がファンタスティックであるかを描いたものが大半を占めている。人生は、信仰者または不可知論者にとっては、かなりwonderfulなものだ。Wonderfulというのは驚異(ワンダー)に満ちたという意味でありawfulといえば畏怖(オー)に満ちたという意味であり、impossibleのimを強調しているわけである。そもそもわたしたちがここに存在すること、眠り、目覚め、そそくさと朝食をしたためて駅へ急ぎ、運命のまにまに列車に遅れたり間に合ったりする、それこそがまさに奇跡なのだ。

子供はそれを知っており、自分の指先にある渦巻き模様からもなにかすばらしいものを発見する。大きくなったわたしたちは、まもなくその関心を自分の手から体へ、そしてほかの人たちの体へ、さらには環境へと移していき、遅かれ早かれ恋におちる。これもまたかなりふしぎな現象であり、やはり驚異と畏怖に満ち、ときには信じがたい出来事である。しかし、何歳になっても、わたしたちには不可能の周縁にあるあの生命の感覚が必要だ。そのためにわたしはこの本を編んだ。多くの人びとが、不可能の周縁、断崖、なんと呼ぼうと自由だが、そうしたものをこの本の中に発見するだろう。中にはそれに怖気づく人もあるかもしれず、それに励まされる人もあるかもしれないが、いずれにせよ、わたしたちがなにをしつつあるか、もしわたしたちに行先があるとすればそれはどこなのか、という認識を研ぎすますのに、不可能の感覚が役立ってくれると、わたしは信じている。

人間にはだれでも、たとえば十歳で<はじめて自分がほんとうに生きているのを発見した日>とか、十五歳で<はじめて自分もいつかは死ぬと気づいた日>というような瞬間を持っている。だれでも、ある日の午後に野原を歩いていたとき、とつぜん強烈な生の認識におそわれ、この世界に生きる機会を与えられたことに、心からの深い感謝を味わった経験がある。だれでも、あまりにも美しい日没を見て、声も出ないほど感動し、それが大気内の無数の相互作用と、光と、塵埃の微粒子と、心の奥舞台で作り出されたものであることを忘れた経験がある。だれでも、すべての誕生日の中の最高の誕生日、すなわち自分の生まれた日に、自分も貴重な特権を神から与えられた仲間の一人なのだと感じた経験がある。

(レイ・ブラッドベリ “Timeless Stories for Today and Tomorrow”序文、浅倉久志訳)