鳥の声

きょう本を読んでいて、とてもいいなと思った一節。台湾映画を紹介する田村志津枝『台湾発見 映画が描く「未知」の島』(朝日文庫、単行本は1989年)のあとがき。

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「この本の原稿を書きあげて、三月のはじめごろ、ほぼ一年ぶりに台湾を訪れた。(…)台北は思いのほか寒かったが、高雄から屏東へ、そこからさらに山の中腹にある三地門へ向かうころは、東京の初夏を思わせるような汗ばむほどの暖かさになっていた。車窓の景色も、背の高い椰子の林がどこまでもつづき、そこここにブーゲンビリアやハイビスカスが咲き乱れ、すっかり南国の風情だ。訪ねる先は三地門からさらに山中に入った、パイワン族の彫刻家・撒古流の仕事場だ。

(中略)

撒古流に会ったときの印象は鮮烈だった。パイワン族の正装だという、白地に黒の縫い取り紋様をほどこした体にぴたりとそった服を身につけ、けわしい山道でも駆け登りそうな身軽さながら、語る言葉はあくまでも静かだった。自分たちの文化や言語や習慣を護りつたえる活動についても、「世界中にはいろんな鳥がいる。さまざまな姿形と鳴き声をもっている。そのひとつでも姿を消したら、やはり寂しくはないか」と聴衆に問いかけ、だから自分たちの文化も消滅させないつもりだと、気負わずに話す。

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「そのひとつでも姿を消したら、やはり寂しくはないか」。自分がいま勉強している外国語は英語で、どうしたって少数言語と呼ぶことはできない。しかしなぜかこの言葉を目にした瞬間、大学生のころ「読者が存在しない」と言われるような現代詩、マイナーな単巻マンガや雑誌に埋もれたきりの短篇小説をブログで紹介してきた自分の行動に、ある種の意味を与えてもらった気がした。クリエイターという言葉にもアーティストという言葉にも歯が浮きそうになることがあるが、マージナルな才能とは真の意味でそこにしかいない、固有の色の羽根を持つ現存在ではないか?