普通、「私は〇〇は嫌い」という言い方からはさほどの生産性は期待できないことが多い。けれど、場合によってはそれが作家にとってのほとんど明快なマニフェストとして作用することがある。たとえば三島由紀夫ブラッドベリを「ひよわな感性を売り物にした三流詩人」とかつて呼んだ。あるいはドイツ語で書く多和田葉子は「コミュニケーション」や「インフォメーション」といった英語を嫌う。でも後者なんかは、わが国における「コミュニケーション能力」などという言葉の空疎な流布のありようを考えると個人的にはちょっと面白いと思う。