ある日本文学研究者/翻訳家とやりとりをしていたら、大学の授業で倉橋由美子を教材として扱うことも検討したが、その作品の英訳の質から結果として択ばなかった、という趣旨の一文があった。自分はその作品がどの作品かも知らないし、よって日本語と英訳をくらべたこともない。ただ、ふと以下のようなことが思い出された。

一.自分の大学時代の文学の授業の先生は、白鯨を読むなら誰それの訳より誰それで読まないといけないとか、ディキンスンの詩を読むならどこどこの出版社のものがおすすめだとか、教室でしばしば語ってくれる先生だった。学生になんの期待もしていなかったら、わざわざエネルギーを費やしてそんなことには触れないだろう。自分は白鯨を(すら)読んでいないけど、いつか読もうとする日には、そういうアドバイスは役に立つかもしれない。

一、これも大学時代の話。毎年東京で行われるある文芸のマニアックなイベントは、「合宿」といって旅館を借りたりして、ファンとプロが会して夜通し小説の話がくりひろげられるような場だった(もちろんコロナ前のこと)。そういう場にいると、信頼できる翻訳家の方からの、これまたあの作品には翻訳に問題があるとか、ある時期以降の野口幸夫の訳は、とかそういう話が耳に流れ込んでくる。

見識のある方(もちろんその基準は主観的なものでしかありえないけど)の翻訳のよしあしに関するコメントは、ネットには流れず、アカデメイアふくめクローズドな場で話されるだけということも多い。ある人間にとって、第二言語に訳された文章の質というものは母国語の場合よりも判断がいっそうむずかしい場合が多く、それでも日本の作品の海外普及に関心があるなら気に留めておきたいトピックであることはやっぱり間違いないとおもう。