木尾士目『げんしけん』(10)(講談社)

あの『げんしけん』の続きが出た。
当時の主力メンバーは、今やほとんどみんな社会人。
斑目は疲れ気味のサラリーマン。もう卒業してしまった大学のベンチで、
缶ビールをいかにも旨そうに飲んでいる。
久我山のお腹は、リアル中年らしくかわいげにふくよかだ。
伝説のOBたちよ永遠なれ。
(個人的にいちばん共感するのはクッチーだけど……)


藤子・F・不二雄の衝撃作、「劇画オバQ」に泣かされてしまったマンガファンは多いと思う。
では、この『げんしけん』アフターストーリーもまた、木尾士目という作家が
当時の読者に向けてふたたび放つ、露悪的なセルフパロディなんだろうか。
うん、そういうところもあるかもしれない。
1巻の奥付をあらためて見てみると、そこには2002年の文字。
20才のときから追っている読者だったら、単純計算で今年29才。
斑目よりもっといろんな意味でダメ人間で、
脱オタはもはや絶望的で、深夜の繁華街の路上で
クダを巻いているかもしれない。


だけど。それだけではないはずだ。
この作品は、もはや作者自身の手からも、ついに離れ出してしまった気がする。
予測もつかないようなキャラクターの暴走に作者本人が困惑し、
併走しているような状態なんじゃないか。
もちろん、毎晩どこかで作業をしているはずの作者の
勇気と根気には拍手をおくりたい。


なぜこのマンガはこんなに面白いのだろう。
ひとつには、時間の流れを感じられるからじゃないかな。
作者の時間、僕たち読者の時間、
そしておよそ10年という期間の、オタク文化みたいなものの変容。
いま1巻の第1話を読み返すと、斑目のシャープすぎる顔つきに笑ってしまう。
今にもシャーって襲いかかってきそうだもん。こっちのほうがパロディに見えるぜ。
そして10巻にもう一度目を転じれば、「腐男子」の肖像の問題までがテーマになっていて、
そのまま目が離せない。


あなたの所属していた同好会やオタサーが変わり果ててしまったとしても、
つぶれてしまったとしても。
また新たなオタクが勝手に「再建」してくれることだろう(「中興」の祖なんつってな)。
まったくしぶといヤツらだ。
っていうか、そんなことを考えなくても、
いまここに進行形の「げんしけん」はあるじゃないか。そう思わない?
春はまた来る、扉を開けて――
現代視覚文化研究会にようこそ!(大野さんの満面の笑みで!)