樹木の顔は多くの場合上向きであり、処女林上を飛んだことのある人々が言うように、その美しさは俯瞰する者に向けられている。そして我々の風土の中で最も上を向いているのは松林である。松林の下を歩むとき我々の目が捉えるものは、老朽化して神経を絶たれた見るも無残なものばかりである。地に落ちた枯枝の山。乾き切り、表面は剥がれ、しかしまだ幹に付着している低い枝枝の醜い折れ残り。半ば砕けて灰化しながらも、それでもまだ低い枝にぶら下がっている過ぎにし年の松毬の残骸。貧弱な葉叢の暗くくすんだ緑。下から見上げた時の松林の顔は、その全てが死んだ木と乾いた松葉で作られている。
 砂丘を登り、光に照らされた森を一瞥するや否や、全ては一変する。下から見上げた時に最も炭化が進んでいるように思われたもの、最も萎びているように見えたものでさえ、光の方向に金色に輝き光沢のある新緑を向けている。新緑は頬を流れる血潮のように溢れ出て、まだ柔らかい松葉の束は編み籠のように天に向かって開かれ、その中の到るところに、新しい松脂に覆われて金と緑に輝き、パイナップルのようにぎっしり果肉の詰まった新しい松毬が、その粒を揃えながら自分の塒を作っている。そして我々は栗鼠の食道楽をほぼ理解するのである。
(ジュリアン・グラック『街道手帖』)