過去への線、未来への線――オールタイム・ベスト短章

SF小説というジャンルに限っても、これまでさまざまな媒体でオールタイム・ベスト(以下、適宜ATBと略すことがある)のアンケートが行われてきた。この文章では、

・〈SFマガジン〉2014年7月号(700号)
・〈SFマガジン〉2006年4月号(600号)
・〈SFマガジン〉1998年1月号(500号)
・『SF本の雑誌』(本の雑誌社/2009年)
・『SF入門』(日本SF作家クラブ編/早川書房/2001年)

を中心に扱いながら、個別の作品というよりもどちらかというと読書と記憶の関係について個人的に思いをめぐらせていきたい。

・投票形式の裡にひそむもの

「国内長篇、国内短篇、海外長篇、海外短篇からそれぞれ5作を選ぶ(これに加え国内・海外から作家を5人ずつ選ぶ)」という〈SFマガジン〉の定式化された投票スタイルから、こぼれ落ちるものはないのだろうか。『SF本の雑誌』(本の雑誌社2009年)が選定したATB100(大森望鏡明風野春樹選)は書籍やシリーズ単位でのランキング、さらに国内と海外で区別しないことでSFマガジンとの差異化を図った。

J・G・バラードの連作短篇集『ヴァーミリオン・サンズ』は24位にランクインしているが、SFマガジンの形式では「コーラルDの雲の彫刻師」など短篇ピンを挙げることしかできない。同じく上位ランクインの本を眺め渡して気にかかるのは3位ティプトリー『故郷から10000光年』。作品同士のつながりは皆無であるにもかかわらず、本全体が拡がりのあるひとつの綜合的宇宙の中にあるという気がして、どれか一作を選ぶよりは書物としての佇立のあり方を個人的に評価したくなる。

SFは小説の約束ごとそのものを徹底的に破壊しながら進化してきたはずだが、レムの架空書評集『完全な真空』は長篇・短篇どちらとして扱うのか。形式上書評であるものをどこまで小説であるとみなせるのか。〈SFマガジン〉600号では短篇部門で本書所収の作品に投票している評者がいるが、雑誌「考える人」(新潮社)がかつて「海外の長篇小説ベスト100」という特集を行った際(2008年)、「私の「海外の長篇小説ベスト100」」というアンケートにて『完全な真空』を長篇ベスト1に入れている評者もいた。

ディレイニーの「エンパイア・スター」はサンリオSF文庫では一巻本だが、『ドリフトグラス』『プリズマティカ』の中ではあくまでひとつの中篇として登場するので、海外部門と短篇部門どちらに投票するか迷う読者もいるかもしれない。

ひとつだけこっそり自分のこだわりを開陳すると、レイ・ブラッドベリ編のアンソロジーTimeless Stories for Today and Tomorrowの編者自身による序文は、小説ではないものの筆者にとってはまさしくtimelessな珠玉のSFエッセイである。

・ブックガイドとしてのATB

個人的な思い出となるが、〈SFマガジン〉600号は筆者が大学生の頃に刊行された。「プロ投票者アンケート全回答」の項をくり返し読み、特定の回答者の回答には読んだ作品に赤鉛筆で印をつけ、読みたい作品をもとめて古書店を歩き回り図書館に足しげく通った。特に、海外短篇を読む際の指標としてはどれほど参照してきたかわからない。こうした回答者別のまとめが、700号では姿を消してしまったのが残念でならない。自分が知らないだけでどこかに公式に掲載されているのであればぜひご教示願いたいし、集計の手間は大変なものでも、800号では復活してほしいとも心から思っている。

無人島、目についたもの

結果発表を注意ぶかく眺めると、回答者の強固なポリシーが浮かび上がってくる場合がある。〈SFマガジン〉600号における吾妻ひでおの国内長篇部門の回答は、

1.町田康『パンク侍、斬られて侯』
2.吉村萬壱『バースト・ゾーン』
3.高見広春バトル・ロワイアル
4.神林長平『膚の下』

作品を4作しか選ばない上に、一般に非SFとみなされる一般文芸の作品がいくつも入っているのはどういうことか? といぶかしく思う向きもあるかもしれない。吾妻氏の他の部門の回答もあわせて見ればわかるのだが、ここで氏は数年以内(6年ほど)に刊行された作品に限定して(直感的に?)選んでいる。かつて映画監督のゴダールは、「無人島に1つ映画を持っていくなら?」というあるインタビュアーの質問に対して「家にあるフィルムでまだ観てないものを適当に持っていく」と答えたというが、自分の全人生で読んだSFからわずか数作を選ぶという行為がそもそも不可能にちかいのだとしたら、こういう回答のしかたも格好よく映る。当時のひでお氏の読書生活は『うつうつひでお日記』においてうかがい知ることができ、読んでいるフィクションと自分の生活が融けあっているようなコマがあるのが面白い。

・未訳作品とATB

SFマガジン〉600号と後述『SF入門』ともに、入手困難な作品は挙げても未訳作品を挙げている回答者はほぼ見当たらないように思える。あるいはいたとしても、海外部門を完全に未訳「だけ」で固めている回答者は見つけ出すことができない。これは未訳の作品で既訳をしのぐものがないという判断ではなく、死票――うず高く積まれた黒い石のかたまりとは別の方角へ自分の石を投げるのを回避するためなのだろうか? ATBにお祭り、祝祭という側面があるのだとしたら、これはSFファンという共同体への恭順の徴(しるし)なのだろうか?

・膨らんでしまうものたち

「ベスト」という語は「よい」の最上級だと理解しているが、オールタイム・ベストの対極あるいはそこから遠く離れた作品とは、どのような形容詞を用いて修辞されうるのだろうか。「つまらない」作品?「わるい」作品?

2013年のSFセミナーで、中村融、橋本輝幸、茅野隼也を登壇者とする「ライブ版SFスキャナー・ダークリー」というパネルがあった。「短篇博士」の異名を持ち、アンソロジストとして八面六臂の活躍を見せる中村さんを中心に話は進行していったのだが、ここで氏は次のような趣旨の発言をした。

中学生の頃から今に至るまで、5点満点での評価、初出の年、作品の長さを記載した読書ノートをつけている。4点以上の作品はすぐさまアンソロジーを編むための候補作になりうるが、時間が経ってからノートを見返すと3+や3Aがついている作品に、点数と別に何かひっかかりのようなもの、残るものを感じたりする。

会場にいた他の参加者はどうだったかはわからないが、この発言を聞いたとき、筆者は大きく目を見ひらいた。自分もある時期から読書ノートをつけ始め、長篇やマンガ、映画などには点数をつけないが、短篇小説だけは5点満点で点数をつけている(5段階評価ではなく、3+などの点数もあることも中村さんと同じ)。不思議なことに、読んだときにつけた点数そのものは高くないが、読んで時間がたってからも小動物の小骨のように、読んだときの「感じ」が体のどこかに残っているような作品がある。中村さんと筆者では読んできた短篇の量が比較にならないが、「自分と同じことを考えている人がいる!」と勝手に感情移入してしまったのだ。

もちろん、「アンソロジーピースで固めたアンソロジーはすぐれたアンソロジーにはならない」というのはSFにかぎらず、海外小説の紹介者にとっては広く知れ渡っている考え方かもしれない。しかし個人的には、中村さんのこの発言には文字通り以上の何かがあるのではないかといまも考えている。

あくまでこの文章を書いているいまの気分で、意識の表面に浮かび上がってくる作品(の数例)。クロウリー「雪」、ウルフ「浜辺のキャビン」、ビショップ「ぼくと犬の物語」、セントクレア「街角の女神」、エムシュウィラー「狩猟機」、ナイト「輪舞」、ハーヴィー・ジェイコブズ「おもちゃ」……。

我ながら不思議なのは、作品数としては数えるほどしか読んでいないのに、アンソロジーや雑誌で出会ってその印象が残り続ける作家の作品がしばしば入ってきてしまうことだ。ハーヴィー・ジェイコブズは他にはメリルの年刊傑作選で一篇触れたくらいだし、ビショップだって長篇を読んだのはつい最近だ。そして作品の読後感、余韻は三日後、一ヶ月後、一年後と均等に残り続けるのでも波紋のようにしだいに薄まっていくのでもなく、日常生活のふとした瞬間になにかが唐突に表出したりする。心理学においてはプラトー現象(高原現象)という用語もあるが、再読さえしていないのに、意識の膜の中でよくわからないものが急にアメーバのようにかたちを取り始めたり収縮したりする。

直感的なことを書くと、若島正『乱視読者の英米短篇講義』(研究社)の特定の章も、作家論の衣をまとわせながら読書における意識と記憶の作用について扱っていると思う。しかし個人的には、SF作家の書く短篇に、こういう作用を感じとれることが奇妙に多い、ような気がする。作品の質的な側面に何か共通点を見出せるかというと、よくわからない。読者の前に異形の未来のヴィジョンを提示するような作品では普通ない、ということはひょっとしたら言えるのかもしれない。

SFを読むという行為を単純なパスタイムとして捉えているわけではまったくないが、二足歩行のやり方や歯のみがき方にくらべれば、10年かそれ以上前に読んだ短篇の印象なんて日常生活を送るうえで忘れたっていいはずだ。それなのに、忘れられないとはなんということだろう。同時に、人に伝えられるような形でプロットを保持しているわけではないという点で、作品のことを覚えているわけでもない。識閾下の微少な泡として普段は記憶の中に眠っていて、しかし弾けることのない不可視の風船として呼吸を止めない作品とは、なんと驚異に満ちていることだろう。

・ランキングの変容?

SFマガジン〉主催という枠でくくれば、現時点ではさしあたり最新となる、〈SFマガジン〉700号(2014年7月号)ATBアンケート結果発表。同アンケートの解説で香月祥宏・七瀬由惟両氏がコメントをしている通り、8年前600号(2006年4月号)の結果からはすさまじい変化が起きた。国内短篇にいたってはベスト50のうちの3分の1以上が初のランクインときては地殻変動という語を用いても大げさではないのかもしれない。

周知の通り〈SFマガジン〉は100号に一度のペースでオールタイム・ベスト投票を行っているが、600号からさらに100号遡った500号(98年1月号)でもアンケート結果を発表している。この号ではオールタイム・ベストSF座談会という位置づけで伊藤典夫、川又千秋小川隆山岸真堺三保大森望の6人が結果を肴に傾向についてあれこれ語っており、しかし今の目で見てちょっとした驚きなのはこの座談会につけられたタイトル、「素直でナイーブ、あまりに日本的な……」。司会という位置づけの大森望は口火をこのように切る。「最初におさらいしておくと、ファン投票によるオールタイム・ベストは前回が約10年前のSFマガジン89年2月号。前々回がさらにその10年前、79年8月のSF宝石創刊号。今回はプロ投票が入ってて若干分母が違いますが、海外長篇のベストテンにはほとんど変化がない。古い名作ばかりが上位を占めている。」。これを受けての伊藤典夫大森望の発言はこう続く。

伊藤 呪縛からいかに解き放たれるかが問題だな。エクソシズムを考えないと。
大森 ちょうど二十年前に出た別冊・奇想天外の『SF入門大全集』でも、プロ四十一人の投票で海外SFベスト10を選んでるんですが、その結果を踏まえて伊藤さんが石川喬司さんと対談してて、そこですでに、「五〇年代SFには背を向けよう」と発言している(笑)。オレはむしろ新しいSFをプロモートしたい、と。

座談会の中の小見出しでは、太字で「五〇年代は越えられないか」とついているくらいで、700号からは隔世の感がある。

さて、読書量という点から言って、個別の作品にかかわるかたちで以上のことからさらに何かを導き出すことは筆者には許されない。しかしここで、一見まったく関係のない、以前ふれた科学系の記事について紹介したい。

その記事は、生物が老いる、死ぬ理由について進化論と絡めて説明した文章だった。普通、人間にとって老いや死はネガティブなものとして認知されている。しかし、端的な書き方をすると、死には生物学的利点がある。生物を取り巻く環境はつねに激変しやすく、その中で一世代では進化はありえないが、配をくり返しながら環境により適応する子孫を作っていけば、長期的には種は変わることはできる。

それぞれの個体のDNAの情報とは、あくまで生まれた時点での環境条件に規定されていて、不可避的に古くなっていってしまう。長寿命には淘汰されやすくなるというリスクがあり、言い換えると寿命が短いほうが環境に適応できるということになる。それぞれの個体は老いて死んでも、種そのものは環境が変わっていっても存続することができるかもしれない。

ある作品が読まれなくなることは死のアナロジーとして捉えうると思うが、以上の考え方をSFに仮に当てはめてみたらどうなるだろうか。各々のSF小説は、それが書かれた時代の社会のありようやテクノロジーの影響を必然的にこうむっている。明敏な作家の感性や創りあげるイメージ、文明批評眼はたしかに時代を先取るが、その時代その時代のテクノロジーに規定されている限りにおいて、後の時代から見て古びる作品が出てくることは避けられない。

けれどこのことは、SFという種の衰退や停滞を少しも意味はしない。新しい作家が先行世代の作品を読んだうえで世に出てくるということは、先行世代はSFという方法の遺伝子を子孫に託していると考えることはできないだろうか。第n世代は第(n-1,2,3…)世代の影響を受け、第(n+1,2,3…)世代はその第n世代の作家に多くを負っているとしたら、SFの遺伝子は世界という環境が変わっても未来へ未来へと潜行していると考えられないだろうか。

橋本輝幸編『2010年代海外SF傑作選』(ハヤカワ文庫SF)解説には「世界SFの可視化」という小見出しが見られるが、たとえば英米のSFの多大な影響を受けて出発した日本SFが東アジアや他の国のSFとも影響を与え合うのだとすれば、この遺伝子は空間という制約も超えて伝わっているのではないか。

ロバート・シルヴァーバーグはかつて、伊藤典夫による「SFは後世に残る文学を既に生みだしたか、または今後生みだしうると思いますか」という質問に対する答えの中で、今のところ「SFにシェイクスピアは生まれていない」と言い切った(*)。オールタイム「ベスト」のランキングに流動性があるとしても、そのことの中には「良い・悪い」を超えた何かがあるのではないだろうか。

・記憶と現在

日本SF作家クラブ編で『SF入門』(早川書房)という本が刊行された折(2001年)、ATBアンケートが行われた。このアンケートを決定的に〈SFマガジンのものとは別物としているのは、書籍だけでなくマンガや映像などを挙げてもよいことに加え、ごく短い字数で各人の「SF観」を答える欄がある点。回答者のコメントを見ていると、三つ子の魂百までを地で行くかのように思春期に触れた作品を中心に選んだ、とはっきり言明している向きも多い。同時に、作品を読んだ時期(10代、20代、30代…)を明らかにばらつかせているかに見える回答者もいるし(この点はほかのATBアンケートにもあてはまる)、メディアが違えば、〈SFマガジン〉600号における吾妻ひでおのように読んでから数年以内ほどのものにきびしく範囲を限定しているかにみえる回答者もいる。

記憶を地層になぞらえるなら、作品をある烈しさとともに反芻しようとする営みとは、届かないことがあらかじめわかっている核へくるしさと官能性に包まれながら手を伸ばすことにも近いのかもしれない。これは誰しもが回避できないと思うのだけど、過去に読んだ作品のプロットそのものは忘却の淵に沈んでいく。その作品を再読してみたところで、〈私〉という存在の方が時の流れに応じて変質している以上、結末という目的地は同じでもかつてと同じ道をゆくことはありえない。道の数は無限にみえて、ひとつの道はただ一度しか通れない。

けれど感動的なのは、『SF入門』に寄せられた短文の集積が、各自のSF観の披瀝であると同時に記憶と読書との関係を省察する最良のエッセイ・アンソロジーのようにもみえることである。

「ぼくにとってのSFとは、人生の半分以上をいっしょに歩いてきた、いや、とり残されまいと必死であとを追いかけてきた友だちです。」(浅倉久志)

「耳元に手塚治虫さんの声が蘇る。
「一緒に神代からの日本SF史をやろうよ。絵は俺が引き受けるからさ」。
古希を迎えた怠け者は生まれなかった傑作のページをめくる。」(石川喬司)

「私の愛の全て。」(小谷真理)

「現在「常識とされる事柄」や「正義とされるもの」がかならずしもそうではないかもしれない、という足下の地面が崩れるような不安を伴う、けれど新鮮な驚きに満ちたものの考え方の枠組み。」(波多野鷹)

「最初にSFを読んだ少年期から約三十五年、プロになってから約二十年。
当然、その間にSF観は変化した。
変化しているからこそ、書き続けたとも云える。
ただ、一言で云えば、私にとって、SFは、自分の人生そのものであり、それは「人を驚かせたい」という、原初的な欲望に近いかも知れない。
だが、単に面白いだけではSFではない。
知的なエンターティンメントの究極のスタイルがSFだと思う。
この準拠枠では、他のどんなジャンル(小説だけでなく、映画やゲームにいたるまで)も、SF以外に、私を満足させるものは、なかった。」(野阿梓)

また、ここでは具体的な作品を挙げるのは控えるが、SFというジャンルそのものが単線的な時間の流れを相対化する視座を孕んでいるため、人間という存在の「忘却」という現象そのものを鋭く考察する作品をも数多く生んできた。遅読の筆者がこう言う資格があるかはわからないが、SFというジャンルの不可思議さを思い、そして畏敬の念に浸されながら今回は筆をおきたい。

引用文献 ----------------------------------------------------------- 
*「SF宝石」1979年12月号
ロバート・シルヴァーバーグ×伊藤典夫
「「小説工場」とよばれたころは雑誌ぜんぶ、一人でうめたこともある」

初出:「【SFファン流会】メールファンジン」219号および220号(2022年)