英語圏では翻訳と感じさせない翻訳が好まれる傾向がある、とものの本には書いてある*。でもわたしは、翻訳書を読んでいるときに、それぞれの翻訳家の体臭を眼と鼻と脳とで記憶し、次に同じにおいがいつ鼻孔をくすぐるのか、ノラ犬のように愉しみとしている。アイルランド文学者の栩木伸明は『琥珀捕り』において「思う」を「おもう」とひらくが、詩についての論考でも同じような表記をしていた。矢川澄子の随筆には「したたか」という言葉がずいぶんたくさん出てくるが、絵本の翻訳にだって登場する。翻訳家のクレジットがなくても、それが誰の手になるものか(ある種のお気に入りの本においては)当てられる自信がワタシにはある。

*たとえば秋草俊一郎『「世界文学」はつくられる』(東京大学出版会)。