現代詩手帖」2022年2月号に掲載された、ドロシア・ラスキー×スティーブン・カール×由尾瞳×佐峰存による座談会「沈黙を破るアイデンティティの声」を読み始めていきなり驚いたのが以下の箇所。

佐峰 (略)私自身がアメリカ詩に触れるなかで実感しているのは、文体やテーマにおける日本の現代詩との大きな違いです。例えば、アメリカ詩はもともと主語がはっきりしているように思いますが、とりわけ近年のアメリカ詩を読むにあたっては、詩人のバックグラウンドや、作品の背後にある政治的・文化的なテーマを考慮する必要がどうしても生じてきます。それと較べて日本の詩は、言語そのものを直視する、いわば「言語芸術(Language Art)」の側面が重視されているように感じます。

ラスキー (中略)おっしゃるように、最近のアメリカ詩ではより明確な「私」の像が求められるようになってきています。そして詩の語り手は詩人本人と混同されがちです。私は少し古いタイプの人間で、詩人は語り手としてペルソナをつくるものだと考えてきました。語り手は必ずしも詩人本人である必要はない。詩のなかで「私はインゲン豆が嫌いだ」と言っても、インゲン豆栽培者の誰も私個人に腹を立てることはできません。ペルソナと私の間には断絶があるわけですから。しかし、私たちよりも若い世代では、意図的に混同されていると感じます。アメリカで目覚ましい活躍をみせる若手詩人たちの多くは、作品の「私」に自分自身を重ねながら書いています。ですからノンフィクションのような作品になりつつあるという状況がひとつあります。
ドロシア・ラスキー×スティーブン・カール×由尾瞳×佐峰存「沈黙を破るアイデンティティの声」

このラスキーの発言に対し、カールも「私もまったくそう思います」と述べ、近年は「自分語りをおこなう「私」は人気を博して、詩の一形態として認められるようになりました」ともつけ加える。

この記事では詳述しないが、とくに21世紀以降、小説というジャンルもアイデンティティ・ポリティクスという特質が強まってきているように見受けられるが(あるいはそういう読みのモードの影響力……?)、アメリカ詩でもそうした状況はとっくに定着しているというのだろうか。なお、これについて、文法的に「主語に対して非常に明確な位置づけを与え」る「アメリカ英語のあり方と深く関係している」とするラスキーの意見は、日本語は主語が不要であるという知識と照らして出てきたものなのかもしれないが、自分には残念ながら短絡的にみえる。