今、私は1933年に刊行された同人誌『文學(5号)』を開いている。たまたま立ち寄った鎌倉の古本屋で購入してきた。『詩と詩論』の後継誌として春山行夫が取りまとめた同誌には春山以外に安西冬衛北園克衛竹中郁西脇順三郎、瀧口修三などの面々が詩やエッセイ、評論、翻訳を寄せており、それらの生き生きとした調べに彼らが現代のこの瞬間を動き回っているような気がして、ふと目を上げる時もある。肉のように厚みのある、ほどけそうな紙面を漂う緊張感とは裏腹に、深々と印刷されている内容は日本に迫っている戦争の足音を微塵とも感じさせない、日欧米の柔らかな作品群や写真・絵である。
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彼らの文章を読んでいる内に、私が長い米国生活の中で親しみ、私の詩作の一つの源流となった米国詩の現在について書いてみたくなった。日本の現代詩は米国詩とT・S・エリオットやパウンド、ゲーリー・スナイダーを通じて繋がっているものの、彼ら以外の米国詩人の作品は(特に若い詩人の間では)幅広く読み込まれて来ていないのが実感である。しかし、この“ひとつの”世界の中で、米国で一篇の良い詩が書かれる事は、例え直に接点が無くとも、日本で書かれる作品の文脈的な位置付けを暗に変えてしまう出来事だ。逆もまた然りである。日本の詩人も米国の詩人も互いから無垢ではいられない。日本の現代詩をより“自意識的”に理解していく上でも、米国自由詩の領域における特徴的な動きを見ていきたい。
 まずは米国にて活動中の詩人が織りなす詩の現場を俯瞰したい。
 現在、ジョン・アシュベリ(John Ashbery)やビリー・コリンズ(Billy Collins)の詩が特に広く読まれている。スナイダーもビート世代の代表的な詩人として幅広い読者層を有している。
 また、アイオワ州の詩人テッド・クーザー(Ted Kooser)やセルビア系米国人のチャールズ・シミック(Charles Simic)も健在だ。ドナルド・ホール(Donald Hall)、ルイーズ・グラック(Louise Glück)、リチャード・ウィルバー(Richard Wilbur)、シャロン・オールズ(Sharon Olds)等が活発に動いている。
 少し世代が変わるが自らのエスニシティを前面に出したゲーリー・ソト(Gary Soto)やリタ・ダヴ(Rita Dove)、ベトナム退役軍人のユーセフ・コマンヤーカ(Yusef Komunyakaa)等の詩人も確固たる読者層の支持を得ている。1970年以降に生まれた若手だとトレイシー・K・スミス(Tracy K. Smith)やタオ・リン(Tao Lin)に勢いがある。
 米国の詩が置かれている状況を理解する上で特筆すべきは、詩壇に対する評論家の影響力の強さである。イェール大学のハロルド・ブルーム(Harold Bloom)を筆頭に、詩を学問の対象として日々研究している評論家が多くの大学におり、彼らによる評価が個々の詩人にとって無視の出来ないものとなっている。
 ブルームは“西洋文学系譜”(Western Canon)という概念の旗手として、ギリシャからローマを通り、中東に立ち寄った後に欧州に戻り、米国まで行き着いた西洋文学の流れに照らして現代の米国詩人を理解しようとする。ブルームによれば、西洋の詩の歴史を辿っていくと、どの時代に書かれた詩も先駆者の作品の模倣に過ぎない。ただ、模倣の過程で先駆者の作品の“誤読”が発生し、その“誤読”が新しい作品に独自性を与え、詩の形式の発展に繋がって来た、と指摘する。全ての詩は過去の西洋の古典との文脈的な繋がりを断ち切れないという理解が“西洋文学系譜”の基本的な姿勢となっている。(「詩客」自由詩時評第119回)

佐峰存がウェブで発表している詩の時評より、アメリカ現代詩の状況について語っている回。

この文章は掲載からちょうど10年が経っているのだけど、それでもすごく興味深い。こういう風に、それぞれの国の詩について専門的な知識を持っている書き手が、もっともっと現況(picture)について語ってほしい。