富士川 (略)だいたいラシュディを代表とするような小説というのが、どちらかというと魔術的リアリズムというんでしょうか、非常に強い物語性というものを中心に持っていて、そこにインドやイスラムの神話だとか伝説だとか、そういったものを結びつけていく。それからインドの現代史の動きなどをそこに描きこんでいく。特に『頁夜中の子供たち』という彼がブッカー賞を受賞して、世界的、国際的に知られるようになった作品なんですけれども、あれなんかが一つの典型例としてあるわけですね。

もう一つ後者の、いわゆるイギリス本土出身の若手の作家たちの特徴ですが、いろいろあるんだけれども、それを一言で言ってしまうと、イギリスの過去とか、あるいは歴史に対する関心というものが、彼らの作家活動の非常に中心的地位、役割を占めている。こうした二つの現象が、どこかで絡まり合いながら、ねじれ合いながら、イギリスの80年代の小説の主潮みたいなものを形づくってきているのではないか。そんな気がするのですが。

青山 いまおっしゃった、純潔と呼べるかどうかわからないけれども、とりあえず純潔のイギリス人の作家たちが過去に関心を持ってきたということなんですが、富士川さんの文章を読んできましたところでは、その過去への関心の持ち方というものは、ちょっと非常に変わったものですね。過去を遊んでいるというところがあります。

富士川 そうそう、遊んでいる。

青山 二つほど富士川さんが紹介したものを挙げますと、一つはピーター・アクロイドが、実在した作家、あるいは実在した建築家等をネタにして、ミステリーっぽい小説をつくっている。あともう一つ非常に面白かったのは、ヤング・フォーギー現象という、こういうふうな言葉で言ってしまうと誤解があるかもしれないけれども、一種の日本のレトロプームみたいな現象。

富士川 過去とか歴史との関わり合い方というのは、60年代頃まではわりあいと権威主義的に伝統論をふりかざしていくというのかな、重々しく見ていく、とらえていくという姿勢が濃厚だったのじゃないかと思うのですが、どうも80年代になって若い世代の作家たちが登場してきてから、過去に遊ぶというのかな、重々しくとらえていくのではなくて、過去と現在を自由自在に、ミックスさせたりシャフルさせたりして、そこに何か新しい、従来とは異質な文学空問を作り出していくという、そういう姿勢が、いま言われたようにアクロイドとか、あるいはバーンズとか、それにアンジェラ・カーターの『夜ことのサーカス』なんていう作品もそういう例の一つじゃないかと思いますけれども、そういった作家たちの作品の中に顕著に出てくるということがあると思いますね。

青山南・江中直紀・沼野充義富士川義之・樋口大介『世界の文学のいま』(福武書店、1991)所収の座談会、青山南・江中直紀・沼野充義富士川義之「移住者の文学」より。ここで富士川氏は、80年代になって出てきた“若い”作家たちの過去なるものを扱う手つきが、60年代頃までとは異質であることを指摘している。自分がこの発言を目にして直感的に連想したのは、昨今あたりまえのようにSNSでもみられるフィルムカメラ風に加工した写真や、あるヴィジュアルをピクセルアートに仕立て上げるようなモード(流儀)のことだった。

英文学者富士川氏のこの発言からはすでに30年以上が経過している。でも、息を吸うようにサンプリングを楽しみ、過去で遊ぶことができる感性は、表現者であれ受け手であれ、戦後生まれの多くの日本人もある程度持ち合わせているものなのではないだろうか。つまりこうした世代的特徴は、80年代だとか10年単位で区切られるものというよりも、ある世代より下以降に瀰漫しているようなものとして捉えられないだろうか、フライパンに落としたバターの白く薄いひろがりのように。

自身作詞を手がけるあいみょんですら、昭和後期から平成の流行語を多数盛り込んだ歌を歌っているくらいで、80~2000年代をミックスする感性はポップカルチャーの世界でも現在のところたまさかめずらしいわけではない。けれど大好きなマンガ、山田参助の『あれよ星屑』(エンターブレイン、全7巻)に新しい想像力をよろこばしくも感じた理由のひとつは、1940年代、死や陰惨のイメージとどうしても紐づけられてしまう終戦直後の焼け野原を舞台にしてこれだけ交響的なエンターテインメント巨編を描ききった部分にある(戦中の回想シーンも多分に含まれているが、舞台としては1940年代と要約してもさしつかえないだろう)。

過去の偉大なマンガ家の絵柄をも融通無碍にパロディ・サンプリングしているのもさることながら、時代のおおきな渦の只中にいながらも(ときに欲をむき出しにし)たくましくふてぶてしく生きていくキャラクターたちを見ていると、なんだか胸を打たれるのだ。有史以来、どんな時代だってヒトには健全で不健全な欲望とそれを満たすための娯楽が存在してきたにちがいない、なんてちょっぴり大げさな思索までしてしまう。

今日マチ子こうの史代など“若い”作家が戦争を扱った佳作にはこれまでも触れてきたが、『あれよ星屑』は文字通り未知の地平の向こうのそのまた向こうの星の屑を見せてくれる、精神的支柱のような一作になってくれた。