“新進作家”、レジェンド・エリスンに嚙みつく?――ハルキムラカミによる若干のSF批評に就いて

村上春樹の作品についてはさまざまな人がさまざまなことを言っているが、ある種の作品がSFの質を帯びているのは疑い得ない。「SFマガジン」が2006年に行ったオールタイムベスト・アンケートでは、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は国内SF長編48位にランクインしている。

さて今回は筆者が偶然発見した村上によるエリスン『死の鳥』書評を紹介する。氏がその本を「読んでいた」ことそのものは、翻訳家・風間賢二氏のエッセイ集『快楽読書倶楽部』(創拓社)によって熱心なSFファンの間ではこれまでも知られていた。ただ、この記事は風間氏が早川書房の編集者であった時代、喫茶店で原稿の受け渡しをした際に村上が『死の鳥』について言及した、と書いてある程度で、村上自身がエリスンについて書いた文章が存在するとは筆者はまったく知らなかった。また、インターネット上にもこの書評に言及しているサイトが見当たらないので、わざわざ大きく取りあげさせていただく。

掲載されたのは「ハッピーエンド通信」という、総ページ数70ページにも満たないカルチャー誌の80年5月号で、分量としてはわずか1ページ。「「ウルトラ・ヴァイオレンス」の作家、ハーラン・エリソンのSFを読む」という見出しに興奮しながら読み始めたのだが、書き出しに面食らってしまった。

 僕が比較的熱心に読むサイエンス・フィクションの作家といえば、シルヴァバーグかこのエリソンというところなのだが、シルヴァバーグの作品がまさに玉石混淆といった趣きで訳出され、ずらりと書店に並んでいるのに比べればエリソンの翻訳は驚くばかりに少ない。そこでいきおい原書のペーパー・バックスということになるのだが、これが読み辛い。いや、読み辛いというよりは、不快という方が先に立つ。

「読み辛いというよりは、不快という方が先に立つ」。これはまったく好意的な評価ではない!

続けて村上は、作品集に付されたエリスンによる自序を引用。

「本書を一息で読むことはお勧めできない。間を置かずに読み通した場合、各作品に含まれた感情的波動は、あなたの精神を極度に混乱させてしまうかもしれない。これは心からの忠告であり、決してこけ脅しではない。H・E」

 これが実に本書の冒頭にある筆者からの警告なのである。もしこの押しつけがましい文章が読者を一ページめから不快にさせるために書かれたのだとすれば、筆者のその意図は百パーセント成功しているようだ。

どう考えても、これはホメているようには見えない。もっと言ってしまえば、当時まだデビューしたての新人作家だった村上によるレジェンドへの論難である。もしこの書評が日本のエリスン読者を一ページ足らずで不快にさせるために書かれたのだとすれば、筆者のその意図は百パーセント成功しているようだ。

この後、カポーティがケルアックの作品を論じる時に編み出した「「タイプライティング」言語」という概念を参照しながらエリスンの文体の人工性を検討するなど、米文学徒としての側面を感じさせる箇所もあるのだが、それにさらに続く段落では「死の鳥」への批難の手を休めない。

 もちろん、エリソンがジャック・ケルアックに匹敵するかどうか、といった比較にはまるで意味はない。そのような比較を行うにはサイエンス・フィクションというカテゴリイは余りに大らかすぎる。この大らかさは現代稀な美徳でもあり、エリソン自身もその大らかさを存分に楽しんでいるようなのだが、SFファンならざる僕としては、そこに飽き足りなさを感じないでもないわけだ。例えば本書の標題作「デス・バード」は七四年度のヒューゴ賞を受賞した評判の高い作品だが、その大仰な構成と文体にもかかわらず、結局は既製のSFパターンを脱してはいないし、無意味なオチをつけることによって生命力を減殺させている作品も他に幾つかある。

この書評のもうひとつの読みどころは、自身が『空飛び猫』という絵本のシリーズを訳してもいるル=グィンについて触れた箇所かもしれない。

それでもエリソンをはじめとする現代のサイエンス・フィクションが持つ有効性は決して損なわれてはいない。あとはエリソン自身が語っているように、この方法論にどれだけの「文学的完成度」が付与されるか、という問題になるわけだが、これが為された時、現代の文学をサイエンス・フィクション抜きで語ることは不可能になるだろう。アーシュラ・K・ル・グィンはこの有効性を「距離を置く(ディスタンシング)」という極めて興味深い言葉で表現している。状況や自我やモラリティー、あるいは想像力からのディスタンシングはこれからますますその意味を増していくであろうし、ハーラン・エリソンがその「人工的な悪意」という名のタイプライターから叩き出した作品群が読者に要求するのも、ある種の情緒的なディスタンシングのようである。

「決して損なわれてはいない」「これが為された時、現代の文学をサイエンス・フィクション抜きで語ることは不可能になるだろう」「極めて興味深い言葉で表現している」といった最上級のことばがここで使われていることに注目したい。ここで村上は、スペキュレイティブ・フィクションの潜在的可能性を本気で信じているように見える。ディスタンシングという視点から『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を考え直してみるのも面白そうだ。

ここで、けして数量として多くはない村上のSFへの言及や関わりをまとめてみよう。ル=グィンについては、分身のように登場人物から離れ、自律して行動する〈影〉というアイデアに、『影とのたたかい』(『ゲド戦記』1巻)と『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』との類似を指摘する評者もいる。エリスンについては、この書評の意を最大限に汲むと『死の鳥』には「不快さ」も覚えたが作家としては注目をしているとひとまず要約できそうだ。「SFマガジン」に村上がおそらく一度だけ登場し(1980年11月号臨時増刊)、「私の好きなSF」という題のエッセイを寄せた時に取りあげたのはロバート・シルヴァーバーグの静謐な美しさを湛えた秀作『夜の翼』(短編「太陽踊り」にも言及)。

さらに他のジャンルフィクションに話を移そう。日本で初のラヴクラフト全集(『定本ラヴクラフト全集』国書刊行会1984年刊行開始)のパンフレットに寄せた推薦文において、氏は「僕にとってラヴクラフトという存在はひとつの理想である。(中略)ラヴクラフトを手にとるたびに、小説を読むことの喜びの髄とも表すべきあのすさまじい戦慄を身のうちに感じないわけにはいかないのだ」と述べている。1981年、「海」という文芸誌において数回にわたって掲載された文芸批評的エッセイのシリーズ「同時代としてのアメリカ」ではその第一回にスティーヴン・キングを取り上げ、詳細に論じている。筆者が知る限り、これらふたつの文章は今にいたるまでどの単行本にも収録されていない。

風の歌を聴け』でデビューをしたのは1979年、上記『死の鳥』の書評は1980年。デビューしてから数年以内、つまり80年代前半まではさまざまなジャンルフィクションの作家についても文章を書いていたのに対して、国内外での評価がその後高くなっていくと、あたかもそれに呼応するかのようにSFやホラーについてはほぼまったく言及しなくなっていく。『グレート・ギャツビー』や『キャッチャー・イン・ザ・ライ』といったメインストリームの作品あるいはアメリカ文学の古典については翻訳もし雄弁に語りもするのに、SFやホラーについては押し黙ってしまう(沈黙を固持する)というのは、「自身の作品をそうしたジャンルと結びつけて論じられることを回避する」ための防衛策と見る向きもあるかもしれない。ただ、周知のように村上は多くのアメリカ小説に影響を受けていてその中にはヴォネガットブローティガンなど超自然の要素を持つものは多いし※、たとえエリスンやシルヴァーバーグやル=グィン――なかでもニューウェーブ運動に揉まれた1960年代の作品群――を好んでいたといっても、その後のSFを時事的に追っていなければ、進んでそのジャンルに言及する気は起きないというのもごく自然だと思う。だから個人的には、SFへの言及が激減したことに対し、読者や批評家がかならずしも過剰に意味を見出さなくてもいいと考えている。それでも<寓意>という手法をときに積極的に取り込んでいく村上の作品と、英語圏小説との関係を再考するためのかすかなヒントとして、若き日のこの書評は読まれうる。

※村上作品とヴォネガットブローティガン、またその作品の翻訳家たちとの関係は、邵丹『翻訳を産む文学、文学を産む翻訳』(松柏社、2022)が緻密な分析を行っている。
(初出:「カモガワGブックスVol.4 特集:世界文学/奇想短編」(2023)※許可を得て再掲

ブログ再掲にあたっての追記…「同時代としてのアメリカ」第一回では、リチャード・マシスンジャック・フィニイ『盗まれた街』といったジャンル小説にも言及している。