多和田葉子の『アルファベットの傷口(文字移植)』という作品は、翻訳家が主人公でかつ言語遊戯というテーマを全面に押し出した、知的な企みにみちあふれたユニークな小説である。

原稿用紙に穿たれた「O(オー)」が果てのないトンネルのような深淵になっていて主人公がその無限の空洞を垣間見るとか、「身から出た錆」ということわざを主人公が想起したまさにその瞬間にほんとうに錆が身体から流れ出し始めるとか、読者は面食らってしまう。自分は読後にネットの感想で知ったのだが、どうもドイツ語のことわざに由来する奇想もちりばめられているようで、いつかそのあたりを調べたのちに再読してみたい。

さて、多和田葉子は複数の国の翻訳家をゲストに自作を翻訳してもらうワークショップを幾度となく開いている。ことわざや慣用表現とはある特定の言語の内にしか存在しないものも多いわけで、翻訳困難にみえるものを翻訳家たちがうんうんと頭を悩ませ自国のものに置き換えていく創発的なプロセスがあるのだとすれば、社会言語学という視点からもとても面白そうな予感がする(ことわざは動物の名前を含むものも多いけど、翻訳をしたらオリジナルにはない動物が出現してしまうとか、たとえば)。