ケイト・ウィルヘルム『杜松の時』(サンリオSF文庫)

サイト「翻訳作品集成」のウィルヘルムの項には一言、「『杜松の時』の衝撃感は忘れられない」。筆者にとっても、これからの人生で幾度となく反芻してゆくだろう唯一無二の作品だった。その文明批評眼のありようにおいて、絶頂期のバラードや伊藤計劃『ハーモニー』を読んだ時と等しいショックを受けたといっても言い過ぎではない。

小説の舞台は、本作執筆当時(1979)から数十年後とおぼしき程度の近未来。地球のごく局所的な地域でのみ始まった旱魃は、少しずつこの青い星全体に拡がろうとしている。それに呼応してアメリカでは慢性的な不景気と食糧制限、人口過密と難民問題が進行していくが、無気力と諦念が人々を支配し、反政府のデモにも60年代のような活力はない。アメリカ、ソ連を含めた列強諸国は共同で宇宙ステーションを建造・開発するが、技術面での困難さ、自己の頻発、また政治上の思惑も入り込み、プロジェクトは険悪な様相さえ呈してくる。

ともに多感で繊細、そして幼なじみのジーンとクルーニーは物語の幕が上がってまもなく、真相不明の宇宙ステーションの事故でともに父親を亡くすという悲劇の共通点によって結ばれてしまう。そうした苦しい過去をともに持つ一組の男女のティーンエイジャーが、手を取り合って肉親の謎というヴェールを解きあかしていく青春小説……、稀にみる巧緻で複雑なプロットをそなえる本作では、事はそのようには運ばない。

ルーニーとその仲間は、ある日ステーションの軌道上で便箋ほどの薄さの、金色の薄片を発見する。表面には記号が浮き彫りになっていて、まるでどこかの神が使うのにふさわしいような巻物であるように見える。可能性はふたつにひとつ、ひとつは地球外の生命体からのメッセージであることだが、同時に何者か、アメリカ以外の列強諸国が罠として精妙に造り上げた偽物である可能性もある。前者の可能性は、旱魃が世界規模で進むにつれ、特殊な意味を帯びていくことになる。すなわち、持続不可能であることがもう明らかになってしまったこの地球における、人々にとっての希望のよすが

一方ジーンは、あらゆる言語を解読するための理論の研究に没頭している天才教授、アーキンズの下で仕事を始める。アーキンズの言葉による暴力やきつい仕打ちに耐えかねて、アリゾナに暮らす母に会おうと出立するが、ここから思いもよらない壮大な徒歩(かち)の遍歴が始まることとなる。シカゴに建設されたニュータウンアメリカの都市文化からは隔絶されたネイティブアメリカンのコミュニティなどを傷つきながら彷徨し続けるありさまは時に辛くなるほど傷ましいが、すべてが終盤につながる伏線となっているので、辛抱づよく読み進めてみてほしい。

※以下、本作のネタバレを含みます

言葉にならない愕きと畏れとともに本作を読み終え、もう一度この果しなく長い(だからこそ一瞬に感じられる)物語の旅を1ページ目からジーンの目線で眺め直してみる。すると、アーキンズ教授との邂逅からこちら誰よりも脆そうだったジーンは、実は無敵かつ不死身の肉体をそなえた存在であったことが事後的にわかる。尖った小石だらけの赤茶色の曠野を意識が遠のくほど時の経過がわからなくなるほど歩きつづけても、銃で撃たれても、自ら命を絶とうとしても、世界がその終焉を迎えようとしても、かならず最後には助かってしまう。

今なおその衝撃の中にある筆者の私的な読みを披露するなら、ジーンが無敵であることにはふたつの秘密がある。ひとつは小説の冒頭12ページ、少女時代に父親ダニエルが伝えた言葉、つまり世界と言葉との関係についての言葉を記憶し、胸の裡で大切に育てていったこと。大学で言語学科を選択したのも幼少の頃の関心が芽吹いたのだと言えるし、p367、ワシントンで大統領の科学顧問団に取り囲まれ、事実上の取り調べを受けても巧みな弁舌を駆使して一命をとりとめたのも、言葉を武器に変えることができたおかげである。

ひとつ目の秘密よりももっと大切に思えるふたつ目の秘密は、あと戻りのできない大変動を起こしていくこの地球にあって、変化を歓迎し、自分を組み替えていくことを進んで受け容れたこと。アーキンズ、クルーニーをはじめ、自分のこだわりに固執する人間は、いかに高邁な理想を抱いているようにみえても、本作では生き延びていくことができない。ジーンは試錬の門を次々とくぐり抜け、旅の途上、一歩足を止めるごとに内面や性格を変化させていく。ネイティブアメリカンとの共生の経験は、なにも「自然に還れ」などという著者からの古びたメッセージではないだろう。この小説に寓意を読み取ろうとするならば、ひとつは「変化に柔軟であれば、こうした世界でも逞しく生きていける」ということなのではないか。今こそ広く読まれてほしい傑作だ。

PS
山田和子の解説はアメリカまでウィルヘルムを直接訪ねに行った、その体験記という側面を多分に含んでいるが、現地での座談会の記録であるケイト・ウィルヘイム+山田和子+デーモン・ナイト+サーニ・エフロン「スペキュラティヴ・フィクションのいま」(「NW-SF」18号)も素晴らしい。