堀田季何『人類の午後』(邑書林)

ユリイカ」「特集:現代語の世界」の「われ発見せり」の欄に寄せた短文を記憶していたのと、栞(枝折)執筆者のひとりに恩田侑布子がいたので書店で購入した句集。この本でいくつもの賞を受賞したことも含め、著者については事実上なにも知らないまま読み始めたのだが、俳句というジャンルのイメージを刷新してくれるような一冊になった。

量としては実のところ全体の3割にも満たないと思うが、ホロコースト東日本大震災、原爆といった人類史上の悲劇を扱った作品がこの鋭敏な句集の音色を決定している。半分ほど読み終えたところで、なぜか急にミウォシュの詩群が鳥のように頭に去来した、羽ばたいてきた。


やや単純化して言うと、「ミウォシュに代表される現代ポーランド詩」と私が言うとき、念頭にあるのは、言語そのものに関して非常に意識的でありながら、最先端の現代詩にありがちな実験のための実験といった難解な方向には走らず、むしろ平明な言葉を深く操っていく。そして言葉の音楽的な美しさを無視するわけではないが、それよりむしろ、言葉によって表され、象徴され、暗示される意味や思想を重視する。歴史や政治に対していつも鋭く意識的で批判的だが、あからさまに政治的になることはなく、むしろ非政治的でしなやかな言葉の使い方を貫くことから生まれる詩的思考(それを独自の哲学と呼んでもいい)によって、政治に対抗するような力を獲得する――こういった特徴である。

沼野充義が『チェスワフ・ミウォシュ詩集』(成文社、2011)に寄せた編者あとがきの一部である。氏自身が「単純化して」と認める通り、この記述は現代ポーランド詩どころかミウォシュの詩についてさえその美質を描写しつくしたものとは言えないだろう。そしてこの文章をちょうどいま引用している筆者も、定型と非定型の違いについてもよく考えずにポーランド詩を引き合いに出している根拠を整然とは説明できない。それでも、この句集の書き手に目を瞠るようなしなやかな知性が宿っていることは間違いないと思うし、この俳人独自の詩的思考、哲学について考えることでことばの持つちからについて一から考え直してもみたい。