衿沢世衣子『ベランダは難攻不落のラ・フランス』(イースト・プレス)

『シンプルノットローファー』!(単巻バージョンのほうが好き)『ちづかマップ』!読んでいてなぜかいつも心地よい気分にさせられてしまう衿沢さんの最新短編集。初めはタイトルを見て「どんな内容?」とか思ったのですが、それぞれの作品のタイトルをパッチワークっぽくつなぎ合わせたものなのでした。元幼なじみ高校生五人組(イギリスの男の子含む!)が織りなす群像劇「難攻不落商店街」が楽しすぎる。個性のツヨい子どもたちが関係性をくるくる変転させながら創り上げるハイテンションなコメディには思わず顔が緩んでしまいます。「シネマコンプレックス七変化」のチャプターが最高。

(自分も海外に少し住んでいたことあるのですが、ときどき衿沢さんの描くものの中には「英国的」な charm を感じることがあり。モスの家族がやってる「sudoku」って英語圏でもすごく親しまれていてその割に意外とみんな日本のものとは知らないで熱中していたりする。とか、細かいところにもつい反応したくなってしまうのですが、とにかく「難攻不落商店街」は傑作です)

短篇小説日和

・アーネスト・ブラマ「絵師キン・イェンの不幸な運命」(「ソムニウム」4号)
シノワズリ特集ということで綺麗な小説を期待して手にとったら呆然。なんだこの作品は。今まで読んだ国内海外中国キューバどんな国の小説とも似ていない。英語圏のフランク・オウエンやトマス・バークといった「「支那物語」に筆を染める異能の作家たち」、「そのなかにあっても独自の地位を占めている」と訳者も述べているけど、破壊的なまでに強固に組み上げられたスタイルで、形容することばが浮かびえない。

・ジョゼフィン・サクストン「障壁」(ジュディス・メリル編『年刊SF傑作選6』創元SF文庫)
サクストン。水鏡子の『乱れ殺法SF控え』巻末の作家ガイドにはしっかり項目が立っていて、「イギリスの女性作家。短篇が二つ訳されているだけだが、「いまだ“既視”ならず」も「障壁」も後に尾をひく作品だった」なんて記述がみられる。堅固な障壁によって北と南を隔てられている擂り鉢状の世界を舞台に、ある男と女の特異なかたちの恋を描く作品。読み出そうとしても押し返してくるような、物語序盤のすさまじい密度の風景描写にまず圧倒される。ニューウェーブ/ヌーヴォーロマン的な彼女の方法意識の高さを吟味すれば、本作は現代における男女のありかたを寓話のかたちで問おうとするものだと本気で信じることができると思うし、世にある「恋は障害がある方が燃える」ということばの普遍性(!)を文字通りの障害=障壁を登場させることで神話的に謳いあげる小傑作だと感じた。

山尾悠子「飛ぶ孔雀」(「文學界」2013年8月号・2014年1月号)

ハヤカワ文庫JAの『夢の棲む街』を読み了えたのは僕が19歳になった日の誕生日。それから幾らかの歳月も水のように流れたが、この人の作品を同時代的に読むことができるというのは僥倖というほかない。

著者文芸誌初進出となる本作は、これまでの幻想小説的な作風を抑制し、<和>の新境地へと挑んだ野心作とみることができる。

物語を要約するのは少しばかり骨が折れる。短章形式で綴られる典雅なエピソード達は、特に連作の「1」を読む限りでは有機的な繋がりをなかなか見出しにくいからだ(とはいえディテールはきわめて豊かであり、廻転するこれらの種子たちはそれだけでも白く大きい花を開かせてしまいそうな緊張感に身をそよがせている。特に個人的に好きなのは「柳小橋界隈」や「岩牡蠣、低温調理」のパート)。

1と比べてはるかに大きいボリュームを持つ2を読み進めれば、読者はこの作品が(たとえばスーラが描くような)品のよい点描画ではなくして、大風呂敷を天に張らんとする一作であることを了解する。

舞台は、四万坪という広大な敷地を持つ川中島Q庭園。城の天守閣を背景とする「池泉回遊式大名庭園」であり、水に囲まれた人工の島である。この日ここでは大きな茶道の催しがあるらしく、双子の制服の女子高生や大勢の和装のスタッフ達が慌ただしく園内を動き回っている。名前のない人物も数多く登場するのだが、「借り物の団扇で風を送ってくる妻は黙って頷き、愛犬が大人しく留守番している家には必ず帰っていかねばならない老夫婦はこのあたりで話の圏外へとフェードアウトする」といった表現の中に、金井美恵子アラン・ロブ=グリエなど著者が読んできたヌーヴォー・ロマン的作家の残響をかすかに聴き分けることもできるかもしれない。

孔雀が存在として初めて現れるのはこの章からで、初めのうちは単に「金属的な呼び声」、けれど次第にその気配は少なくない人々が感じることとなる。夜になれば広大な庭園はつんざくような大音量の楽隊によって狂躁的祝祭的な雰囲気に包まれ、孔雀もそれにシンクロして今や人々に危害を加えんばかり。島の上空ではどういうわけか赤い星までが月の周りを旋回し始め、催しの興奮はその最高潮に達する。この凶暴なまでに異様な言語感覚には怯まざるをえないのだが、その行いこそが読み手に求められるひとつの正しい作法だとも言えるだろう(70年代の山尾悠子ならこういう文章は書けなかったはず!)。

物語としての連作2はこのあたりで途切れているのだけど、紅い眼をした孔雀がその荘厳な羽をさらに本格的に拡げるだろう次回以降を楽しみにしたい。また、(たとえば)火種や石切り場を媒介として、タエとトエは夢の中でつながっている、といったミーハーな予想も許されるだろうか。いずれにせよ、孔雀は飛ぶ。
(2017.3.5)

ひとつの本を読みながらこころは「いま、ここ」を離れて同じ作家のむかしの本に向かっている。響き、におい、温度、そういったものを思い出しながら目の前の一冊とそれとなく比較している。思考している。あるいはべつの作家の作品が、錆びついた記憶の井戸の底から急に浮上して、はっと意識される。さらにあるいは存在する本を読みながら存在しない本を夢想する。まだ書かれたことのない、あの作家この作家だれでもない作家の最高傑作。

佐々木マキ『HELP!』(トムズボックス)はもともと期待値が低いまま手にとったが、やはり『佐々木マキ作品集』(青林堂)が産み落とした小さな子供のような印象を受けた。数ページ読んで直感して、あとは頭の中にある『佐々木マキ作品集』のエッセンスをすこしでも再生しようという読書に切り替わる。

佐々木マキ作品集』は素晴らしかった。「素晴らしい」という文字のように天候の晴れた心地のする稀少な体験。読み終わってしばらくは目の良さと光の感度が150パーセントになって頭も冴えるので、部屋から外に飛び出したくなる。外に出てぼくだけの言語で叫ぶ。ことを想像する。

かれの初期のマンガは「どこでもない光景」の愉快な紙芝居だ。あまりにも奇妙な状況の描かれた開幕の意味を読者が考えるひまもなく、かれはもっともっと変な絵をひきつづいて連射してくる。その光景は奇妙といっても、逆柱いみりのような夢魔の犇めく濡れた市街図とは異なる。物語にはつながっていかない。どこまでも絵だと思う。ことば本来の意味での「漫画」の伝統。西洋的なるポップアートの血。そういったものを感じさせる。なんでもないさまざまな空間にレモン爆弾をつぎつぎに置き残しては去っていく、ひとりの風のような絵描きの姿が脳裏に閃く。そしてなによりここには前衛の熱さがある。時代も関係しているのだろう、ページから掌にかあぁぁっ、と伝わってくる。そのかあぁぁっ、は今の時代のマンガだとなかなか得難いものなので、ぜひ多くのひとに知ってもらいたい。とうとうつりたくにこまで復刊してくれた青林工藝舎ならやってくれるのではないか、という期待を打ち消せない。打ち消そうとしても飛び跳ねる期待にほとんど困ってしまう。

というわけで、マンガの話なのだった。あ、トムズボックスはいろいろ面白い本を出していますよ、と最後にフォローをさせてもらおう。

佐々木マキ『うみべのまち』(太田出版)

読んだー。出たすぐ直後、ジュンク堂の難波店で著者サイン入りを買っていたもの。マンガ家としての佐々木マキ作品の軌跡を集成した、革命の熱い一冊であり、こういう企画を実現させてくれた太田出版に拍手を送りたい(オビ文・村上春樹)。

収録作品の多くはすでに読んでいたので、この本そのものの感想に代えて過去の自分の文章をここに転載しておきたい。太田出版さん、本当にありがとう。

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2013年の収穫

ちょっと仕事がひと段落したので、(もう2年は経っちゃったけど)13年に出会ったもののうちから、これは収穫!と思えるものをちょびちょびアップ。

1.人生の贈り物

朝日新聞夕刊掲載の連続インタビュー企画。時の回廊を登りつめた賢人たちが、今という時代を快活に生きるためのメッセージを照射する。このエントリーをアップしようとしている15年現在も連載は続いているんだけど、とくにこの13年は、佐藤忠男中井久夫といった荘厳な面々の含蓄にみちた言葉が感動的。

2.「あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない」

秩父を舞台にした群像劇アニメーション(なんて要約でいいんでしょうか)。ヘンに舌っ足らずの幽霊の女の子、十万石まんじゅうブーゲンビリア。野山を駆け回った少しばかりの記憶、歳月のもたらしてしまった、同学年のヤツらとのそこはかとない距離感。

そこまで面白い作品ではない、という意見をお持ちのかたもいることだろう。けれど、「この物語がどこに向かっていくのか、最後まで見届けたい」と思わされてしまうようなある切実さが、第一話には宿っていた(この主人公ヒキコモリなのに、なんでTシャツには西へ東へなんて書いてあンだ!?)。

3.五十嵐大介「はなしっぱなし」

恥ずかしながら、下巻だけ読み残していた。威勢良く放り投げられた物語のつぶてたちは、僕らの目の前を一瞬だけさっとかすめて、けれどそれでそこでおしまいではない。豊穣の礫(れき)は簡単にはアスファルトに着地しないから、永くこころに留まっているから、だから面白い。「遊戯の終り」「エロチック街道」「迷宮都市」あたりと胸を張って肩を並べられる、超短編集の精髄。

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4.大江健三郎「もうひとり和泉式部が生まれた日」

Kenzaburo Oeが勝ち取ったのは、ノーベルの平和賞ではない。人類の魂の救済の問題を衝撃的に描いたとして、栄誉ある文学賞を授与されたんだ。そんなふうに熱っぽく語りたくなるほど神話的な奥行きをもつ本作には、読み手の精神をガツン!と殴打する森の叫びとパルスが壮麗にも充ちあふれている。

テキストサイト輸出プロジェクト

2015年この夏、サマージャンボ宝くじがもし当たったら、英語圏のニホン文学研究者に頼んで、猫を起こさないようにカッツェにしやがれ醒めてみれば空耳といったテキストサイトの精髄を英訳してもらいます。みんなー、オレが当たらないように祈ってろー!(ざっぱーん)

坂崎千春『片想いさん 恋と本とごはんのABC』(WAVE出版)

(……ついに、理想の本と出会ってしまった)

...I just encountered my ideal.

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黒田硫黄『茄子』(1)(講談社)

再読。数多ある、自分の人生を変えた本のうちの一冊(宮崎駿がオビに推薦のことばを寄せていたことも記憶に新しい)。「アンダルシアの夏」。「ランチボックス」。十数年ぶりに読み返してみても、鳥肌が立つ。

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ウンコ is cool

むかしミクシイに、「ウンコ is cool」というコミュニティがあった。アイコンは、テーブルにバナナを重ねて巻きグソに模した写真。ユーザーが参加することに目的なんてなく、ただの一種の悪ふざけだ。それでも、そんなバッドテイストに共感するひと、ここにあつまれ。

ウンコについて問うことは難しい。ウンコ味のカレーとカレー味のウンコ、どちらかを食べなければいけないとしたらどっち?どっちの料理ショーをあまり見ることのなくなった今でも、幼年期に投げかけられたこの問いは、大きなナゾであり続けている。

世の中の男子は、ウンコ派とチンコ派に大別できる。ほんとうはできないかもしれないけど、できることにする。チンコ派は強い。早熟だし、強度がある。くらべて、ウンコ派はじっくり型だ。いっけん優柔不断にみえるけれど、コツコツと物事に取り組むのが得意。トイレに何時間もこもることだってできる。

思春期のどこかで、たいていの男子はセックスについて知る。チンコ派は、くり返させてもらうけれど、たしかに強い。けれど、ここでチンコ派は……どう言えばいいか。たとえば、セックスというものを知った瞬間、ショックを受ける男子は多いと思う。このとき、チンコ派のチンコへのこだわりは、セックスのほうに向かいすぎてしまうのではないかというのが個人的な関心事なのだ。大きいとか大きくないとか、そのあたりで探求心がストップしてしまうのだとしたら、少し残念な気もする。

さて、そのころウンコ派は何をしているんだろうか。知ったこっちゃない、たぶんまだトイレにこもってでもいるんだろう。ただ、ウンコ派は、スロースターターではあっても、粘り強いタイプであるとは思いたいのだ。ウンコだけに伸びしろがある(ウンコだけに)。こういうふうに言い換えることもできるかもしれない。チンコ派は先攻逃げきり型、ウンコ派はラストスパート型。どちらに勝算があるかということについては、一概に言えない。たぶん、なんでもいいから、目標に向けて前進することが大切なのだ。

ウンコをモチーフにしたフィクションは数多い。いくつかあげてみようかと思ったが、すでに紙幅が尽きた。実はこのテキストをタイプしているのはトイレで、トイレットペーパーが足りないことに気づいたのだ。わお、だれかボスケテ