2023年の収穫

自分のようなslow readerにとってわずか一年の読書ではテーマが前景化しない、と嘯いて年鑑の回顧は見送るつもりだったのですが、精神の支柱となる書物にいくつも出会えてしまったので、コメントなしで簡単に並べてみます。

プチ・ルール
・自分の専門に関わる本は外す
・★は別格で愛着があるもの
・2023年の新刊ではなく、その年に読んだもの
・刊行から3年以内のものには発行年も示す

大江健三郎同時代ゲーム』(新潮文庫)★

ケイト・ウィルヘルム『杜松の時』(サンリオSF文庫)★

キム・チョヨプ、キム・ウォニョン『サイボーグになる』(岩波書店、2022)

残雪『最後の恋人』(平凡社

Pemi Aguda“Breastmilk” in The Best Short Stories 2022: The O. Henry Prize Winners

Rebecca Solnit A Field Guide to Getting Lost※邦訳あり

Ursula K. Le Guin Steering the Craft※邦訳あり

アリエット・ド・ボダール『茶匠と探偵』(竹書房)

岡田利規「掃除機」(『掃除機』白水社、2023)

佐藤春夫「女誡扇綺譚」(『女誡扇綺譚 佐藤春夫台湾小説集』中公文庫ほか)

チェスワフ・ミウォシュの詩★

沼野充義「ルジェヴィッチ、あるいは生き残りの論理」(『世界文学論』作品社)

ワート・ラウィー「詩とは反逆だ」(福冨渉note)

堀田季何『人類の午後』(邑書林、2021)

ユリイカ 特集:現代語の世界」(2022)

阿部大樹『翻訳目録』(雷鳥社)

イ・ソンチャン『オマエラ、軍隊シッテルカ!?』(バジリコ)

伊藤重夫『ダイヤモンド・因数猫分解』(アイスクリームガーデン)

A ee mi『Platonic Love』(Paradice System、2023)

プラトン「アンドロギュノスについて」(『書物の王国 両性具有』国書刊行会)

和田忠彦×四元康祐「詩、小説、翻訳の向こう側」(「現代詩手帖」2019年10月号)

和田忠彦×四元康祐「シベリア経由、ヨーロッパ⇄東京」(「現代詩手帖」2020年2月号)

伴名練「戦後初期日本SF・女性小説家たちの足跡 第九回 稀代の幻想小説家とSF界をめぐって――山尾悠子(「SFマガジン」2023年10月号)

千葉文夫「パリのキューバ人 アレッホ・カルペンチェール」(『ファントマ幻想』青土社)

Ursula K. Le Guin “A Left-Handed Commencement Address”(Ursula K. Le Guin公式サイト)

The University of PensylvaniaにおけるSusan Stewartと学生たちとの詩をめぐるディスカッション(2004)の録音

このページの「Complete conversation (43:08)」から聴けます

金田理恵『ぜんまい屋の葉書』(筑摩書房)

梅木英治『最後の楽園』(国書刊行会)

柘榴はペルシア語では「アナール」と呼ばれ、省略形の「ナール」は「火」という意味も含む。目にも鮮やかな真紅の柘榴は真っ赤に燃え盛る火とも通ずるところがあるためであろうか。ペルシア文学では宝石箱やルビーは言わずもがな、麗人の唇や胸、血の涙(号泣して涙を流し尽くしたさまをこう表現する)、人が微笑むさままでも柘榴に喩える。
佐々木あや乃「色彩豊かな宝石箱でおもてなし」沼野恭子編『世界を食べよう! 東京外国語大学の世界料理』(東京外国語大学出版会)

アルメニアパキスタンなどなどの文学や映像作品のなかでは時おり触れる果実、ざくろ。生のままを自分でカットして食すというのは一度もしたことがなかったのだけど、スーパーで発見したので思わず購入してしまう。

コンフォートにして、プレーンヨーグルトに添えてみる。

 

 

現代詩手帖」2022年2月号に掲載された、ドロシア・ラスキー×スティーブン・カール×由尾瞳×佐峰存による座談会「沈黙を破るアイデンティティの声」を読み始めていきなり驚いたのが以下の箇所。

佐峰 (略)私自身がアメリカ詩に触れるなかで実感しているのは、文体やテーマにおける日本の現代詩との大きな違いです。例えば、アメリカ詩はもともと主語がはっきりしているように思いますが、とりわけ近年のアメリカ詩を読むにあたっては、詩人のバックグラウンドや、作品の背後にある政治的・文化的なテーマを考慮する必要がどうしても生じてきます。それと較べて日本の詩は、言語そのものを直視する、いわば「言語芸術(Language Art)」の側面が重視されているように感じます。

ラスキー (中略)おっしゃるように、最近のアメリカ詩ではより明確な「私」の像が求められるようになってきています。そして詩の語り手は詩人本人と混同されがちです。私は少し古いタイプの人間で、詩人は語り手としてペルソナをつくるものだと考えてきました。語り手は必ずしも詩人本人である必要はない。詩のなかで「私はインゲン豆が嫌いだ」と言っても、インゲン豆栽培者の誰も私個人に腹を立てることはできません。ペルソナと私の間には断絶があるわけですから。しかし、私たちよりも若い世代では、意図的に混同されていると感じます。アメリカで目覚ましい活躍をみせる若手詩人たちの多くは、作品の「私」に自分自身を重ねながら書いています。ですからノンフィクションのような作品になりつつあるという状況がひとつあります。
ドロシア・ラスキー×スティーブン・カール×由尾瞳×佐峰存「沈黙を破るアイデンティティの声」

このラスキーの発言に対し、カールも「私もまったくそう思います」と述べ、近年は「自分語りをおこなう「私」は人気を博して、詩の一形態として認められるようになりました」ともつけ加える。

この記事では詳述しないが、とくに21世紀以降、小説というジャンルもアイデンティティ・ポリティクスという特質が強まってきているように見受けられるが(あるいはそういう読みのモードの影響力……?)、アメリカ詩でもそうした状況はとっくに定着しているというのだろうか。なお、これについて、文法的に「主語に対して非常に明確な位置づけを与え」る「アメリカ英語のあり方と深く関係している」とするラスキーの意見は、日本語は主語が不要であるという知識と照らして出てきたものなのかもしれないが、自分には残念ながら短絡的にみえる。

インドネシアの食文化

ここ数年で何度かインドネシア料理を食べに行ったり、インドネシア人の友人と交流したりしているきっかけで関係する本についても読むようになっている。阿良田麻里子『世界の食文化6 インドネシア』(農山漁村文化協会)があまりに面白く(四方田犬彦が紹介しているベトナムカンボジアラオスミャンマーの巻もよかった!)、これと間瀬朋子、佐伯奈津子、村井吉敬編『現代インドネシアを知るための60章』(明石書店)と友人の話を読んだり聞いたりしているだけで、テキストファイルのかたちで作成し始めたメモがコットンキャンディーのようにふくらんでいく。

未整理のままだけど、少しだけ箇条書き風にしたものを以下に記す。上記・阿良田麻里子の本に多くを負っているので、その本に詳しく記述があるものについては*のマークを記した。

サンバル…マレーシアやシンガポールなどマレー系の文化圏では食べられているが、どこの国の起源かは不明
最近ではできあいのサンバルも浸透してきた 手作りは日持ちはしない
小エビのペースト…サンバルの材料の一例 インドネシアには液体の魚醤はない*
クルプック 一部の種類をのぞき家では普通作らないが、街で廉価で手に入る。日本では「インドネシアのえびせん」として紹介されることがある一方、エビ味でない味もある*
KFC・マックにもポンプ式のサンバルが置いてある
KFC・マックにもサイドディッシュとしてライスがある*
→パンはあくまで軽食という認知が広まっており、そのためライスとフライドチキンを出すというローカライズ戦略が採られた*
→“パンや麺を食べても、米なしでは食事とはみなさない”
エス=ポデンなどかき氷にはフルーツだけでなくアボカドを入れることも
料理はひと皿にすべて盛ってもまったくマナーとしてOK
食べる時は手が多い。インドネシアではお箸は使わない。左手は宗教的にも好まれないものの、左手が不浄であるという認識は変わりつつある
空心菜(kangkung) 東南アジアの多くの国で炒め物に使われる
イスラム教の強くない地域では、「コーランは酔っぱらうのを禁じているだけで、酔っぱらわなければ飲んでもいいのだ」などとおおらかなことを言ってお酒を飲むひともいる*
“皿に料理を重ねてディスプレイするのはオーセンティックなパダン料理レストラン以外では見たことがない”
アイスの食べ方として、アイスクリームを食パンに挟んで食べるひとがけっこういる
アチャール インドネシアのピクルス
Rujak Buah ピーナッツソースをかけたフルーツサラダ
コリアンダーは葉はあまり使わない、料理の仕上げ程度。クトゥンバルという名で種の部分をスパイスとして使うことが多い*
サラパン 朝食とほぼ同義の言葉

おまけの写真として、自分で作ったサンバル炒め。具材は、茄子、小松菜、にんじん、黄パプリカ、ネギ、にんにく、厚揚げなど。

 

 

 

 

ふつうは、切り捨ててしまったものに対して、テクスト自体は痛みを感じないのに、連作短編は、隙間だらけなんだけど、それをつなぎ合わせてみると、その隙間まで読み手の目が届く。そういう点では、やはり長編よりは言えることが多いと思うんです。(柴田元幸×和田忠彦「翻訳と文学」「國文學」2004年9月号)

柴田元幸との対談における、和田忠彦による目を洗われるような発言。連作長編をも含めた小説というものの形式について考えるための啓示が降りてくる。筒井康隆作品におけるラゴスの旅は、だから長編よりも長いのか。蓮實重彦『反=日本語論』はだからエクソフォニーである以前にポリフォニーなのか。あるいは、カルヴィーノ宇宙における冬の夜のひとりの旅人は?

谷崎由衣『鏡のなかのアジア』(集英社文庫)

90年代、川上弘美が頭角を現したときに福田和也は書いた。「その世界はなかなかチャーミングだが、またあまりにも強い規範性に、若干将来性への不安を抱かないではない」。現時点での谷崎由衣の小説のいくつかは、ひょっとしたらさらに一層規範的であるかもしれない。それでも、旅行中に携えたこの薄い文庫本から、日々考えていることについて少なくないインスピレーションを受けることができた。

集中では最新・最長かつ巻末に配置された「天蓋歩行」(クアラルンプールほか)をベストに推す読者が多いとみている。けれど自分は、「国際友誼」(京都)にとくべつな愛着を抱く。作者のほかの本やエッセイ、インタビューで、京都で大学生活を過ごしたこと、異言語に揺れる生活をしていること、本文で言及されている作家を作者自身も好きであることなどをすでに知っていたという事情も手伝って、特異で野蛮な私小説として味読してしまった。〈私〉という長方形の一枚の紙をzig zaguに鋏で切り進め、ごわあとしていびつな一本の長い長い帯にする。ありったけの力を込めて、遠くへ飛ばす。紙だからたとえ限度があるにしても、元の長方形よりははるかに複雑な形状をしているのは間違いない。

詩作における自己再構成のたいせつさを説いたのは作者もエッセイで言及する多田智満子だが、「国際友誼」においては自己を虚の地点にまで解体したのちにもう一度統合(つまり発見)しようとする活発な精神がよろこばしく働いている。鏡のなかのアジアとは単なるひとり仮寝の旅行先ではなく、自身そして言語をみつめるための道具として本作では装置される。

 

 

海外文学の選書眼ということでは畏怖してやまない知人のひとりと地方都市で会う。十代中頃にはもうジェイムズ・ブランチ・キャベルSomething About Eveを原書で読んでいるみたいな恐ろしい人。新幹線と私鉄に乗り継ぎ数時間ほど、駅で落ち合ったのは夜も更けた頃。

完全に話を合わせてもらうしか仕方がないのだけど、おたがいが読んでいてかつ肯定的な感想を交わした書物――ラッセル・ホーバン『ボアズ=ヤキンのライオン』、ケイト・ウイルヘルム『杜松の時』、ピーター・S・ビーグル、ジョルジュ・マンガネッリ「虚偽の王国」、アンナ・カヴァンジョイス・マンスール、伊良子清白『孔雀船』など。

実質的に薦めてもらった(と僕が勝手に思っている)本――ラッセル・ホーバンTurtle Diary(ヨーロッパを旅行しながら読んでいた、と感懐を込めて言っていた)、〈文学の冒険〉シリーズで刊行予定がありながら未訳のままのジョルジュ・マンガネッリ『センチュリア』(イタリアの作家だが英訳で読んだそう)、ヘンリー・ミラー『わが読書』、カール・ヴァン・ヴェクテンの書評、トマス・ディッシュの書評、コジンスキー『異端の鳥』、ピーター・S・ビーグル『風のガリア―ド』、ノーマン・スピンラッドBug Jack Barron、イエイツの詩など。これと別に強く薦めてもらった本があるのだけど、生きているうちに読めるかな、せめて読んでから死にたい。洋書である。

「言文一致styleのグロテスク」というまさにグロテスクな表現をかつて用いたのは松浦寿輝だったと思う。学生時代、『高野聖』や『春昼・春昼後刻』に人生を変えられた自分は、「現代語訳泉鏡花」なんてものがいつか刊行されたらそれこそグロテスクだな、などと思っていたものだった。言語、そして文化の衰微としてそうした未来を捉えていたのだ。

こうした認識に変化が訪れたのは、あるとき、ジェフリー・アングルスが『泉鏡花〈怪異・幻想〉傑作選 本当にさらさら読める!現代語訳版』(KADOKAWA)という本を自身のSNSで紹介していたからだった。日本の外で泉鏡花は川端や三島の十分の一の読者も獲得していないかもしれない。しかしそこにはもちろん、明治の日本語そして作家独自の表現が現代の日本語と大きく隔たっているという事情がある。このとき、現代語訳が刊行されていれば、国外の研究者や翻訳家にとって大きな助けとなりうる。それは、英語学習者が英米の古典をretold版で読むのにも似てエッセンスには触知しえないかもしれないが、必要とするひとにとっては錯綜のラビリンスにおいて眺望を得るための貴重な梯子として現れる可能性がある。もっと言えば、単純にオプションのひとつとして、こういうものがあってもいいのではないか。

同じころ、言語学習系のSNSでやりとりをしていたファンタジー小説好きのロシア人から、「外科室」の感想が送られてきた。「私が知る限りこの作家の唯一のロシア語訳なのですが」*、という文言とともに、筋――と同時に書かれてはいないもの――を理解していなければ到底出てこないような興奮のことばがそこには綴られていた。

言語教育という観点から考えたとき、文豪の作品や国内の古典を日本の若い世代が現代語訳で読むことを批判することはたやすい。活字離れによる嘆くべき学力低下と単純化して、いくらでも攻撃できる。一方で、たとえば英語圏では20代半ばで鏡花を訳し、その後日夏耿之介の研究にさえ本格的に取りかかっている、ピーター・バナードのような俊英さえ登場している。さてふたたび、ここで「海外の優秀な人々に比べていまの若いのは日本語もできない」などと言いつのるのもたやすい。しかし、彗星のようなエリートが彗星のように出現することに託すよりも、全体の底上げを意識することのほうが、文学という森の入り口を灯火で照らすことにはつながると思えてならない。国内の高校や大学での教育に寄せすぎる必要はないのだけど、大学の文学部で原書の小説をどう読んでもらうか、という話にもこの話題はスライドしうると思う。

追記
日夏耿之介といえば、とある古書店の店主が最近おすすめしてくれて購入したのが『日本の詩歌 (12) 木下杢太郎 日夏耿之介 野口米次郎 西脇順三郎』(中公文庫)。日夏をはじめとする詩作品に、すごい量のグロッサリーがついているのだ。難度の高い語彙が、平易な現代語にあられもなく(!)言いかえられている。

*自分が以前調べた限りでも、ロシア語訳はこの一篇のみ。英語圏では『春昼・春昼後刻』「化鳥」なども訳されている。

 

 

堀田季何『人類の午後』(邑書林)

ユリイカ」「特集:現代語の世界」の「われ発見せり」の欄に寄せた短文を記憶していたのと、栞(枝折)執筆者のひとりに恩田侑布子がいたので書店で購入した句集。この本でいくつもの賞を受賞したことも含め、著者については事実上なにも知らないまま読み始めたのだが、俳句というジャンルのイメージを刷新してくれるような一冊になった。

量としては実のところ全体の3割にも満たないと思うが、ホロコースト東日本大震災、原爆といった人類史上の悲劇を扱った作品がこの鋭敏な句集の音色を決定している。半分ほど読み終えたところで、なぜか急にミウォシュの詩群が鳥のように頭に去来した、羽ばたいてきた。


やや単純化して言うと、「ミウォシュに代表される現代ポーランド詩」と私が言うとき、念頭にあるのは、言語そのものに関して非常に意識的でありながら、最先端の現代詩にありがちな実験のための実験といった難解な方向には走らず、むしろ平明な言葉を深く操っていく。そして言葉の音楽的な美しさを無視するわけではないが、それよりむしろ、言葉によって表され、象徴され、暗示される意味や思想を重視する。歴史や政治に対していつも鋭く意識的で批判的だが、あからさまに政治的になることはなく、むしろ非政治的でしなやかな言葉の使い方を貫くことから生まれる詩的思考(それを独自の哲学と呼んでもいい)によって、政治に対抗するような力を獲得する――こういった特徴である。

沼野充義が『チェスワフ・ミウォシュ詩集』(成文社、2011)に寄せた編者あとがきの一部である。氏自身が「単純化して」と認める通り、この記述は現代ポーランド詩どころかミウォシュの詩についてさえその美質を描写しつくしたものとは言えないだろう。そしてこの文章をちょうどいま引用している筆者も、定型と非定型の違いについてもよく考えずにポーランド詩を引き合いに出している根拠を整然とは説明できない。それでも、この句集の書き手に目を瞠るようなしなやかな知性が宿っていることは間違いないと思うし、この俳人独自の詩的思考、哲学について考えることでことばの持つちからについて一から考え直してもみたい。

高橋睦郎吉岡実など数多の現代詩を英訳してきたHiroaki Sato編の日本女性詩アンソロジー、 Japanese Women Poets: An Anthology: An Anthology(Routledge、2007)。その中で、現代詩の範囲に入ると思われる箇所の目次。左川ちか、多田智満子、阿部日奈子、小池昌代、蜂飼耳らのほか、水原紫苑など歌人の名前も。

 

海外文学レビュー&評論同人誌「カモガワGブックスVol.4 特集:世界文学/奇想短編」に論考ひとつ、コラムひとつを寄稿しました。11月11日の文学フリマ東京37 、ブース「カモガワ編集室」で頒布されるほか、通販(→Link)でも購入することができます。

・「“新進作家”、レジェンド・エリスンに嚙みつく? ――ハルキムラカミによる若干のSF批評に就いて」

村上春樹が「ハッピーエンド通信」というカルチャー誌にデビューまもない頃(1980年)に寄稿したエリスン『死の鳥』書評ほかを手がかりに、村上作品におけるジャンルフィクションの痕跡を示唆する文章です。ある時期以降、村上春樹はジャンルSFやホラー小説について正面切って言及するのを回避しているようにさえ見えますが、シルヴァーバーグにも触れつつハーラン・エリスンやル=グィンについて饒舌に語るこの書評は、邵丹『翻訳を産む文学、文学を産む翻訳』における考証主義とは別のアプローチから注目されるべきものだと考えています。このひと、ヴォネガット以外にもこんなにSFについて語るひとだったの!?という驚き。

・「21世紀の残雪、のための」

その国内外での評価の変容や、書籍には収録されていない小説以外の散文、発言を軸に、残雪作品を21世紀に読む意義を考えることを企図して書かれた文章です。コラムといいつつ6ページ。情熱の翻訳家、故・近藤直子氏のサイト「現代中国文学小屋」における資料の引用を許可してくださった遺族の方に感謝申し上げます。

 

辛島デイヴィッド『文芸ピープル』におけるイースト・アングリア大学の文芸創作プログラムについて触れた箇所に、「イギリスではまだ他に文芸創作のプログラムがない時代(引用者註: 1984~1985年のこと)で、内容も伝統的な英文学のカリキュラムに近く、文学史や文学理論に関する試験もあった」。という記述がある。これを読んではじめて、「ということは少なくともいまはこの大学においては(あるいはほかの多くの大学でも?)創作科では文学史の試験などは課されないということか」などとぼんやり思ったものだった。実情は知らない。

さて最近、カナダ生まれだがアメリカの大学を卒業し、在学中に詩の創作の授業を受けていたという青年と話す機会があった。十数人の少人数授業、受講生同士でフィードバックをおこなうという点などはよく聞くこの種の授業の進めかたと変わらないと思ったのだけど、プロの詩人の作品はなにひとつ読まなかったという。先生によって授業のスタイルはことなる、とも言っていた。自分がCourseraで聴講しているウェズリアン大学のcreative writingの授業でも、プロの作家の実作についてどれくらいの数、どれくらい踏み込んで語るかは先生によってことなる。

作家になるのにいったい文学史の試験が必要か、という点については大きく議論がわかれるところだろう。特につよい主張が自分にあるわけではない。が、Ursula K. Le Guinの、ワークショップを疑似的に体験させてくれるスリムで濃密な書物Steering the Craftを想うとき、いろいろな本への言及がうれしかったこと、そのうれしさがもう一度、いつでも返ってくる。

洋書を所蔵する図書館でみつけて「こんな本あるのか!」と驚いたのが、三島由紀夫と Geoffrey Bownasという方が共編したNew writing in Japanというアンソロジー(1972、Penguin)。目次には、稲垣足穂高橋睦郎吉岡実塚本邦雄といった面々の名が(も)並ぶ。知人に話を伺うと、海外の編集者の依頼を受けて、三島がセレクトして交渉し最晩年に編集した本であるとのこと(ただ、Geoffrey Bownasの意見がどれだけ反映されているかはわからないとも)。

高橋睦郎はすでに多くの国で読まれているが、稲垣足穂吉岡実塚本邦雄らはどうだろうか。たとえば吉岡実の初の英訳書Lilac Gardenを手がけた佐藤紘彰は、『アメリカ翻訳武者修行』(丸善ライブラリー、1993)において「本は売れず、出版社が出版対象を変えたためもあって訳者に相談なくゾッキ本としてしまった」と書いているし、その後詩集『静かな家』の英訳も刊行されているようだが、Goodreadsを見る限り少なくとも一般読者にまともに読まれているようにはみえない。

海外に向けて稲垣足穂吉岡実塚本邦雄について紹介するときに、三島由紀夫の名を出す、ということもおそらくは「あり」なのではないだろうか。なお、三島は自分が採ったそれぞれの作家について、序文で簡潔に触れてもいる。

泉鏡花をひさしぶりに読んでいる。いままで一度も出会ったことのない語彙や語法にみちているのに、告白すれば文法さえ不明な箇所も多いのに、彫琢され燦然とかがやく世界へ引き摺り込まれて先へ先へとページを繰りたくなるのが不思議で仕方ない。現代人がこの作家を読むとき、脳の中ではいったいなにが起きているのだろう。

天沢退二郎がわざわざインタビューをしに出かけ、宮崎駿もあるイベントで好意的に言及していたというオーストラリアの児童文学作家パトリシア・ライトソンが、児童書について「南半球評論」という雑誌でこんなことを言っていたのを思い出す。「構成が優れていれば、語彙の難しさは問題にはなりません」。これは大人になりきっていない「子ども」の読書を想定しての話だが、現代人が明治の文豪を読む際に起きるなにがしかの現象と相同に考えることはできるのだろうか?本当は、未知の語彙や文化背景、いまは廃用になった文法項目について、少しずつ調べながら読み進めるほうが、テキストのより深い理解には到達できるはずだ(調べる手だてを探すのも苦労だろうが)。ただ、『高野聖』や『春昼・春昼後刻』を読んだときと同様、手を止めながら読むということが、一度書物を持ち上げてしまったが最後、快楽をまえに困難になってしまうのだ。