東大の現代文芸論の公式サイト、Internet Archiveを使えば去年以前のシラバス、つまり各科目の授業紹介をこっそりみることができる。多和田葉子の授業、「現代文学と多言語世界—精読と創作」の内容説明。

「1.小説の細部に身体ごと入り込んで、宇宙を旅する練習をする。たった一つの文章、たった一つの単語、時にはたった一つの文字が大切。細部にこだわることで、別の時代、別の言語、別のジャンルに視線をつなげていけるようにする。
2.たった一つの言語の中に隠されている多数の言語を見つける練習をする。」

「小説の細部に身体ごと入り込んで、宇宙を旅する練習をする。」なんて力強い言葉!少なくとも21世紀初頭の時点で宇宙旅行の練習を学生に、しかも教室でさせてくれる授業というのは世界を見回してもそうそうないのではないだろうか。

魂の文学の書き手は、後へは退けない「内へ内へ」の筆遣いで、あの神秘の王国の階層を一層また一層と開示し、人の感覚を牽引して、あの美しい見事な構造へ、あの古い混沌の内核へとわけ入り、底知れない人間性の本質目指して休みなく突進していく。およそ認識されたことは、均しく精緻な対称構造を呈するが、それはもう一度混沌を目指して突撃するためでしかない。精神に死がないように、その過程にも終わりはない。書くことも、読むことも同様である。必要なのは、解放された生命力である。人類の精神の領域に、最下層の冥府の所に、たしかにそういう長い歴史の河が存在している。深みに隠れているせいで、人が気づくのは難しいけれど。それが真の歴史となったのは、無数の先輩たちの努力が一度また一度とその河水をかきたて、何年たっても変わらずに静かに流れ続けるようにしてくれたおかげだ。これはまるで神話のように聞こえるが、もしかしたら、魂の文学とはそういう神話に他ならないのかもしれない。それは不断に消え失せては、不断に現れる伝説であり、人間の中の永遠に治癒することのない痛みでもある。個人についていえば、魂の書き手の苦痛は、おのれの苦痛を証明できないことにある。彼は一篇また一篇の作品によってその苦痛を刷新するしかなく、それが彼の唯一の証明なのだ。こういう奇妙な方式のせいで、永遠に破られることのない憂鬱が彼ら共通の特徴となっているが、その黒く重い憂鬱こそ、まさに芸術史の長い河を流れる活水の源なのである。たゆみない個体がこうして内へ掘り進む仕事に励むとき、彼らの成果は例外なく、あの永遠の生命の河へと合流する。なぜなら歴史はもともと彼ら自身のものであったし、彼らがいたからこそ、歴史が存在し得たのだ。教科書の上の歴史と並行するこういう魂の歴史は、もっとも鋭敏な少数の個人によって書かれる。だが、その歴史との疎通し、通い合いは、すべての普通の人に起こりうる。これはもっとも普遍性を備えた歴史であって、読み手は身分、地位、人種の制限を受けない。必要なのはただ、魂の渇きだけである。
残雪「精神の階層」近藤直子訳

 

イ・ソンチャン『オマエラ、軍隊シッテルカ!? 疾風怒濤の入隊編』(バジリコ)

BTSのメンバーが入隊することが大ニュースになるような世界で、韓国の軍隊のことが知りたくて手に取った一冊。もと軍人の若者がキツい軍隊生活のことをセキララにネット上で綴った本書は、書籍化するとすぐに韓国ではベストセラーとなったと訳者あとがきにある。

四方田犬彦氏のすぐれた巻頭解説(という名の序文)がAll Reviewsのサイトに公開されているので、そちらを見れば本書の意義についてはある程度了解されると思う。著者イ・ソンチャンの文章は美文からはほど遠いが、自分を取り巻くすべての状況を相対化しときに嗤いときに冷静に観察する視点はやはりなにがしかの才覚がもたらすものだろう。軍隊の中にキリスト教の教会があって休日に希望者は礼拝できるなどというのはとても面白い。それからいまでもこうした文化が続いているのかはわからないけれど、軍の中にお菓子を売るキオスクがあって、甘いものに飢えた主人公とその仲間たちがロッテの「チョコパイ」や「自由時間」(後者は日本では見たことない!)に食らいつくシーンなんて矢鱈に印象にのこる。

 

オマエラ、軍隊シッテルカ!?―疾風怒涛の入隊編

 

 

ある日本文学研究者/翻訳家とやりとりをしていたら、大学の授業で倉橋由美子を教材として扱うことも検討したが、その作品の英訳の質から結果として択ばなかった、という趣旨の一文があった。自分はその作品がどの作品かも知らないし、よって日本語と英訳をくらべたこともない。ただ、ふと以下のようなことが思い出された。

一.自分の大学時代の文学の授業の先生は、白鯨を読むなら誰それの訳より誰それで読まないといけないとか、ディキンスンの詩を読むならどこどこの出版社のものがおすすめだとか、教室でしばしば語ってくれる先生だった。学生になんの期待もしていなかったら、わざわざエネルギーを費やしてそんなことには触れないだろう。自分は白鯨を(すら)読んでいないけど、いつか読もうとする日には、そういうアドバイスは役に立つかもしれない。

一、これも大学時代の話。毎年東京で行われるある文芸のマニアックなイベントは、「合宿」といって旅館を借りたりして、ファンとプロが会して夜通し小説の話がくりひろげられるような場だった(もちろんコロナ前のこと)。そういう場にいると、信頼できる翻訳家の方からの、これまたあの作品には翻訳に問題があるとか、ある時期以降の野口幸夫の訳は、とかそういう話が耳に流れ込んでくる。

見識のある方(もちろんその基準は主観的なものでしかありえないけど)の翻訳のよしあしに関するコメントは、ネットには流れず、アカデメイアふくめクローズドな場で話されるだけということも多い。ある人間にとって、第二言語に訳された文章の質というものは母国語の場合よりも判断がいっそうむずかしい場合が多く、それでも日本の作品の海外普及に関心があるなら気に留めておきたいトピックであることはやっぱり間違いないとおもう。

 

 

『日仏翻訳交流の過去と未来』(大修館書店、2014)。パトリック・オノレの文章によると、フランス出版界では、2007年以降、日本語が英語に次いで翻訳点数第2位の言語になっている。マンガの寄与が多いそうだけど、ドイツ語やスペイン語よりも上とは。なお、台湾では日本語が翻訳点数第1位の言語です。

『最後のユニコーン』で知られるピーター・S・ビーグルは、ラッセル・ホーバン『ボアズ=ヤキンのライオン』に「くやしい。ぼくは本書のような物語を書きたかったのだ」と最上級の賛辞を寄せた。そのホーバンは、ジョン・クロウリーについて、Crowley is one of those necessary writers for whom one has been waiting without knowing it.と述べている。この見えない鉱脈は、一生を捧げて読むに足るアメリカ文学背面史の精髄なのではないか。そんな期待にいつも静かに胸が高鳴ってやまない。(どこかの出版社さん、Giant Bonesを早く出して!)

言語学文化人類学者の西江雅之による、「エスニック料理」という語についての目から鱗が何枚も落ちるような学術的エッセイ。(→Link)

ところで、「エスニック(ethnic)」や「エスニック・グループ(ethnic group)」という語を日本語に訳す場合、しばしば「民族」という語が当てられています。ただ、このエスニックや民族といった語は、一般に広く用いられる一方で、時代や考え方によって用法が異なる少々やっかいな単語でもあります。

もともと「エスニック」の語源となったギリシャ語の単語(エトノス)は、同類の人間集団を意味していました。十五世紀になって、古い時代の英語で使用され始めた頃は、キリスト教徒ではない人びとを意味するようになっていました。キリスト教徒ではない人びととは、当時の英語圏ではユダヤ教徒を指していたのです。言い換えれば、この単語は、「その土地では主流ではない人びとの集団」を意味するものでした。

その単語から派生した「エスニック」という単語は、アメリカ大陸の東側に続々と移民が押し寄せてきた十九世紀後半から二十世紀初頭には、アイルランド系や南ヨーロッパや東ヨーロッパからの人びとを意味するようになってきました。イギリス系、ドイツ系の人びとには使われない単語でした。また当時は、その地域からアメリカに入国するアジア系の移民はほとんどいなかったので、中国人や日本人などに対して、敢えて「エスニック」という語を使うことはありませんでした。ましてや、当時インディアンと呼ばれた先住民の人びとに対しては、エスニックという語が使われたことはありませんでした。

「民族」という概念の特徴の一つは、白人とか黒人などといった昔風の生物学的分類としての「人種」の概念に対して、主に文化面での違いなどに注目した分類とされることにあります。「北方民族」、「南方民族」、あるいは「原始民族」などと言う呼び方は、その種の民族概念に沿ったものです。また、日本語の「民族」は、「ドイツ民族」とか「日本民族」といったような「ネーション(nation)」の意味などを含む、広い概念でもあります。この「ネーション」とは、言語や文化や歴史を共有する人間集団が構成する国家、あるいはその国家の主体となる人間集団を指して用いられる語、すなわち「国民」を指しています。

現在では、エスニックという語は、国などの一定の政治領域の中で主流を占めるグループ以外の集団を指して用いられる場合は、アジア系やヒスパニック系といった人びとに多く見られるような、白人とは肌の色の異なる集団を思い浮かべがちですが、白人でもエスニック・グループと呼ばれる場合があります。たとえば、「ホワイト・エスニック」といった場合には、「ワスプ」(WASP、ホワイトWhite、アングロ・サクソンAnglo-Saxon、プロテスタントProtestantの略)以外のアイルランド系や南ヨーロッパ・東ヨーロッパ系などの人びとを指しています。なお、アメリカの歴史では、黒人に関しては、「人種(race)」として扱い、「エスニック」という言葉を用いない場合が多いのです。

日本で「民族」という語が「エスニック」の訳語として一般に広く使用されるようになったのは、いつ頃のことなのでしょうか。正確に何年からとは言えませんが、特に1980年代以降、そうした用法が定着してきたように感じています。その背後には、社会学文化人類学などの領域を扱う一般書が店頭に多く並び始めたこともあります。ただ、「民族」という語はいろいろな意味を含んでいるので、そのことから生じる混乱を避けるために、最近では、「民族」という語を使わず、「エスニック」などとカタカナ表記する人も多いようです。

エスニック」という語は、現在では日本語の中に定着し、日本語の辞典の中にも「エスニック」の項目が見られるようになりました。その意味を見ると、「特に、アジア・アフリカ・中南米などの民族文化に由来するさま」などと書いてあります。食べ物というものから見てみますと、確かに、「エスニック料理」、あるいは「民族料理」などといった場合、欧米において主流をなすもの以外の少数集団の料理を指すことが一般的です。日本でも、アラブ、アフリカ、東南アジアなどの料理はエスニック料理と呼びますが、フランス料理やイタリア料理をエスニック料理と呼ぶことは、普通はありません。こうした用法は、エスニック・ミュージックやエスニック・ファッション、エスニック・グッズなどの場合も同様でしょう。ただ、欧米では日本料理はエスニック・フードとして扱われますが、さすがに日本国内では日本料理はエスニック・フードであるとはされていません。

民族音楽」などという場合も、通常、西洋世界から見て、自分のものとはかなり違った響きや音階や演奏方法などを持つ音楽を指しています。ですからベートーベンやショパンモーツアルトなどの西洋古典音楽は、本来はヨーロッパに見られる幾種類かの民族音楽と言うべきでしょうが、通常、それらを「民族音楽」と呼ぶことはありません。

面白いことは、日本における「エスニック」という語は、西欧風の意味を引きずっているだけではなくて、さらには、独自の意味を持つようになってきていることです。というのも、「エスニック」という語が日本語の中で用いられる場合、日本古来のものではない、かといって西洋風のものでもない、食べ物、衣服、装身具、芸術などを指すだけではありません。その用法を見てみると、何故か、特に日本から見て「暖かい地域」、たとえば、東南アジア、カリブ海中南米、アフリカなどのものを言う場合が一般的です。そのためか、沖縄料理店をエスニック料理のなかに込めている例すら見られます。それは、沖縄が日本の土地ではないというわけではなくて、暖かい南方の地域にある島であるというイメージと結びつくものとなっているからなのでしょう。こうしてみると、同じ国内でも、寒い東北の料理をエスニック料理と呼ぼうなどという発想が出ないのもうなづける気がします。

以前から自分は、「エスニック料理」という言葉がなにを指すのかよくわからなくて、ときには次のような現象と相同なのかも確信が持てずにいた。たとえば、リスナーが少ない、あるいは地理的に小さい国の音楽がときに十把一絡げに「ワールドミュージック」とくくられるとか、大きい書店でフランス文学やアメリカ文学の棚はあっても、東南アジアや東欧の文学はまとめて「その他の国々」でひとつの四角形におさまっていることもあるとか。「エスニック料理」は日本より寒い地域の料理を指すのには一般的に用いられない、と示唆されていてうならされた。

 

知り合いの留学生がSNSにポストしていた投稿。「今日、「言葉狩り」という言葉を知りました。「紅葉狩り」のように、美しい言葉を見つけて楽しむということだろうと思いましたが、違っていました。そのほうが楽しいのにね。」こういうのをフレッシュな物の見方と言わずしてなんというのか(「創造的思いちがい」ともいえるかも!)。

スカイプでスロヴァキアの本好きと話す。すごくびっくりしたのが、注文していた英語の本を受け取るために今度ほかの国まで列車で旅行しに行く、とうれしそうにしていたこと。どの国にもAmazonがあるわけではないことは知っているけれど、いったいどういうこと?!家まで送ってくれるネット書店があるのではないの?!どうしても気になったので間を置かずもう一度オンラインで話して、こちらの質問に対して返ってきたのは以下。

1.スロヴァキアにはAmazonはなく、洋書を買う時にAmazon.de(ドイツ)かAmazon.fr(フランス)を使うことがある
2.ただし、以上のふたつだと同じヨーロッパ圏でも「外国」への輸送費が高くかかる
3. スロヴァキア在住だが、チェコまでは近い。片道90分かからないくらい。megaknihyというチェコオンライン書店を使って、指定した受けとりポイントで本を受け取る

プライム配送という選択肢もある私たちの状況からすると、こうしたプロセスには大変な労力がかかるようにみえるかもしれない。でも、はずんだ声で説明をもらうと、届くまで待つそのタイムラグは憧憬の種に水をやる愛しい時のようにも響きはじめるのだった。

あるとき「大学の卒論で扱ったのはジェンダーSFだった」と人前でこぼしたら、「さまざまなSF小説にみられる女性像」を精査したのだと思われて、面白い誤解のされ方だなと感じたことがある。たとえば「海を見る人」「美亜へ贈る真珠」「たんぽぽ娘」といった作品における女性像は、素朴といえば素朴きわまりないだろう。ただそれと同時に、社会変革に向かって突き出す力をそなえたラディカルなジェンダーSFをも多く生み出してきた、ジャンル総体としての巨大さ、包摂性にはうたれる思いがする。



海老原豊氏の松田青子『持続可能な魂の利用』書評(→Link)。この小説における「おじさん」がパフォーマティブ(行為遂行的)な存在である、と指摘している箇所は示唆に富んでいると思う。

英語圏では翻訳と感じさせない翻訳が好まれる傾向がある、とものの本には書いてある*。でもわたしは、翻訳書を読んでいるときに、それぞれの翻訳家の体臭を眼と鼻と脳とで記憶し、次に同じにおいがいつ鼻孔をくすぐるのか、ノラ犬のように愉しみとしている。アイルランド文学者の栩木伸明は『琥珀捕り』において「思う」を「おもう」とひらくが、詩についての論考でも同じような表記をしていた。矢川澄子の随筆には「したたか」という言葉がずいぶんたくさん出てくるが、絵本の翻訳にだって登場する。翻訳家のクレジットがなくても、それが誰の手になるものか(ある種のお気に入りの本においては)当てられる自信がワタシにはある。

*たとえば秋草俊一郎『「世界文学」はつくられる』(東京大学出版会)。

岡田恵美子、北原圭一、鈴木珠里編『イランを知るための65章』(明石書店)。テヘランの地下鉄には痴漢を防ぐための女性専用車両があり、全員がヘジャーブをつけているので遠くからだと車両いっぱいの鳥の群れのように見えるのだとか。これについてイランの人と話したところによると、女性専用車両は先頭車両といちばん後ろの計ふたつ、朝のラッシュアワーだけでなく、終日女性専用らしい。こんな話を聞くと、イラン社会における女性の地位についても知りたくなってくる。

イランの書道における書体の話も面白い。p105の図版を引用するが、この4つすべて、書かれている言葉が同じだとは。



千葉文夫『ファントマ幻想』(青土社、1998)より、「パリのキューバ人 アレッホ・カルペンチェール」。長年読みたい!と思っていた、11年に及ぶカルペンティエールのパリ時代について扱った論考(著者は自分の熱愛の作家、マルセル・シュオッブの全集の翻訳家でもある)。カルペンティエールがカフェ「ドゥマゴ」の常連だったとか父親がパブロ・カザルスに師事していたといった事実も知らなかったし、フランスの芸術家達との交友、浩瀚な音楽批評の書の話まで興味深い点は尽きない。

ちょっとおやと思ったのが、自分が大学1年のときに比較文化論の授業を取っていた先生が、同じくカルペンティエールのパリ時代についてすぐれた文章を書いていると紹介されていたこと(「現代思想臨時増刊 総特集ラテンアメリカ」に所収)。残念ながら、ゴンブロヴィッチバーセルミならともかく、18才のときにはまだカルペンティエールは読んでいなかったなあ。エネルギッシュな印象の先生で、僕の知り合いではあるけど、と前置きしたうえで、管啓次郎の本は良い、なんて教壇で熱く語っていたのを思い出す。

ともに1930年代生まれの詩人、多田智満子や矢川澄子が「宇宙」ということばをもちいるその瞬間、読者をとり囲む宇宙は実際に鳴動するという気がする。サイエンスフィクションの作品の中には、単なる書き割りの宇宙も登場するかもしれない。世代は下り、雪舟えまのある種のテキストにもプリミティブな宇宙感覚が瀰漫していると思う。

稲垣足穂が現代のマンガ家たちにもたらしたもの(思案中)

白山宣之…『10月のプラネタリウム』では足穂作品に想を得た作品が収録、呉智英も『マンガ狂につける薬』シリーズで指摘
伊藤重夫…神戸という舞台、コマ間の飛躍。『ダイヤモンド・因数猫分解』では作家、稲垣足穂そのひとが登場する作品も
鈴木翁二…「白昼見」など自伝的要素のある小説とも共振する作品が多いか
中野シズカ『刺星』…「SIGHT」における南信長と枡野浩一の対談で稲垣足穂との比較が話題になっている
倉多江美『一万十秒物語』…これは想像力の質というよりタイトルと超短篇集的な形式面か

鴨沢祐仁
イタガキノブオ
鳩山郁子

ほか、SNSでshigeyukiさんに教えていただいた、たむらしげるについては未読。