La letteratura fantascientifica giapponese. Storia, temi e diffusione.


イタリアのAntonino Caminitiという方による日本SFの研究論文(本文イタリア語、要旨のみ日本語)。このうち「第三章は日本SF文学の翻訳と海外流通を調査することを目的としている」とある通り、(網羅的ではないにせよ)末尾にイタリア語に翻訳された日本SFがリストアップされている。2018年の論文なので、比較的新しい情報の部類に入るだろう。


キアラン・カーソン『琥珀捕り』(東京創元社)

現代人は祖父に飢えている。動画投稿サイトやiTunesにひとたびアクセスすれば星の数以上のコンテンツが押し寄せてくる一方で、「太陽のもと、変わらぬものは何もなし」な社会のはげしい変化を背景に、実の祖父による長話や武勇伝に耳を傾ける機会は意外なまでに少なかったりもする。かくいう僕も実の祖父母と触れ合うことのできた時間は驚くほど少なく、たとえばラファティカルヴィーノといった卓抜した語り部のファンタ爺(じい)を読む時間とは、ありうべき「おじいちゃんとの時」を恢復しにゆく過程なのだと思わなくもない。

とまれ、よっぽどの物語欠乏症や大食漢の胃袋をも充分に満たしてしまうにちがいないのが、この現代アイルランド文学の核弾頭『琥珀捕り』である。「オウィディウスが描いたギリシアローマ神話世界の奇譚『変身物語』、ケルト装飾写本の永久機関めいた文様の迷宮、中世キリスト教聖人伝、アイルランドの民話、フェルメールの絵の読解とその贋作者の運命、顕微鏡や望遠鏡などの光学器械と17世紀オランダの黄金時代をめぐるさまざまの蘊蓄、あるいは普遍言語や遠隔伝達、潜水艦や不眠症をめぐる歴代の奇人たちの夢想と現実(出版社内容紹介)」――。こうした無数の綺想をtall taleのスタイルで語っていく本作は、「琥珀」という語の静的なイメージとは裏腹に、アイリッシュパブでの爆音のギグのように野蛮で挑発的かつ実験精神に満ち満ちている。

ひとつところにとどまる登場人物がひとりも存在しない、という点では「現代詩手帖」で四元康祐が指摘するように一般的な長編小説からはこれは確かにかけ離れているのかもしれない。けれど、この長大な枠物語の内部において、アイルランドの史実や語り継がれてきた民話が見逃せない位置を占めていることにはもう一度注意を払いたい。なお、自分がとくに好きな章は柴田元幸訳で「ユリイカ」にワンカットで先行掲載された「Antipodes―対蹠地」と、普遍言語の問題系を扱った「Tachygraphy――速記法」。

稀少な琥珀かハイパーレアなポケモンのように「めったに見ない」個体だから、英語圏の書評家たちも本作をどう言い表したらいいのか、戸惑ってしまったというのもうなずける。ただ、早くから賛辞を寄せてきた先述・四元康祐円城塔のひそみに倣うなら、この「A long story(「ひとつの長い物語」:原著における本書副題)」とはやはり複雑に縒り合わされたある種の網なのだと思う。カーソンは、僕たちが生きるこの無限の宇宙を球形のものに変形させ、奇譚になりうるエッセンスを本当にも一網打尽にしてしまう。世界の不可思議をあまねく描破しようとしてしまうこんな書物が世界に存在することは、世界の七不思議のもうひとつの七不思議。

 

 

 

本に呼ばれたような気がして、鈴木いづみ『いづみ語録』や<鈴木いづみコレクション>(ともに文遊社)の眉村卓との対談を読み返す。

 松田青子『持続可能な魂の利用』(中央公論新社、2020年)において、「少女」という語に「美」がついて流通している現在の地球を、未来の少女たちが眺めて笑い転げるシーンがある。鈴木いづみが活躍していたのは主に70年代だが、すでにそうした状況を批評的に見つめていた気がする。

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鈴木 それから、SFに出てくる女性は、やっぱり男が書く女だなという気がするんだな。
(中略)それと、必ず美女がでてくる。SFは美女ばかり。
眉村 一番簡単だからだろうな。
鈴木 でも、世の中には美女というのは少ないですよ(笑)。どうしてこんなにポンポンでてくるのかと思って。
眉村 女性の絶対数が非常に少ない状況におかれていると、砂漠みたいなものだから、みんな美女にみえるんじゃないかな。
鈴木 みえるならみえると読者にわかるように書けばいいのに。美女だって断定してるんだもの。
(鈴木いづみ×眉村卓「SF・男と女」『鈴木いづみコレクション 男のヒットパレード』文遊社)
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○月○日

とあるパン屋さんで賞味したハチャプリ。食感はもちもちというよりハチャハチャでプリプリ。すでに多くの新聞に記事が出たように、2020年はジョージア料理に火がついた一年だった。北は北海道から南は沖縄まで全国に店舗を持つ松屋は、冬のあいだシュクメルリをメニューとして提供したけれど、コーカサス地方の料理に手軽にアクセスできるなんてすごいことだと思う。

たとえば多和田葉子の『エクソフォニー』(岩波現代文庫)にも「日本には意匠として外来語や海外の文物はおびただしいほどに流入しているが、国際感覚については未だしだ」的な主張が述べられている(大ざっぱにすぎるかもしれない要約)。けれど、日常をこんなにも多様な花々で彩ることができるって素晴らしいと個人的には感じる。「Aであるが、B」のAとBは「Bであるが、A」というふうに置換可能であって、折にふれそのAの部分に積極的に意味を見つけてゆきたい。

○月○日

ジョージアの文化に興味が生まれたので、早速ジョージアの先生とスカイプ英会話。

話題その1:魅惑の上陸、アジャルリハチャプリ

日本でハチャプリとして親しまれているものは、多くがアジャルリハチャプリという、あくまでハチャプリの一種に過ぎないことがわかった。同じお好み焼きでも広島と大阪では異なるように(このたとえはgoogleした日本語のウェブページから拝借)、アジャルリという沿岸部スタイルのハチャプリだから、形もボートのような形をしているそうな。言われてみると、都内のRodで買ったハチャプリもレシートの商品名は「チーズボート」と記載されていた。

話題その2:ジョージアざくろざくろの色

georgiastartshere.com

何回かレッスンを行う中で、ジョージア料理を紹介したウェブ上の英語の記事を教えてもらった。そのなかでも、ざくろを使ったカラフルな料理(ბადრიჯანი ნიგვზით)が目をひき、思わずこんな言葉を口走ってしまった。

ざくろってそっちの地域だとたくさん生えてるの? これはまったくジョージアじゃないんだけど(地理的にジョージアに近い)アルメニアの映画でざくろの名を冠したものがあって……」

普通に考えれば「?」となる発言だろうが、その先生ははたして、いつまでも斬新で鮮烈なパラジャーノフのあの映画「ざくろの色」のファンなのだった。

あとで調べてみると確かにそうだったのだが、「ざくろの色」の主演女優はジョージア(グルジア)の出身。植物の話で言えば、ざくろは「こっち」だとどこでも見ることができ、映画「ざくろの色」は本当に好きでフライヤーの画像を一時期SNSのプロフィールの背景にも用いていたとのこと。旧ソ連国家(post-Soviet nations)の歴史的な背景や、グルジアの文字やあいさつも教えてもらえた。

アルメニアにはパラジャーノフ博物館なるものまであるそうな。いつか行ってみたいような、いや、気まぐれな妄想の中でもてあそぶだけでも十分愉しい気はする。)

www.nytimes.com

New York Timesに掲載された、Jeff VanderMeerの最新インタビュー。"Which writers — novelists, playwrights, critics, journalists, poets — working today do you admire most? "
という質問への答えの筆頭に、ナイジェリアの女性SF作家Pemi Agudaを挙げていて「うおお」と思う。

 (「GRANTA」に載ったこの人の短編"Manifest"は当ブログでも強く推していた/推しているものなのであります)

内田善美「かすみ草にゆれる汽車」(集英社)

内田さんの著作(『ソムニウム夜間飛行記』などの画集含む)で一冊だけ読み残していたもの。

この短編集に収められている作品はどれも、アメリカ中西部イリノイ州にある「風の町」ゲイルズバーグを舞台としている。そのため、作者が表紙絵を手がけているハヤカワ文庫FT『ゲイルズバーグの春を愛す』を読んでいると微風のように微笑させられてしまうようなシーンも登場する。

いま、この場所から内田さんの作品群という山嶺をもう一度眺め渡してみると、自分の中では『草迷宮・草空間』が別格で、そこから少し落ちて『星の時計のLiddell』、残りの作品については等しく愛着を抱く、という感じ。今から初めて読めるという人がうらやましくて仕方ないです。(2020)

短篇小説日和

ノヴァーリス「ヒアシンスとバラの花」(「森」3号)

 森開社は主にフランス文学を瀟洒な装丁で刊行するプライベート・プレスだが、「森」の少年特集号(1976年)では矢川澄子訳のノヴァーリスというめずらしい一作が掲載されている。ただし本作は「ザイスの学徒」内の作中作であり、わずか8ページという小品。観念論的メルヘンの魅力にはあふれていても、もう少し長くこの世界に身を浸していたいというのが正直なところ。

同号の広告では本作の書籍バージョンが近刊予告として上がっているのだけど(未刊)、テキスト量を加味するに挿し絵入りの薄い本をエディターは企画していたのだと推察される。

 

マルグリット・ユルスナール「マルコ・クラリエヴィッチの最期」(ウェブサイト「アナベル・フィステ」)

『眼鏡屋は夕ぐれのため』などの名歌集で知られる歌人佐藤弓生によるユルスナールの短編の翻訳。なんでも、日本版の『東方綺譚』は完訳ではないらしく、本作はそうした未収録作のうちの一編。ただし英語からの重訳であることもあるのか、収録作よりは落ちる印象。なお、自分はユルスナールの短編なら『青の物語』の表題作と『火』の全編が好きです。

 

ジュール・シュペルヴィエルミノタウロス」(「湯川」79年9月号)

こちらは多田智満子が訳したシュペルヴィエルシュペルヴィエルはあの優れた『沖の少女』を始めとして『ノアの箱舟』、妖精文庫の『火山を運ぶ男』や詩集なども読んでいるのだけど、これはこの作家のイメージを根本から変えさせられてしまうような読書体験だった。

「二歳で神童」のミノタウロスが思春期を向かえ、やがてはギリシア全土をおおう災禍の原因となり英雄に討たれるまでをめくるめくスピードで描ききる本作には、「沖の少女」に見られるようなのびやかなリリシズムはかけらも宿っていない。ほとんど久生十欄の超絶技巧を思わせるような緊迫感あふれる傑作だ。

SFマガジン700号オールタイムベスト回答

結局のところオールタイムベスト投票の魅力とは(伊藤典夫もどこかで書いているように)マニアの第七段階に到達してしまったすれっからしのおたくと、SFを読み始めてまだ日が浅いネオファンとが誌面でぶつかり合うその力学の中にある。SFマガジン600号の各識者の回答を見ていると、次のような条件をすべて満たすかたちで投票を行っている人々がたしかにいるように見受けられる。

(イ) 作品の初出年代をばらけさせる(1950年代、1960年代、2000年代…)
(ロ) 自分が読んだ時期をもばらけさせる(10代、20代、40代…)
(ハ) できるだけさまざまな作風のものを選ぶ(SFというジャンルの懐の深さ)
(ニ) 100号前(SFマガジン500号)の自分のアンケート回答とは異なる回答をする(忘却という不可避のものと個人的なクエストとの両立)


ということで、自分も今回はこれらのポイントに意識的になってみたい。快楽の渦は指から口へ、見知らぬどこかへ。もとより自分の読書史を数行で要約するなんてどだいムリな話なので、静慮はせずに目を瞑って瞬間の気分で選んでみたい。それでもせめて海外短編だけは最低ベスト40までは欄を設けてくれないと安心してお墓にも行けません。ちなみに回答者の年齢は20代、押忍(♂)。


海外長編
1.イタロ・カルヴィーノ「冬の夜ひとりの旅人が」
2.スタニスワフ・レム「完全な真空」
3.カート・ヴォネガット・ジュニアスローターハウス5
4.ブライアン・オールデイス「地球の長い午後」
5.アンナ・カヴァン「氷」

国内長編
1.筒井康隆「美藝公」
2.荒巻義雄「神聖代」
3.萩尾望都銀の三角
4.山野浩一「花と機械とゲシタルト」
5.秋山瑞人鉄コミュニケイション

海外短編
1.マイクル・ビショップ「宇宙飛行士とジプシー」
2.ジョン・クロウリー「The Next Future」(未訳)
3.ジョン・ヴァーリイ「残像」
4.J・G・バラード「近未来の神話」
5.フリッツ・ライバー「バケツ一杯の空気」

国内短編
1.山尾悠子「夢の棲む街」
2.大江健三郎「もうひとり和泉式部が生れた日」
3.中井紀夫「山の上の交響楽」
4.小川一水「漂った男」
5.小松左京「戦争はなかった」

海外作家(順位なし)
テッド・チャン
〇サミュエル・ディレイニー
シオドア・スタージョン
フレドリック・ブラウン
〇ショーン・タン

国内作家(順位なし)
筒井康隆
山野浩一
雪舟えま
三五千波
水鏡子

追記
以上のような気合の入った文章までしたためておきながら、早川書房にハガキ/メールで投票するのをすっかり忘れました。800号までさようなら……。(2014)

 

 

詩に近づく小説、小説に近づく詩

食虫植物を指にささへて、長い硝子管で月を吸ってゐると、やがて脳髄が青白くなり、真珠色になり、巻尺で計ると背中の方から破れてしまつた。――北園克衛

さて、「詩に近づく小説、小説に近づく詩」というテーマで小さなブックリストを作ることになった。

自作について「とても詩的な小説ですね!」と笑顔で感想を伝えたらほほえんでくれる小説家はいるかもしれないが、「小説みたいな詩ですね!」と対面で感想を伝えてもいい顔をしない詩人が多いというのが筆者の推測。数多の言語表現のジャンルがある中、自分のスタイルというものに限りなく意識的になり、その上で詩という形式を択びとった人が多いはずだからである。

そのうえでわざわざリストアップの作業にまで手を染めるのは、(1)現代詩の分野においては批評の量に比してファンのためのガイドが不足しているように思える(2)こういう記事をアップすることで自分と似た趣味の人を探したい、増やしたい、というふたつのシンプルな理由による。

マルセル・シュオッブ『少年十字軍』(王国社)の多田智満子による訳者あとがきには、このような一文がある。

「(引用者註:『モネルの書』をはじめとする小説について)これらはいずれも短篇小説というよりは完璧な散文詩ともいうべき、香り高い作品である。」

いつの頃からか、「散文詩と見紛うばかりの文体」などと形容されるタイプの小説は、好みのものが多いと気づきだした。小説と並行して国内外の詩集をよく読むようになる中で「散文詩」と名のつくものは特に積極的に手に取るようにした。やがて、豊かな物語性は行分け詩にもいくらだって見出せると感じられるようになった。

セクト意識に関わる議論に足を踏み入れたくないので、「詩」あるいは「小説」の定義とは、という話はここではしない。しかも、以下のリストの中で便宜的に「小説に近づく詩」に分類させてもらっているものの、実は物語性が稀薄なものはいくつもある(いつか、「ナラティブ」のような文学タームを導入しつつもう少しきちんと整理してみたい)。だからこれは、「それが好きだったらこれも好きじゃない?」と聴こえない声でささやく程度の、いち現代詩/幻想小説ファンによる、おずおずとしたおすすめと受け取ってくだされば幸いです。

◇詩に接近する小説

オクタビオ・パス「天使の首」(『鷲か太陽か?』書肆山田)

デヴィッド・ブルックス「SEIの本」(『迷宮都市』福武書店)

ディラン・トマス「果樹園」(『書物の王国 夢』国書刊行会)

パウル・ツェラン「山中の対話」(『パウル・ツェラン詩文集』白水社)

ジェフ・ライマン「オムニセクシュアル」(「SFマガジン」91年11月号)

マルグリット・ユルスナール『火』(白水社)

マルセル・シュオッブ(『モネルの書』『マルセル・シュオッブ全集』国書刊行会)

マルセル・シュオッブ「大地炎上」(『マルセル・シュオッブ全集』国書刊行会)

ジョイス・マンスール『充ち足りた死者たち』(マルドロール)

ジョルジュ・ランブール「ヴェネチアの馬」(マルセル・シュネデール編『現代フランス幻想小説白水社)

J・G・バラード「終着の浜辺」(『終着の浜辺』創元SF文庫)

島尾敏雄「草珊瑚」(『硝子障子のシルエット』講談社文芸文庫)

高橋睦郎「三つの童話」(「牧神」2号)

 

◇小説に接近する詩

時里二郎『名井島』(思潮社)

粕谷栄市『世界の構造』(詩学社)

入沢康夫『ランゲルハンス氏の島』(『入沢康夫詩集』思潮社)

入沢康夫「「木の船」についての素描」(城戸朱理野村喜和夫編『戦後名詩選』思潮社ほか)

金井美恵子『春の画の館』(講談社文庫)

多田智満子『川のほとりに』(書肆山田)後半の詩群

高橋睦郎『動詞1』(思潮社)

高橋睦郎『動詞2』(思潮社)

安西冬衛『軍艦茉莉』(『安西冬衛全集』宝文館出版)

吉田文憲『花輪線へ』(『吉田文憲詩集』〈詩・生成〉思潮社)

阿部日奈子『植民市の地形』(七月堂)

川口晴美『やわらかい檻』(書肆山田)

廿楽順治『たかくおよぐや』思潮社)

佐藤雄一「痛覚のためのエスキス」

高柳誠

ホルヘ・ルイス・ボルヘス『創造者』(岩波文庫)

ジャック・レダ『パリの廃墟』(みすず書房)

エフライム・ミカエル「フランソワ・ヴィヨン」「王」「奇跡」「降霊術師」 (白鳥友彦編訳『月と奇人』森開社)

エフライム・ミカエル「世捨人」(「幻想文学」66号)

アンリ・ミショー

李箱

 

◇参考作A 個人的な愛着は強くないが気に入る人もいるように思えるもの

福永武彦「塔」(『塔』河出文庫)

千田光『千田光詩集』(森開社)

飯田茂実『世界は蜜で満たされる』(水声社)

松井啓子『のどを猫でいっぱいにして』(思潮社)

田口犬男『モー将軍』(思潮社)

アナイス・ニン『近親相姦の家』(鳥影社)

リチャード・ブローティガンロンメル進軍』(思潮社)

チャールズ・シミック『世界は終わらない』(新書館)

エルゼ・ラスカー=シューラー「白いダリア」(紀田順一郎,、荒俣宏編『啓示と奇蹟』新人物往来社)

 

◇参考作B 物語性はほぼないが優れた散文詩としてこの際強くおすすめしたいもの

山口哲夫山口哲夫全詩集』(小沢書店)

高橋睦郎『暦の王』(『高橋睦郎詩集』思潮社)

平出隆『家の緑閃光』」(書肆山田)

高橋優子『薄緑色幻想』(思潮社)

ジュリアン・グラック『大いなる自由』(思潮社)

ジャン=ミシェル・モルポワ

 

◇参考作B いつか挑戦・再挑戦したいもの

ワレーリヤ・ナルビコワ

オシップ・マンデリシュタームアルメニア紀行

ミシェル・レリス『オーロラ』

 

◇レファレンス

「びーぐる」23号(「特集:詩のなかの小説 小説のなかの詩」) 

現代詩手帖」2015年5月号(「特集:SF×詩」)

「残雪研究」8号

残雪に関心がある人は、この号だけは持っていて損はしないと思う。理由は、「近藤直子著訳一覧」が掲載されているから(おそらくまだ在庫ありのはず)。

 まず、これは「近藤直子の目録」であって、包括的な残雪の移入書誌ではない(たとえばすぐに気づいたものとして、80年代に雑誌「シティロード」が残雪にインタビューをした記事を自分は持っているが、近藤氏の仕事ではないため、そういうものはここには載っていない)。ただ個人的にすごくびっくりしたのは、ここに掲載されたものだけでも残雪の短篇は単行本未収録のものがとてつもない量あるということ。具体的には「季刊 中国現代小説」のような雑誌にかなり訳載されている。自分がかじったのは今のところ氷山の一角にすぎないが、だからこそ近藤氏の残した仕事にこれから幾度も世話になりそうだ。

 最近買って「どうしても紹介したい!」と思った洋書のひとつがAnatomy of Wonder。1976年に初めて刊行されたSF研究書で、英米だけでなくデンマークスウェーデンルーマニアからイスラエルまで非英語圏のSFについて国ごとの概論と主要な作品の解説を多数掲載していることを特徴とする。

この本の「日本SF」の項がすこぶるよい。こんなに古い本でも、こうしてブログで紹介する価値があると信じさせられてしまうほどよい。SFマガジン1990年3月号の山岸真の連載「海外SF取扱説明書」がこの本を取り上げていて、以下のように述べている。

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『驚異の解剖』の日本SFの項を書いているのは、長く日本に滞在し、SF関係者とも親交のあったデイヴィッド・ルイス。SF作家でもあり、〈オムニ〉に載った日本SFの英訳者でもある。まず総話では、石川喬司氏の評論をひいて、日本人の想像力を『古事記』にまで遡ってから、芥川、川端、三島といった文学者の作品に見られる幻想的な要素に言及する。つづいて明治時代からの日本SF史をたどり(横田順彌氏らの業績を踏まえている)、現代SFの発展の過程から、雑誌や現在の出版状況、ファンダムに触れている。翻訳SFの与えた影響とか、英米SFと比べて科学への関心が薄いことなど、批評的コメントを交えながら、かなり細部まで論じられているのが新鮮。簡単な作家紹介があったあと、日本のSFはもはや英米の模倣ではなく、英米の読者は日本SFが英訳されるようもっと関心を持つべきだ、と総括はしめくくられる。

 多分翻訳家の方などの助言もあったのだろうが、日本でも日本SF入門に使えそうなほど、手際よくポイントを押さえたもので、これがアチラでの日本SF認識のスタンダードになるなら、とりあえずいうことはないという感じ。(強調引用者)

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90年の文章であるから今の山岸氏が本書を再読したらどう感じうるかは別なのだけど、少なくとも当時氏が「きわめて好意的に言及していた」と言ってしまってもよいのではないだろうか。

執筆者のデイヴィッド・ルイスは後にデーナ・ルイスと名を改めるが、山野浩一「鳥はいまどこを飛ぶか」や菅浩江の短編などを訳し、翻訳家としても日本SFの紹介に大きく貢献している。くわしくはご本人が参加した2018年のSFセミナーについてのウェブ上の各種レポートなどを参照のこと。

さて、ルイスの文章がインターネット上の英語による日本SFレビューの多くよりすぐれていると思える所は、各作品のプロットの要約や評価にとどまらず、日本SF史というより大きな流れの中での作品の立ち位置や日本SF史内側での作品の影響関係までをも少ない語数で外部に発信しているところ。

引用におさまる範囲でいくつか紹介したい。

まずは筒井康隆ベトナム観光会社』。

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5-241. Tsutsui, Yasutaka. Betonamu Kanko Kosha (The Vietnam Sightseeing Company). Tokyo: Hayakawa Shobo, 1967.

A set of later short stories by Tsutsui including what is perhaps his best-known work. A company specializing in arranging honeymoon trips for newlyweds plans tours to the Moon and to the Vietnam War. Filled with puns, takeoffs on the names of other science fiction writers, and sharp satire against the institutions and values of modern Japanese society, this story helped define a subgenre that has become known as “dota-bata SF,” literally “slapstick SF,” and is practiced by many younger Japanese writers. Compare with Kanbe’s Kessen: Nihon Shirizu [5-213].

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サブジャンルとしての“dota-bata SF”への言及のしかたが簡潔かつ正確に見えます。

続いて、山尾悠子『夢の棲む街』。

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5-251. Yamao, Yuko. Yume no Sumu Machi (The Town Where Dreams Live). Tokyo: Hayakawa Shobo, 1978.

Born in 1956, Yamao is one of the most accomplished of Japan’s young SF writers and the best of the handful of Japanese women writing science fiction. Her themes and techniques come as much from the Japanese avant-garde as from the science fiction community, and her sometimes excessively intellectual prose, thick with symbols, also reflects this allegiance. This first collection of her work nonetheless contains several powerful stories that systematically assault conventional wisdom, using surrealistic techniques and occasionally grotesque characters. Compare with Ballard’s “The Sound Sweep” and Vermilion Sands[3-61].

「Her themes and techniques come as much from the Japanese avant-garde as from the science fiction community, and her sometimes excessively intellectual prose, thick with symbols, also reflects this allegiance.」。「the Japanese avant-garde」ってこれ、「前衛」というよりかは指そうとしてるのは澁澤龍彦文化圏であって、日本の「異端文学」みたいなニュアンスでこの訳語を当てたんでしょうね。

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さらにこのルイス氏原稿が一歩進んでいるように思えるのは、当時手に入るレファレンス書籍もていねいに取り上げていること。以下、『世界のSF文学総解説』。

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5-261. Ishikawa, Takashi, and Norio Itoh, eds. Sekai no SF Bungaku Sokaisetsu (A Comprehensive Guide to World SF Literature). Tokyo: Jiyu Kokuminsha, 1978.

Not as comprehensive as the title suggests, this remains an excellent reference work providing synopses and author information (up to two full pages for major works) on hundreds of novels, short story collections, and outstanding single stories from around the world. Particularly valuable to a Western reader are the nearly 100 entries on works by Japanese authors. Ishikawa is Japan’s leading SF critic; Itoh is close behind and is also one of Japan’s best translators.

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Sekai no SFってローマ字表記で見ると、ちょっとフシギな感じで微笑を誘う。「Not as comprehensive as the title suggests」っていう指摘も言われてみれば確かにという気がしますね。伊藤典夫についても「one of Japan’s best translators」と評価。

他に単独で項目を設けて紹介されているレファレンス書籍としては、横田順彌『日本SFこてん古典』、福島正実『SFの世界』など。

ここに引用したのはほんの2つだが、第一世代の大御所作家だけでなく、河野典生鈴木いづみ『女と女の世の中』など、英語圏では言及されることが少ないかにみえる作家の著作についても単独で項を設けて紹介している。なお、自分が持っているのは1981年の第2版だが、山岸氏が持っている版は神林長平などより下の世代までカバーしている模様。

ここで話は21世紀に飛ぶ。日本SFを海外に普及させたいと考える時、「普及」と「翻訳」はイコールではないことにすぐ気づく。たとえば今日、「Tobi Hirotaka Ragged girl」でgoogle検索をしてみると、2件目に表示されたのは2007年の横浜ワールドコンに向け日本のSFセミナー・スタッフが英語で書いた紹介文だった。作家によっては英語版wikipediaに項目が立っているが、英文の質としても著作の網羅性としても、いろいろな意味でばらつきがある気がする。デーナのような影響関係や歴史までをおさえた質の高い、端正な文章をプロが書き、ポータルサイト的な空間で無料で公開していくといういとなみには意義があると思うのですけど、いかがでしょうか皆さま?

ブルース・スターリング『蝉の女王』(ハヤカワ文庫SF)

蠱惑的なアイデアが蠱惑的に詰まった蠱惑的な小さい本。interdisciplinaryなインスピレーション体(たい)がハチの巣のように充満していて、とすると「評価するための作品」というよりは、未来を発明し直す権利のある者たち――作家や科学者や建築家らが自己のイデアを精錬するための多面体としてこれを眺めてみたい。

短篇小説日和

・マイクル・ビショップ「デミル伯の城」(「SF宝石」1979年10月号)

ビショップを熱愛し大学の卒論にまで選んでしまった山岸真さんが、とある場所でビショップの短編ベスト3に含めていた作品。そこに「おそらく誰も同意しないであろう」「デミル伯の城」という文句があったのをおれは見逃さなかった。そんな風に言われたら、逆に読みたくなってしまうではありませんか。

格調高い文章を書くビショップにしては、これは小粋なユーモア路線というか、言ってしまえば余技だと思う。太陽の上らないこの世界はデミル伯に統べられており、人々は〈宝石城〉のあまたの窓に映し出される無数の映画を永遠に見続けなければいけないという苦役に従事している。食料はただ空腹をしのぐためだけのポップコーンとコーラのみで、スクリーンを適切に見つめているかどうかを監視する、馬に乗った〈黙らせ屋〉たちの巡回も止むことがない…。

本作のヘンな所は、異世界が舞台でありながら登場するおびただしい映画作品は、国産「オズの魔法使い」からフェリーニブニュエル、「七人の侍」まで僕たちが生きるこの現実界のそれであること。〈黙らせ屋〉の格好もカウボーイだし、ディティールを加味すればアメリカ社会についての批評として読めると思う。こういうごく軽めの小品でも強烈なツイストが効いてスタイリストぶりが発揮されてしまうあたり、著者のもっと別の作品にも手を出したくなる。

・デーモン・ナイト「輪舞」(「SFマガジン」1985年7月号)

派手さはないが読者を余韻で包み込み、読んで数年もたってから「思い出させてしまう」小説とはこういう小説なのではないか。ハンス・へニー・ヤーンの「鉛の夜」のような鈍色(にびいろ)の彷徨小説が好きな人、子どもの頃、夕闇の時間に林で迷った経験を持つ人へ。

2019~2020年の収穫

2019~2020年の新刊からではなく、この二年間に読んだ本・マンガからの個人的な収穫。

この種の記事をわざわざ上げるのは本当にひさしぶり。と言っても、学生時代の半分も読めるわけはないわけで、一年ではなくおよそ700日という長さを振り返ってみることにした。

今やもっとも愛着のあるジャンルが「海外詩」という身分からするなら、slow readingというおこないには進んでとっぷり身を浸したいし、日本語でも外国語でももっと辞書を引きながら読めばよかったという反省もある。

ここにあげなかったものとしては、本としては読むことができなかったけど、TEDその他で触れたスティーヴン・ピンカーの一連の主張を、アフターコロナにおいても十分適用できる可能性のある〈進歩的な〉未来学の破片として胸にしまい込んでおきたい。

 

永田耕衣『しゃがむとまがり』(コーベブックス)

山尾悠子『飛ぶ孔雀』(文藝春秋)

時里二郎『名井島』(思潮社)

川端康成『古都』(新潮文庫)

朱天心『古都』(国書刊行会)

蜂飼耳『空を引き寄せる石』(白水社)

原岡文子訳注『更級日記』(角川ソフィア文庫)

恩田侑布子『夢洗ひ』(角川書店)

高山羽根子首里の馬』(新潮社、2020)

イタロ・カルヴィーノ『Under the Jaguar Sun』(Harcourt)

エルンスト・ユンガー『大理石の断崖の上で』(岩波書店)

Pemi Aguda “Manifest”(「GRANTA」公式サイト、2019)

ジュディス・ライト『クルーラの黄昏』(審美社)

ヌーラ・ニー・ゴーノル『ファラオの娘』(思潮社

リチャード・マグワイア『HERE ヒア』(国書刊行会)

スワヴォーミル・ムロージェク『OBRAZACH』

三島芳治『児玉まりあ文学集成』(1)(リイド社、2019)

白山宣之『10月のプラネタリウム』(マガジンハウス)

伊藤重夫『チョコレートスフィンクス考』(跋折羅社)

スケラッコ盆の国』(リイド社

こがわみさきココログイン』(KADOKAWA、2020)

Jock Sturges『Fanny』(stadl)

Jo Spence『Putting myself in the Picture』

Remedios Varo『Remedios Varo: The Mexican Years』(Rm Verlag)

倉田精二FLASH UP』(白夜書房

Okama『Okamarble Completion』(KADOKAWA)

ヨシフ・ブロツキー+イーゴイ・オレイニコフ『ちいさなタグボートのバラード』(東京外国語出版会、2019)

赤松美和子・若松大祐編『台湾を知るための60章』(明石書店)

水野俊平『台湾の若者を知りたい』(岩波ジュニア新書)

川島小鳥『愛の台南』(講談社

川島小鳥『未来ちゃん』(ナナロク社)

綾女欣伸「私たちがまた穏やかにならないように」(「現代詩手帖」2019年5月号)

秋草俊一郎『「世界文学」はつくられる 1827-2020』(東京大学出版会、2020)より「第3章 全集から部分集合へ、さらなるエディションへと 2004-2018」

トーマス・シェリング「ミクロ動機とマクロ行動」(『ミクロ動機とマクロ行動』勁草書房)

スーザン・スチュワート「欲望のオブジェ」(今福龍太、沼野充義四方田犬彦編『世界文学のフロンティア ノスタルジア岩波書店)

川田順造「サバンナへの夢、そして三〇年ののち」(『文化人類学とわたし』青土社)

奥井潔『奥井の英文読解』(駿台文庫)