鈴木いづみのいた本牧

今年英訳の出る鈴木いづみの長篇『ハートに火をつけて!』の主な舞台である、神奈川県の本牧に遊んだ。

鈴木いづみがそのなかを生きた時代と現在とでは、まったく別の土地と言っていいくらいに変貌してしまっていることは知っていた。痕跡をひとつ、ふたつさがすのも簡単ではないことは予感していた。けれどこの日はどういうかぜの吹き回しか、自分のあしうらで確かめたかったのかもしれない。

まず、ネットなどを通じて得た少量のよみかじりの知識を自分なりに整理する。

横浜周辺がもともと港町で海外文化がいち早く到来する場所だったこと、米軍基地と米軍住宅があったことが手伝い、1960年代から70年代のある時点までは日本における最新の音楽の純然たる中心地のひとつだった。ガラの悪い不良少年少女やグルーピーが集い、多くのプロミュージシャンを輩出するような土地。東京より音楽の流行に繊細であるという自負を持った若者も多く、「本牧ブルース」(1969年)という流行歌は『ハートに火をつけて!』4章のタイトルになっている。

本牧の不良は、埼玉の不良(テンプターズ)より、全然カッコいいわよ。スカマン(ヨコスカ・マンボ)っていうくらいのもんだもの。あそこは、日本でいちばん音楽情報がはやかったからね。ジューク・ボックスは、全部英語で書いてあるの。植民地文化ね。音楽雑誌が外国の曲を紹介するまえに、すでにグリーン・グラスは演奏してたのよ」

 悦子は、うっとりと解説した。

そんな尖ったこの地域も、戦後日本経済が成長し土地の治安も良くなるのに並行して、そしてベトナム戦争終結によりアメリカ軍の兵士たちの多くが帰国していくのに呼応して、カウンターカルチャーの発信地という側面は次第にそして急速に薄れていったよう。本作発表の前年、1982年には米軍住宅だった土地も返還され、その変貌ぶりを主人公が述懐するシーンがある。

作詞家はいまだに本牧をうたう。このあたりはさびれてしまったのに。米軍ハウスはなくなり、植民地文化はうすめられて、日本全国にひろがった。都市計画によると、本牧は公園になるそうだ。たしかな話ではないが。本牧という街そのものがなくなってしまう。中華街とならんでヨコハマの二大特徴だったが。やがて、だれも特にかかなくなる。

やがて、だれも特にかかなくなる。いくら自伝的な小説といっても、主人公の語りをすべて作者の本音と同一視して考えるのはいかにも旧時代的な、批判さるべきアプローチだろう。けれど、この長篇にかぎっては、「この作品においては、主人公と作者をダブらせて同一視しても本人の意向に反さないのではないかと思う。(…)そしてさらに、どこか「同一視されたい」と作家が願っているように思われるのは錯覚だろうか。」との解説における戸川純のコトバになぜかうなずきたくなってしまう。

1989年には、マイカ本牧という大規模ショッピングセンターが鳴り物入りで米軍住居跡地に誕生する。ただ、この時期はいわゆるバブル経済が終焉する直前。フランスなど多くの外国ハイブランドを店舗にかまえ、付近の通りも「イスパニア通り」など(スペイン風の)エギゾチックな雰囲気ただよう耳にこころよい名に改名したものの、鉄道の駅が周囲にないという交通の不便さが要因となり、深刻な営業不振におちいってしまう。

実際に今回本牧に行ってみて駅からの遠さを実感したが、自家用車がない限りは本数の少ないバスに頼るしかない。『ハートに火をつけて!』でもバス停やタクシーが何度も出てくるのはあきらかにこれを反映している。神奈川の遊び場としてはそばに中華街やみなとみらいがあり、関東の多くのひとびとにとって、ことさら足を伸ばすに足るようなスポットは多くはないのかもしれない(みなとみらい21の事業としての着工は本作が出版された1983年)。帰りみち、根岸行のバスを待って暑さのなか7、8分バス停で並んだ。そのあいだ、列にいた年配の夫婦の男性のほうが蚊のようにか細い声でつぶやいていた。「ここは田舎だから」。

現在、観光として本牧に足を延ばすひとの多くが訪れるのが、指定有形文化財に指定された歴史建造物をいくつも擁する名勝の日本庭園、三渓園なのではないだろうか(この日は中華街駅から三渓園行のバスに乗ったのだが、ひとりの乗客を除いてみなが三渓園正門前で降りていた)。京都や鎌倉などから集められた三重塔、茶室などが池や花々と調和してうつくしい。

夏の暑さのためか、園内はひともまばら。野鳥たちが気持ちよさそうに、そして思い思いに泳いだり散歩したり昼寝(?)したりしている。色々なことも忘れ、しばらくはその光景に吸い込まれてしまった。

夏の花である蓮は午前中のうちに閉じてしまうことで知られるのだが、この日は午後にもかかわらずまだ咲き残っているものがいくつか。



おみやげとして、桜や梅、三重塔をあしらった濱文様製の小布(ミニ風呂敷)を購入。鈴木いづみコレクションや『いづみ語録コンパクト』、そしてハートの色でもあるピンク色をえらぶ。鈴木作品が好きな方に、いつかプレゼントできればいいのだけれど。

三渓園を離れたあと、気になっていたパンケーキ屋さんに立ち寄ろうとするが、週末の行列をみてちょっと気おされ、パスすることに。米軍住居跡→マイカ本牧(1989年開業)→イオンモール(2011年開業)という数奇な運命を辿っている商業施設まで足を伸ばす。

少し印象的なのは、マイカ本牧そのものは遥かむかしに吸収合併というかたちで消滅したのに、噴水と時計台はバブル絶頂だった創建時のものをそのまま使い続けていること。写真でもわかるように、この時計は停止していて時計の意味をなしていない。複数の時計が、空虚かつばらばらにあべこべの時間を伝えている(「お客様へ この時計は現在作動していません」という奇妙でちいさな張り紙がわざわざ貼られている!)。いまも流れつづける噴水のほうはどうか。この日の暑さもあって、パパやママと買い物に来た子どもたちが目にした瞬間にいちもくさんに駆け寄っていた。

イオンモールの5階はいまはブックオフが入っている。ここ数年は年に数回もこのチェーンは利用しないのに、遠出してまで入るようなお店ではないのに、ファスト風土的な、懐かしくホッとするチープさに懐かしさをおぼえたのか、なかに入ってしまう。

日本の小説(単行本)の棚の「さ行」に、『恋のサイケデリック!』など鈴木いづみコレクションが二冊、文学関連書の棚に『鈴木いづみ1949-1986』があった。ローカルの人びとが、「本牧にゆかりのある作家」と聞いて手に取って、でも読んでみておおきな感銘を受けずに手放したのだろうか。無意識になにかしらのナラティブを願望している自分がいる。

ちなみに、この記事ではマイカ本牧やらイオンモールやらの話題にふれてきたが、マイカ本牧が竣工したのは鈴木が亡くなった1986年の3年後であり、本牧の歴史とは呼べても鈴木とは結局関係ない。しかし、戦後のなにか黒々としたものと結びついたひとつの街の激変の歴史として、興味をおぼえたあかしに書きとめたかった。ウェブでたまたま見つけた本牧の地域研究の論文には、このような記述もある。

本牧地区は1945 年以降において4 度、景観の価値を失ったことになる。一度目は敗戦に伴う米軍による住み慣れた土地の接収、二度目は高度成長期における海岸線の埋立て、三度目は土地の区画整理に伴い実施された米軍施設群の解体、そして大規模商業施設における中心的存在の撤退である。(相藤直「喪失の記憶に基づくまちづくりに関する考察 : 埋立て・接収・大規模商業資本撤退を経験した横浜市中区本牧地区を事例として」※書誌情報は記事の巻末に)

このエリアのことそのものを小説を通して今年はじめて知ったような人間がいう滑稽さは承知しているが、『ハートに火をつけて!』にみちている喪失感、速度、痛切さ、醒めた明るさは、本牧という土地に働いていた力学と無縁ではないのではないか。

このあと、現存する本牧の最古かつ(おそらく)唯一のライブハウスであるゴールデンカップや、海や港湾を望める横浜港シンボルタワーまで足を伸ばしてもよかったはずだが、友人との約束の時間が近づいていた。タワーは山手駅からはおよそ5.5kmということで、バスやタクシーを駆使しないとたどり着くのは難しかっただろう。

追記その1
調べていて気づいたこと。本牧の音楽イベントとして「本牧ジャズ祭り」というイベントがあるが、近年の会場は本牧ではなく、赤レンガ倉庫や関内ホールなど本牧の外でおこなわれている。

追記その2
この作品のなかでは主要な人物のひとりとして、ジョエルのグループ、グリーン・グラスでリード・ギターを担当するランディーという中国人が登場する。このランディー、グリーン・グラスが解散したあとは、なんとも面白いことに中華街で中華料理屋をはじめて繁盛するという筋立てになっている。

さて、(この文章をしたためている)僕の祖父は、職をもとめて日本に渡ってきた中国人であり、亡くなったあとは横濱中華街からほど近い共同墓地に埋葬された。先日母に会った折、ふとした拍子に「本牧に行ってきた」という話になり、ふだん本の話題などしないのにめぐりめぐって「最近読んだ本牧を舞台とする小説に、音楽をやめたあとに中華料理屋をはじめて繁盛する中国人が出てくる」ということまで(鈴木いづみという名前などは出さずに)ぽろっと洩らしてしまった。

驚いたのが、祖父は母がまだ若い頃に「最近の若いの(註:中国から渡ってきた移民の息子)は不良が多くて、家業の中華料理を継がずに音楽をはじめたりする」とボヤいていたらしい。つまり、ランディーのようなひとは当時ひとりではなかったし、これは実話にもとづいてのエピソードそしてキャラ造型だったのだ!また、母は鈴木いづみの世代に比較的近い。音楽の話題などこれまでいっさい聞いたことがなかったのに、僕が初読時にまったくわからなかったGSとか沢田研二とか本牧ブルースとか懐かしそうに、それが思春期を彩った固有名詞ででもあるかのように語りだしたのにも本当にびっくりしてしまった。

参考(リンクを張っています)
相藤直「喪失の記憶に基づくまちづくりに関する考察 : 埋立て・接収・大規模商業資本撤退を経験した横浜市中区本牧地区を事例として」 (「21世紀社会デザイン研究」21号、立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科、2022年)
wikipedia「イオン本牧店」
CKB横山剣に聞く横浜不良音楽の系譜(音楽ナタリー)

 

澁澤龍彦『高丘親王航海記』フランス語版(パトリック・オノレ訳)の出版社による紹介文(→LINK)。比較としてカルヴィーノを出すのはともかく、鳥山明ドラゴンボールと並置するのは一周回って不思議な批評性を感じます。高丘親王の顔を悟空で再生する発想は、ほとんど清新……。

フリオ・コルタサル“Cronopios and Famas”(未訳)。

信頼する中国の日本文学翻訳家がコルタサルではこの作品集が好き、と書いていて表題作のみ英訳で読む。短章形式でCronopio、Fama(そしてEsperanzas)の生態を描く不可解な一篇。『クロノピオとファマの物語』という流通している仮の訳題ではわからないが、スペイン語や英語では複数形であることに注意したい。

あまりに幻惑的な書き出しに、Cronopio、Famaとはヒトなのか、それとも(『動物寓意譚』に登場するあの) マンクスピアのような人外なのか?とはじめは判然としなかった。しかし読み進めていくと、CronopioはCronopio、FamaはFamaと呼ぶ以外にない存在なのだとすぐに了解される。それでも、おのおのの節を因数分解してみればその断片は鏡として私たちの生きる世界を鋭すぎるほどに逆展望してやまない。

このスタイルは、あきらかに凡百の幻想小説がおのずと取りたがる形式から遠く隔たった地点で生成されている。架空博物誌の文法を日常生活に果敢に当てはめ、別乾坤を創造してしまう驚異の芸当。原稿用紙に穴を空ける。その穴を押し広げて異界への入り口を作る。穴に落ち込んだはずなのに、異界と現実の位相がぴたりと重なり合ってしまう空間からいくら藻掻いても出られなくなってしまうことを読者は発見する。ポオを批判的に乗り越えたと指摘されたら頷きたくなってしまうような、黒光りするユーモアにみちたコルタサルの骨頂だとおもう。

ひさびさの鈴木いづみ、『ハートに火をつけて!』。大学時代、SFセミナー企画『鈴木いづみRETURNS』ではじめて存在を知り、ル=グィン『闇の左手』を扱ったゼミ発表で「女と女の世の中」を引いて恩師に建設的助言を賜ったのもいい思い出。愛に餓え70年代を光よりも速く駆け抜けたこの作家が、いまや国内よりも国外で熱心に読まれているというのは数奇さを感じずにはいられない。

読後感をうまく整理できず自分以外の感想を少し探してみて、惹かれたのが「作中に漂う力強い諦念と、プラスチックみたいな透明な明るさが、切実で美しい。」との三浦しをんの言。諦念とは、ふつうはよわく脆いものなのではないか?それが、鈴木いづみの場合は力強いなにかへと、転化されているというのだ。

今年もまた、例の夏がはじまる。いつもの夏が。みどり色した疲弊をしょいこんで、あちこちを犬みたいにうろつく夏が。(略)夏におこることは、たいてい尾をひかないから、いい。きしみをあげるような光と、ぐったり湿った空気がなくなると、全部がウソだったような気がするから。パッケージにひとまとめにして、天井ちかくの戸棚にしまっておけるから。とりだしてあげると、時間感覚の奇妙さのせいで、いつでも新鮮なのだ。何年まえの夏だろうが、関係なく。そして、三年前の夏が、二年前の夏より遠い、ということはない。
鈴木いづみ『ハートに火をつけて!』(文遊社)

鈴木いづみ語録』などはなぜか3回購入し決まった箇所をくりかえし読んだりしてきたのだが、この自伝的長編についてはいまは感想として散文化できそうにはない。ぼんやりといま考えているのは、むしろ「女と女の世の中」のこと。The New York Times書評では英訳SF短篇集がル=グィンと関連づけて論じられていたりするが、個人的にはかならずしも大文字の文学として捉えなくてもいい、とも思っている。「女と女の世の中」は、男の子が出てくるシーンがとても印象的。鍾愛する、マーガレット・セントクレア「街角の女神」「地球のワイン」のような、夢見がちな(ほとんど)ふつうの女の子が夜も更けて自分の手帖に書き始め書き上げたような、満月の夜の夢の残り香をお裾分けしてくれるような、小粒なるものだけが発散するアンビアンスがだいすきなのだ。

海老島均一・山下理恵子編『アイルランドを知るための70章 【第3版】』(明石書店、2019)。アイルランド語で創作するヌーラ・ニゴーノルは『ファラオの娘』しか読んでいなかったのだけど、アイルランド詩の状況を概説する池田寛子「もう一つの世界へのまなざし」を読んで、もう少しこの女性詩人について深く知りたいと思うようになった。アイルランド語を理解する国民が数少ないなか、キアラン・カーソンら英語詩人がニゴーノルを「直訳を離れた個性的な訳」で訳し評判を呼んだという記述があるのは興味深い(『ファラオの娘』の場合は、大野光子の訳を高橋睦郎佐々木幹郎がブラッシュアップしたとあとがきにあるのを想起しても、なおさら)。ポーランドアイルランドでは国民のあいだで詩が大きな位置を占めている、とはまたべつの野心あふれるわが国の詩人・四元康祐の見立てだが、2018年にニゴーノルはポーランドの国際文学賞を受賞したとも池田寛子の文章にはある。

アイルランド語と教育の関係にも興味がある。戦後教育をアメリカによって規定され、国語の時間を減らして英語の授業数を増やすべき、との議論に決着点のみえない日本に住む人間だって、感情移入のできる問題ではないのか。

この短文のおわりに、インターネットでぐうぜん見つけた現代アイルランド女性詩、アイリーン・ニクリャナーンの「捕獲」を紹介したい。翻訳は上記池田寛子、初出は「英文学評論」95号(2023年5月)(→LINK) 。


I
まず フレームを作るために手伝って 羽と
鼻と尾びれを使って
毛むくじゃらの獣たちの場所
奴らが這い上がってきたり 空中から出現するときに備えて
フレームには裂け目も必要 種を隠しておけば葉が芽を出すから
私が跳んで逃げると 地平線が振り子のように揺れる
遥か彼方で 連なる丘は
煙のように浮遊し 平野と
谷が目の前に迫る 急降下すると 水平面が
束の間現れ 葉っぱに隠れた窪みには
命が潜み 身を寄せ合って耳を澄ませる
音楽に命を吹き込む一つの声に 弾ける歌に 嘆きの歌に。

II
私が地球ではなく この地球の最近の地図で
生垣に縁どられているならともかく そうでなければもう結構
また競走するのは。学年ごとに子どもたちが 
生垣に隠れた校舎で 暗記に励んでいる
アルファベットや語尾変化を 声が遠のいていく
ひとりひとりの名前が読み上げられていくにつれ。

あんなものは地球の影にして ウィンクで雲隠れさせてやる
私の脳内の路には もう隙間がないから
ナメクジと葉っぱの会話を全部聞いておきたいから
でも私がスローエアを追いかければ 音色はどこまでも広がって
大海原を横切って懸命に進む幾艘ものボートについて行く
あらゆるドアをノックして 押し入る
フランスの道をくねくねと進んで
知らない人の奉公に向かう娘たちのそばを通って
外国の戦地にいる息子たちのそばを通って 
断頭台で祈るルイ一六世の手を握るあの人のそばも通って
そうするうちに 地球が遠ざかっていく。
あの人たちはみんな集められ、調律されて「一つの歴史を生きてきた
アイルランド民族」になるのだろうか 足りない用語は何 フレームを
成り立たせるために 何かを見ようと思えば
フレームなしというわけにはいかない。
もしも私がスクリーンで はためいているとしたら
四つの手描きのプロヴィンスの境で
レンガと木材と
私を守るこの屋根
私はフレームの断片を見つけなければ
そのあたりを歩いてみて 確かめなければ
それらを曲げて合わせられるかどうか 違う設計図に沿って
それから試してみよう 説得すれば
生垣を越えて 戻ってくれるかどうかを
そのとき私は獣の重みを感じるだろう
奴らが ずれた翼にそって もう一度出現するならば。

 

“新進作家”、レジェンド・エリスンに嚙みつく?――ハルキムラカミによる若干のSF批評に就いて

村上春樹の作品についてはさまざまな人がさまざまなことを言っているが、ある種の作品がSFの質を帯びているのは疑い得ない。「SFマガジン」が2006年に行ったオールタイムベスト・アンケートでは、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は国内SF長編48位にランクインしている。

さて今回は筆者が偶然発見した村上によるエリスン『死の鳥』書評を紹介する。氏がその本を「読んでいた」ことそのものは、翻訳家・風間賢二氏のエッセイ集『快楽読書倶楽部』(創拓社)によって熱心なSFファンの間ではこれまでも知られていた。ただ、この記事は風間氏が早川書房の編集者であった時代、喫茶店で原稿の受け渡しをした際に村上が『死の鳥』について言及した、と書いてある程度で、村上自身がエリスンについて書いた文章が存在するとは筆者はまったく知らなかった。また、インターネット上にもこの書評に言及しているサイトが見当たらないので、わざわざ大きく取りあげさせていただく。

掲載されたのは「ハッピーエンド通信」という、総ページ数70ページにも満たないカルチャー誌の80年5月号で、分量としてはわずか1ページ。「「ウルトラ・ヴァイオレンス」の作家、ハーラン・エリソンのSFを読む」という見出しに興奮しながら読み始めたのだが、書き出しに面食らってしまった。

 僕が比較的熱心に読むサイエンス・フィクションの作家といえば、シルヴァバーグかこのエリソンというところなのだが、シルヴァバーグの作品がまさに玉石混淆といった趣きで訳出され、ずらりと書店に並んでいるのに比べればエリソンの翻訳は驚くばかりに少ない。そこでいきおい原書のペーパー・バックスということになるのだが、これが読み辛い。いや、読み辛いというよりは、不快という方が先に立つ。

「読み辛いというよりは、不快という方が先に立つ」。これはまったく好意的な評価ではない!

続けて村上は、作品集に付されたエリスンによる自序を引用。

「本書を一息で読むことはお勧めできない。間を置かずに読み通した場合、各作品に含まれた感情的波動は、あなたの精神を極度に混乱させてしまうかもしれない。これは心からの忠告であり、決してこけ脅しではない。H・E」

 これが実に本書の冒頭にある筆者からの警告なのである。もしこの押しつけがましい文章が読者を一ページめから不快にさせるために書かれたのだとすれば、筆者のその意図は百パーセント成功しているようだ。

どう考えても、これはホメているようには見えない。もっと言ってしまえば、当時まだデビューしたての新人作家だった村上によるレジェンドへの論難である。もしこの書評が日本のエリスン読者を一ページ足らずで不快にさせるために書かれたのだとすれば、筆者のその意図は百パーセント成功しているようだ。

この後、カポーティがケルアックの作品を論じる時に編み出した「「タイプライティング」言語」という概念を参照しながらエリスンの文体の人工性を検討するなど、米文学徒としての側面を感じさせる箇所もあるのだが、それにさらに続く段落では「死の鳥」への批難の手を休めない。

 もちろん、エリソンがジャック・ケルアックに匹敵するかどうか、といった比較にはまるで意味はない。そのような比較を行うにはサイエンス・フィクションというカテゴリイは余りに大らかすぎる。この大らかさは現代稀な美徳でもあり、エリソン自身もその大らかさを存分に楽しんでいるようなのだが、SFファンならざる僕としては、そこに飽き足りなさを感じないでもないわけだ。例えば本書の標題作「デス・バード」は七四年度のヒューゴ賞を受賞した評判の高い作品だが、その大仰な構成と文体にもかかわらず、結局は既製のSFパターンを脱してはいないし、無意味なオチをつけることによって生命力を減殺させている作品も他に幾つかある。

この書評のもうひとつの読みどころは、自身が『空飛び猫』という絵本のシリーズを訳してもいるル=グィンについて触れた箇所かもしれない。

それでもエリソンをはじめとする現代のサイエンス・フィクションが持つ有効性は決して損なわれてはいない。あとはエリソン自身が語っているように、この方法論にどれだけの「文学的完成度」が付与されるか、という問題になるわけだが、これが為された時、現代の文学をサイエンス・フィクション抜きで語ることは不可能になるだろう。アーシュラ・K・ル・グィンはこの有効性を「距離を置く(ディスタンシング)」という極めて興味深い言葉で表現している。状況や自我やモラリティー、あるいは想像力からのディスタンシングはこれからますますその意味を増していくであろうし、ハーラン・エリソンがその「人工的な悪意」という名のタイプライターから叩き出した作品群が読者に要求するのも、ある種の情緒的なディスタンシングのようである。

「決して損なわれてはいない」「これが為された時、現代の文学をサイエンス・フィクション抜きで語ることは不可能になるだろう」「極めて興味深い言葉で表現している」といった最上級のことばがここで使われていることに注目したい。ここで村上は、スペキュレイティブ・フィクションの潜在的可能性を本気で信じているように見える。ディスタンシングという視点から『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を考え直してみるのも面白そうだ。

ここで、けして数量として多くはない村上のSFへの言及や関わりをまとめてみよう。ル=グィンについては、分身のように登場人物から離れ、自律して行動する〈影〉というアイデアに、『影とのたたかい』(『ゲド戦記』1巻)と『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』との類似を指摘する評者もいる。エリスンについては、この書評の意を最大限に汲むと『死の鳥』には「不快さ」も覚えたが作家としては注目をしているとひとまず要約できそうだ。「SFマガジン」に村上がおそらく一度だけ登場し(1980年11月号臨時増刊)、「私の好きなSF」という題のエッセイを寄せた時に取りあげたのはロバート・シルヴァーバーグの静謐な美しさを湛えた秀作『夜の翼』(短編「太陽踊り」にも言及)。

さらに他のジャンルフィクションに話を移そう。日本で初のラヴクラフト全集(『定本ラヴクラフト全集』国書刊行会1984年刊行開始)のパンフレットに寄せた推薦文において、氏は「僕にとってラヴクラフトという存在はひとつの理想である。(中略)ラヴクラフトを手にとるたびに、小説を読むことの喜びの髄とも表すべきあのすさまじい戦慄を身のうちに感じないわけにはいかないのだ」と述べている。1981年、「海」という文芸誌において数回にわたって掲載された文芸批評的エッセイのシリーズ「同時代としてのアメリカ」ではその第一回にスティーヴン・キングを取り上げ、詳細に論じている。筆者が知る限り、これらふたつの文章は今にいたるまでどの単行本にも収録されていない。

風の歌を聴け』でデビューをしたのは1979年、上記『死の鳥』の書評は1980年。デビューしてから数年以内、つまり80年代前半まではさまざまなジャンルフィクションの作家についても文章を書いていたのに対して、国内外での評価がその後高くなっていくと、あたかもそれに呼応するかのようにSFやホラーについてはほぼまったく言及しなくなっていく。『グレート・ギャツビー』や『キャッチャー・イン・ザ・ライ』といったメインストリームの作品あるいはアメリカ文学の古典については翻訳もし雄弁に語りもするのに、SFやホラーについては押し黙ってしまう(沈黙を固持する)というのは、「自身の作品をそうしたジャンルと結びつけて論じられることを回避する」ための防衛策と見る向きもあるかもしれない。ただ、周知のように村上は多くのアメリカ小説に影響を受けていてその中にはヴォネガットブローティガンなど超自然の要素を持つものは多いし※、たとえエリスンやシルヴァーバーグやル=グィン――なかでもニューウェーブ運動に揉まれた1960年代の作品群――を好んでいたといっても、その後のSFを時事的に追っていなければ、進んでそのジャンルに言及する気は起きないというのもごく自然だと思う。だから個人的には、SFへの言及が激減したことに対し、読者や批評家がかならずしも過剰に意味を見出さなくてもいいと考えている。それでも<寓意>という手法をときに積極的に取り込んでいく村上の作品と、英語圏小説との関係を再考するためのかすかなヒントとして、若き日のこの書評は読まれうる。

※村上作品とヴォネガットブローティガン、またその作品の翻訳家たちとの関係は、邵丹『翻訳を産む文学、文学を産む翻訳』(松柏社、2022)が緻密な分析を行っている。
(初出:「カモガワGブックスVol.4 特集:世界文学/奇想短編」(2023)※許可を得て再掲

ブログ再掲にあたっての追記…「同時代としてのアメリカ」第一回では、リチャード・マシスンジャック・フィニイ『盗まれた街』といったジャンル小説にも言及している。

高柳誠『都市の肖像』(書肆山田)

高柳誠。はじめに思潮社の〈詩・生成〉のシリーズで読んだ『高柳誠詩集』の、アナイス・ニン「技芸の冬(『人口の冬』)」の引用が強く記憶に焼きついている。

愛すべきたたずまいのこの小さな本は、市庁舎、運河、天文台、競技場など名もないある都市の細部について、すべて見開き2ページで点描していく散文詩集。三つほど、書き出しだけ紹介したい。

動物園に集められている動物は、稀には絶滅寸前の種もいるが、ほとんどがすでに絶滅した種である。従ってその悉くが剝製や標本である。
「動物園」

書物は図書館の中にしか存在しない。と言うより、書物それ自体の原理からいって、図書館外では存在のしようもないのだ。

書物を読むには、よほど慎重にならなければならない。なぜなら、読むそばから文字は群れをなして飛び立ち、そのまま虚空に吸い込まれて消えてしまうからだ。従って、書物のほとんどは、その頁が空白になっている。
「図書館」

墓場は昼の間だけ市場になる。あるいは逆に、市場は夜の間だけ墓場になる。
「市場=墓場」

 

 

2024年、3月。

これまでもウクライナの人とは接する機会はあったのだけど、はじめてウクライナの青年を同僚に迎えて仕事をした。日本には7年住んでいる、と言っていて、その数字でウクライナ侵攻が始まる前に日本に来たのだとわかる。

それからおよそ10日後、ロシア人の知人と代々木公園でフリスビーをして遊ぶ。風が強くて、円盤を投げてもあらぬ方向に飛んで行ってしまうこともあったけど、春の訪れを感じさせる気持ちのいい快晴。思いっきり笑った。笑ったはずなのに、帰宅して辺りが闇に包まれると、数日前に見たロシア軍のミサイルがウクライナに、そうしたテレビのニュースがふたたび頭に去来してしまう。

体験のほうに言葉が追いつかない。

 たった十八篇を収めただけの小さな詩集『孔雀船』は、大きな不幸と幸に縄のようにあざなわれてきた。
 まず最初の不幸は、明治三九年(一九○六年)、はじめて世に送りだされたとき、その船出が題名のような華やかさには恵まれなかったことである。文語定型詩の旧から口語自由詩の新へ移動しはじめていた明治末期の詩の世界で、小さな詩集は忘却の海に沈められたにひとしかった。それからほぼ二十年後、あの気難しい日夏耿之介が「泣菫、有明に次ぐ個性あるスタイルの保持者」の名を熱烈に呼びかえす。それが幸いして、伊良子清白の名が多少は思いだされることになる。さらに十五年ほど経って、『孔雀船』が岩波文庫の一冊に加えられたのも、日夏耿之介による再発見の余勢のようなものだったかもしれない(私がはじめて読んだのもこの文庫版だった)。「漂泊」や「安乗の稚児」のようなアンソロジー・ピースは、こうしてそんなに数多くはないものの、熱心な読者に鍾愛される近代詩の古典の位置を占めることになる。

菅野昭正による平出隆『伊良子清白』の書評が読めるページ(ページの下の方)。『孔雀船』は大好きな詩集の一冊だけど、日夏耿之介が高く評価していたというのは先日会った知人が教えてくれるまで知らなかった。いや、自分が読んだ版も日夏が序文を寄せていたものだったかもしれず、とすると単に当時意識していなかったとか、単純に忘れてしまっていたのかもしれない。

詩の本をこのブログで紹介することはごく稀にしかできていませんが、日夏耿之介泉鏡花を好きな方は、『孔雀船』にもぜひ手を伸ばしてみてほしいです。

富士川 (略)だいたいラシュディを代表とするような小説というのが、どちらかというと魔術的リアリズムというんでしょうか、非常に強い物語性というものを中心に持っていて、そこにインドやイスラムの神話だとか伝説だとか、そういったものを結びつけていく。それからインドの現代史の動きなどをそこに描きこんでいく。特に『頁夜中の子供たち』という彼がブッカー賞を受賞して、世界的、国際的に知られるようになった作品なんですけれども、あれなんかが一つの典型例としてあるわけですね。

もう一つ後者の、いわゆるイギリス本土出身の若手の作家たちの特徴ですが、いろいろあるんだけれども、それを一言で言ってしまうと、イギリスの過去とか、あるいは歴史に対する関心というものが、彼らの作家活動の非常に中心的地位、役割を占めている。こうした二つの現象が、どこかで絡まり合いながら、ねじれ合いながら、イギリスの80年代の小説の主潮みたいなものを形づくってきているのではないか。そんな気がするのですが。

青山 いまおっしゃった、純潔と呼べるかどうかわからないけれども、とりあえず純潔のイギリス人の作家たちが過去に関心を持ってきたということなんですが、富士川さんの文章を読んできましたところでは、その過去への関心の持ち方というものは、ちょっと非常に変わったものですね。過去を遊んでいるというところがあります。

富士川 そうそう、遊んでいる。

青山 二つほど富士川さんが紹介したものを挙げますと、一つはピーター・アクロイドが、実在した作家、あるいは実在した建築家等をネタにして、ミステリーっぽい小説をつくっている。あともう一つ非常に面白かったのは、ヤング・フォーギー現象という、こういうふうな言葉で言ってしまうと誤解があるかもしれないけれども、一種の日本のレトロプームみたいな現象。

富士川 過去とか歴史との関わり合い方というのは、60年代頃まではわりあいと権威主義的に伝統論をふりかざしていくというのかな、重々しく見ていく、とらえていくという姿勢が濃厚だったのじゃないかと思うのですが、どうも80年代になって若い世代の作家たちが登場してきてから、過去に遊ぶというのかな、重々しくとらえていくのではなくて、過去と現在を自由自在に、ミックスさせたりシャフルさせたりして、そこに何か新しい、従来とは異質な文学空問を作り出していくという、そういう姿勢が、いま言われたようにアクロイドとか、あるいはバーンズとか、それにアンジェラ・カーターの『夜ことのサーカス』なんていう作品もそういう例の一つじゃないかと思いますけれども、そういった作家たちの作品の中に顕著に出てくるということがあると思いますね。

青山南・江中直紀・沼野充義富士川義之・樋口大介『世界の文学のいま』(福武書店、1991)所収の座談会、青山南・江中直紀・沼野充義富士川義之「移住者の文学」より。ここで富士川氏は、80年代になって出てきた“若い”作家たちの過去なるものを扱う手つきが、60年代頃までとは異質であることを指摘している。自分がこの発言を目にして直感的に連想したのは、昨今あたりまえのようにSNSでもみられるフィルムカメラ風に加工した写真や、あるヴィジュアルをピクセルアートに仕立て上げるようなモード(流儀)のことだった。

英文学者富士川氏のこの発言からはすでに30年以上が経過している。でも、息を吸うようにサンプリングを楽しみ、過去で遊ぶことができる感性は、表現者であれ受け手であれ、戦後生まれの多くの日本人もある程度持ち合わせているものなのではないだろうか。つまりこうした世代的特徴は、80年代だとか10年単位で区切られるものというよりも、ある世代より下以降に瀰漫しているようなものとして捉えられないだろうか、フライパンに落としたバターの白く薄いひろがりのように。

自身作詞を手がけるあいみょんですら、昭和後期から平成の流行語を多数盛り込んだ歌を歌っているくらいで、80~2000年代をミックスする感性はポップカルチャーの世界でも現在のところたまさかめずらしいわけではない。けれど大好きなマンガ、山田参助の『あれよ星屑』(エンターブレイン、全7巻)に新しい想像力をよろこばしくも感じた理由のひとつは、1940年代、死や陰惨のイメージとどうしても紐づけられてしまう終戦直後の焼け野原を舞台にしてこれだけ交響的なエンターテインメント巨編を描ききった部分にある(戦中の回想シーンも多分に含まれているが、舞台としては1940年代と要約してもさしつかえないだろう)。

過去の偉大なマンガ家の絵柄をも融通無碍にパロディ・サンプリングしているのもさることながら、時代のおおきな渦の只中にいながらも(ときに欲をむき出しにし)たくましくふてぶてしく生きていくキャラクターたちを見ていると、なんだか胸を打たれるのだ。有史以来、どんな時代だってヒトには健全で不健全な欲望とそれを満たすための娯楽が存在してきたにちがいない、なんてちょっぴり大げさな思索までしてしまう。

今日マチ子こうの史代など“若い”作家が戦争を扱った佳作にはこれまでも触れてきたが、『あれよ星屑』は文字通り未知の地平の向こうのそのまた向こうの星の屑を見せてくれる、精神的支柱のような一作になってくれた。

ジェレミーのいた空

ブラッドベリTimeless Stories for Today and Tomorrowで読んだ、ナイジェル・ニール“Jeremy in the Wind”。不可思議な淋しさと俳味がこころに永く残る、忘れがたい短篇です。いわゆる異色作家短篇系のアイデアストーリーとはどこかちがう味わいを感じました。マン島出身だとか、一時期伊藤典夫が集中的に読んでいたといったきれぎれの情報は入ってきましたが、その後単著を手に取ったわけでもなく、本国でいまも読まれているかなど気に留めたわけでもなく、そのままいつか物語のあらすじは忘れてしまいました。

数週間前、Times Literary Supplementのpodcastを聴いていたら、去年の9月の回がまるまるこの1922年生まれの作家を扱っていて驚きました。同性同名の別の作家がいるのかと思ったくらいですが、The Quatermass Experiment(1953)というSFテレビ番組の脚本で名を馳せているそうです。podcastの出演者はThe QuatermassがイギリスSF界に果たした役割は大きいと熱弁を振るっていますが、去年は70周年の上映イベントなども開かれたそうです。

また、気になりつつ読めていない本の一冊、『英国紳士、エデンへ行く』の作家マシュー・ニールがこのニールの息子だということも今回知りました。ナイジェルのほうはサマセット・モーム賞も受賞しているということで、興味がふくらんできます。

横書き詩を集成した、奥付を含めなければわずかに99ページの『山本陽子全集』2巻(漉林書房)。自分の詩的人生において屹立するあの「遙るかする、するするながらⅢ」を収める。「遙るかする、するするながらⅢ」は2000年代なかごろからネット上で引用が拡散し、定期的に話題になっているようにみえるけれど、このただ一篇で代表される詩人ではないと本書を読んで断言したい。「遙るかする、するするながらⅢ」が人類語からはなれゆく擬音を刻んで読者の聴覚に訴える側面が強いとすると、「あかり あかり」はその造形性の異質さでもって読者の視覚を撹乱する。一枚、引用の範囲と信じて写真で紹介してみたい。

これはあくまで部分なのだが、この詩人はまだワープロもない時代、既存の漢字を繰りぬいて創造した造語をこの詩に鏤めている。この全集で読む限り、「既存の漢字の部首だけを抜いた結果、全角ではなく半角のサイズになっている存在しない漢字」がみとめられるのだ。半角になったために、印刷上、奇妙な空白が存在している箇所もある。

あるいは、「僕」という一人称が用いられてジェンダーのゆらぎを感じさせるような不可思議な作品も数篇収められている。2010年代に再評価が進んだ帷子耀のように、一冊集成を出す価値があるとどこか初源の方へと叫びたい。