多和田葉子の『アルファベットの傷口(文字移植)』という作品は、翻訳家が主人公でかつ言語遊戯というテーマを全面に押し出した、知的な企みにみちあふれたユニークな小説である。

原稿用紙に穿たれた「O(オー)」が果てのないトンネルのような深淵になっていて主人公がその無限の空洞を垣間見るとか、「身から出た錆」ということわざを主人公が想起したまさにその瞬間にほんとうに錆が身体から流れ出し始めるとか、読者は面食らってしまう。自分は読後にネットの感想で知ったのだが、どうもドイツ語のことわざに由来する奇想もちりばめられているようで、いつかそのあたりを調べたのちに再読してみたい。

さて、多和田葉子は複数の国の翻訳家をゲストに自作を翻訳してもらうワークショップを幾度となく開いている。ことわざや慣用表現とはある特定の言語の内にしか存在しないものも多いわけで、翻訳困難にみえるものを翻訳家たちがうんうんと頭を悩ませ自国のものに置き換えていく創発的なプロセスがあるのだとすれば、社会言語学という視点からもとても面白そうな予感がする(ことわざは動物の名前を含むものも多いけど、翻訳をしたらオリジナルにはない動物が出現してしまうとか、たとえば)。

エルンスト・ユンガー『大理石の断崖の上で』(岩波書店)

フランス文学の孤峰ジュリアン・グラックに少なくない影響を与え、マンディアルグも熱愛を公言するドイツ文学の一冊(※1)。天沢退二郎も本書にはかなりこだわっている形跡がみられる。読めば読むほど不吉な精霊に身体が囲繞されていく稀有な読書体験。

雲香庵という人里はなれた小さなコミュニティに住み、「私」と弟オートは、大理石の断崖の縁に立つ図書室の二階にある静謐な植物標本室で日々植物の研究にいそしんでいる。透きとおる真鍮の光沢を帯びた鱗を持つ槍尾蛇や真珠色の蜥蜴、香りを発散する美しい花々も棲むこの庵には、他にも老女ランプーザや赤ん坊エリオといった人々が暮らして交流が生まれているが、遠方よりの〈森の統領〉による侵攻の気配は日に日に高まり、「私」たちを蝕んでいくかのようである。

グラックと比較しながら読むという誘惑に、自分は勝つことができなかった。前期グラックのある種の小説が「何か起きそうで、張りつめていって、ついには起きない」に着地していくように見受けられるのに対し、本作は「何か起きそうで、結局は起きない、と見せかけてやっぱり起きてしまう」の全面戦争に後半突入するので、前半がたとい冗長に感じられてもボロッボロの紙(1955年発行!)の小さな字に耐えて読み進めていくことをおすすめする。

全体としてみてみると、異端文学にもほどがあると思う。奇麗な情景描写の中に突如として「危機を前にすると民衆はどう動いてしまうか」ということについての洞察が挿入されたり、シンボリックな幻想小説としての側面が強いにもかかわらず舞台は完全なる架空の国ではなくしてトルコや日本が登場しナチスの影が忍び寄る。衆愚政治への警鐘ともとれる一行がふと垣間みえるかと思うと、主人公は進撃してくる敵軍を壊滅させることにほとんど性的なまでの興奮を覚える。訳者があとがきで呼ぶような意味で本書を「ヒューマニスティックな抵抗文学」として読むことはどうしたって無理があり、ただひとつの固定化された読みを拒むような不可解な傑作だからこそ、何度でも戻ってきたくなってしまうのである。

付記その1。50年代だからさすがに仕方ないと思うけど、訳文が少し古い感じがした。3時のおやつなどと言う時の「おやつ」が「お八つ」と表記しているところとか、修飾語句を「~するところの」という表現で処理しているところとか。「私がまさに彼の方を見上げようとしたその刹那、私をびっくりさせたところの歎声を聞いたのだ。こうして生命の呼吸は、胸から徐々に、私たちを深く傷つけたところの傷の方へと流れて行ってしまうのである(p.97-98)」。

付記その2。この小説の特に前半、できごとを直接書く代わりに「この時代にあっては○○なのが常だった」という表現を執拗にくり返し、その○○に不気味な挿話を挟んでいくというこのスタイルは、読者を不安にさせる技巧として小説家が読んだら参考になるところが大の気がした。

なお、本書は東京国際ブックフェアに合わせ92年に当時のままの版組(!)で復刊されている。

工作舎の「遊」で松岡正剛マンディアルグにインタビューした際に、本作について言及している。

安永知澄『ステップ・バイ・ステップ』(エンターブレイン、上下巻)

何らかのかたちで「階段が登場する」という一点だけを共通点にして紡がれてゆく連作短編集。

ためらいなく大傑作だと呼びたい、さけびたい。凡百のSF小説家を青褪めさせるような、真に圧倒的なイマジネーションの横溢。たしかな文明批評眼に裏打ちされた、異形の未来の提示。驚嘆すべきなのは、箍が外れたかのようなこれら狂気すれすれの綺想が〈目的〉としてではなく、わたしたちの時代における人間存在を探求するための誠実な〈手段〉として各エピソードの内側で作用していることだ。全人類がともに笑顔で手をつなぎ、階段を登りながらそのまま地球の外に飛び出してしまう表題作などはホントにすごい。

2009年刊の旧作ではあるけれど、普段マンガを手に取らない人にも読んでもらいたい素晴らしい一作だと思います。

 

アンダーカレント

中村融さんのinformativeなブログ、SFスキャナー・ダークリーを見返していてうなってしまった記事。

sfscannerdarkly.blog.fc2.com

共編者の山岸真氏にも秘密にしていたが、河出文庫の『20世紀SF』の裏テーマとして「逃避としての幻想の意味を幻想小説の形式で追求した作品」を入れていくという方針があったという述懐。ゼナ・ヘンダースン「なんでも箱」、ジーン・ウルフ「デス博士の島その他の物語」、ジェフ・ライマン「征たれざる国」……。自分は通読していない巻のほうが多いので驚いた、という資格があるかはわからないけど、この伏流についての指摘は「言われてみれば!」と驚いてしまった。

自分の鍾愛する伊藤典夫編『ファンタジーへの誘い』(講談社文庫)は「SF作家によるファンタジイ」を集めたというのが表向きのコンセプトなのだが、訳者あとがきの最後の一行に至ったときにおおきく目を見開いた記憶がある。そこには、「懐疑派」の読者に向けたアンソロジーであるということがはっきりと言明されているのだ。エムシュウィラー「順応性」、ディック「この卑しい地上に」、オールディス「不可視配給株式会社」、セントクレア「街角の女神」……全作品にあてはまるとは思わないけど、哲学的なエッセンスに満ちた作品や、主人公がある種の懐疑を抱きながらどこかを彷徨するような作品が多いようにたしかにみえるのだ。

社会幻語学の三歩手前で

中国語圏における日本のSF小説やアニメ・マンガ紹介における文脈で、「脳洞」という言葉はずいぶん目にする機会が多い気がする。完全にはニュアンスを理解しきれていないのだけど、「脳内補完を行う場所」、ひいては「脳内にすさまじいイマジネーションが横溢している様をも表す」といったところだろうか。

中国の雑誌「知日」の弐瓶勉伊藤計劃、ひいては大森望までをもフィーチャーした特集号のタイトルも「脳洞」だし、台湾の誠品書店が発行しているプレス「提案」における逆柱いみりを紹介する記事においてもこの語が使われていた。さて、トピックはわずかに飛ぶが、日本文学翻訳家のジニー竹森さんが村田沙耶香のとある作品を訳した際には「脳みそが爆発しそうになった」そうである(辛島デヴィッド『文芸ピープル』)。ひとは凄絶かつ異様なる奇想を眼前に現出されると、それを造った(あるいは見せつけられた)ヒトの脳にもやっぱり意識が向いてしまうものなのだろうか。ホモ・サピエンスに干杯(カンペー)!

2017年にハーバード大学で開講されていたGirl Culture, Media, and Japanという授業のシラバスが公開されていて、コース説明だけでも無茶苦茶におもしろい(→Link)

まずコース通しての教科書はOptionalを除くと岡崎京子『Pink』、吉本ばなな萩尾望都吉屋信子嶽本野ばら下妻物語』。

センセイによってディスカッション用のトピックが定期的にアップされていたのだが(各週のa discussion post参照)、その中には「マリア様がみてる」(アニメ版)、尾崎翠第七官界彷徨」、大島弓子綿の国星』などが登場。ずば抜けてオモシロいと思ったのは、以下のdiscussion question(引用内のさらに引用は『Pink』の作者あとがき)。

In her Afterword to Pink, the author Okazaki Kyoko refers to the manga as a story about “love” and “capitalism." How do you think the story of Yumi in Pink connect love, capitalism, work and prostitution?   Here's an excerpt from the Afterword: This is a story about the everyday life and adventures, the “love” and “capitalism” of a girl who was born., raised and “normally wrecked (like Zelda Fitzgerald?) in a boring town called Tokyo. . . All work is prostitution. . And all work is love as well. . . “Love” isn’t that tepid and lukewarm thing people like to talk about . . . It’s a tough, severe, scary and cruel monster. So is “capitalism”. But its lame to be just spooked by them . . . . If you just fearlessly dive in, strangely enough you can swim all right! . . . The difficulty of leading a “normally” happy life plagues everyone in present-day Tokyo. But me, I’m not afraid of “happiness”. Because I’m a Tokyo gal through and through.

単行本『Pink』の帯に大きく印刷された「愛と資本主義」という文句のインパクトは今も強烈だと思うけれど、この質問はつまり、この惹句の意味を学生に考えさせようというのである。なおこの授業は、コース説明に「No prior knowledge of Japanese language or history is expected.」とあるように日本の現代史の知識は前提としていないもよう。

さらにひとつ、画面を眺めていてニヤリとしてしまったこと。コース後半の成績評価については、学生はエッセイか創作かを選ぶことができる。ここでシラバスにおいて、創作の方を選んだ生徒に対して「a creatively hybridized girl fiction(ハイブリッドな少女小説)」の好例として森奈津子の怪笑ジェンダーSF「西城秀樹のおかげです」が紹介されている!この授業、学生たちのバックグラウンドの違いはあっても、活溌な議論の絶えない楽しく濃やかな時間であったにちがいない。

海をあつめる

とあるスカイプ中国語会話の先生(日本在住、日本語学校で学んでいる)のプロフィールを見ていたら、こんな部分が目に留まった。「日本の好きなところ」という欄があるのだけど、こんな風に記されている。

「日本の好きなところ:海が見えるところ」

特にどうということもなく通り過ぎてしまいそうな所だけど、瞬間、自分が思い出したのは最近読んだ本にあったこんな箇所だった。(『在日本 中国人がハマった!ニッポンのツボ71』潮出版社)

「内陸部の占める割合が大きい中国では、海は日常的な風景ではない。だから「海を見たの? どうだった??」「うーん、意外と普通だった」なんて会話をよく耳にする。」

「海ってどうだった?」。

ここから振り返ってもう一度先の言葉をみてみると、「海が見えるところ」というのは「海が見える場所」と「この国では海というものを見ることができるという事実」のふた通りに解釈できるような気がしてくる。「日本の好きなところ」という質問のことばの意味はふつうは「好きな場所」じゃなくて「好きな側面」ということだと考えられると思うのだけど、この人は中国では内陸部に住んでいて、大人になって日本に来て初めて海をみたのかな。そしてそういう人は、あんがい他にもたくさんいるのかな、などとなぜか大陸に想いをめぐらせてしまう休日の午後。

「秋刀魚」32号(2021年)(特集:「台日彼女AB面宣言」)

我第一次看到這本的雜誌是通過「本の未来を探す旅 台北」,現在我正滿懷期待著下一期的雜誌。

我只去過台灣兩次度假,但我認為2021年第32期的“台日彼女AB面宣言”是一個前所未有的精彩專題。通過戰後日本戲劇中對女性的表現來追溯女性在社會中地位的變化,這些文章非常有啟發性,值得翻譯成其他外語,一些雜誌,如“She is ”, 就是通過這個專題介紹給我的。該雜誌沒有專注于單一的體裁,如文學或漫畫,或將每篇文章的方向簡化為單一的原則,而是拋出了女性的存在。我覺得這是一本真正雄心勃勃的書,因為它揭示了婦女的存在,她們很少被照亮,儘管她們站了總人口的一半。

正如該雜誌所說,在日本,性別不平等仍然存在,但當你讀到一本充滿如此激情的雜誌時,你會感到遠方的鼓勵。由於疫情我不知道下次什麼時候能去台灣,但幸運的是東京的内山書店和東方書店都有“秋刀魚"的庫存,所以我想等它從台灣運來時再去買。

テクノロジーが人間の意識に与えるインパクトについて、何かを撃ち抜くかのように言い当てているように思える作品。『ヘルタースケルター』はインターネット以前に描かれた作品なのに、インターネット以後の女性消費のある側面について既に批評しているように読めてしまう。

伊藤計劃『ハーモニー』

J・G・バラードの短編群および『クラッシュ』

テッド・チャン「偽りのない事実、偽りのない気持ち」

岡崎京子ヘルタースケルター

綾門優季『天啓を浴びながら卒倒せよ』

普通、「私は〇〇は嫌い」という言い方からはさほどの生産性は期待できないことが多い。けれど、場合によってはそれが作家にとってのほとんど明快なマニフェストとして作用することがある。たとえば三島由紀夫ブラッドベリを「ひよわな感性を売り物にした三流詩人」とかつて呼んだ。あるいはドイツ語で書く多和田葉子は「コミュニケーション」や「インフォメーション」といった英語を嫌う。でも後者なんかは、わが国における「コミュニケーション能力」などという言葉の空疎な流布のありようを考えると個人的にはちょっと面白いと思う。

折にふれて聞く「オーストラリアでは選挙で投票をしないと違法になる」という文化の違いについてちょっと知りたくなって、竹田いさみ・森健・永野隆行編『オーストラリア入門』(東京大学出版会、第2版刊は2007)。「投票手続きを理由なしでおこたれば20ドルの罰金(本刊行時のデータ)」、「制度が導入された時には投票率が58.0%から91.3%に跳ね上がった」など興味深いデータが満載。しかし、オーストラリアではごく一部の例外を除き文字通りすべての候補者にひたすら「優先順位」をつけていくというシステムが採られていて(詳しい仕組みは本を参照)、これが結果として労働党保守連合の二大政党の維持、強化につながっているとの解説もあって面白い。やっぱり内側から眺めてからこそわかる問題点もあるはずで、「若者の投票率も低いんだし、日本も強制投票制にすればいい」という見方に同意できるかどうかはたぶん別の問題。

ほかに、オーストラリアは国土が広大で僻地が多いからこそ事前投票やリモート投票が整備されているという話などもなるほどと思ふ。

マンディアルグの翻訳というと生田耕作澁澤龍彦のイメージが一般的には強いが、1950年代の前半から大濱甫 (シュオッブの翻訳家で礒崎純一氏の先生としても知られる)がすでに「三田文学」「文藝」などの雑誌に訳している。1953年の「三田文学」に訳された「クロリンダ」(おそらくこの作家の初邦訳)は昔図書館で現物を読んだのだけど、かなり短い作品だし、白水uブックスで読める作品と同一のものだったと記憶している。50年代の雑誌なので、もちろん紙は黒くてほろほろ。

ただ、たとえば皆川博子岸田今日子(ともに1930年生)であればひょっとしたらその頃からすでに読んでいたのだろうか、などとふと想ったりもする。その可能性の低さそのものは問題ではなくて、たのしむための気まぐれな空想として。岸田今日子の最後の短編集『二つの月の記憶』は薄くても深い余韻を残すとてもチャーミングな本だと個人的に思うけど、マンディアルグのとある本がかなり印象的な場面で登場するのだ。

日韓の名字の比較

「ことばと文化の日韓比較」という副題の付された任栄哲、井出里咲子 『箸とチョッカラク』(大修館書店)。この中で日韓の名字を比較するコラムがあって、「金」「李」「朴」が韓国の名字では多数を占めるというのは本を読む前から知っていたけど、韓国の名字は286種、日本では13万種あると具体的なデータが示されていて目からウロコ。ちなみに中国はおよそ3500種とのこと(上記、すべて本が刊行された当時の数字)。

韓国の名字は一字がほとんどというのはなんとなく把握していたけど、二字はごく少数、三字以上は「そもそも存在しない」というのも知らなかった。そのため、韓国の人が「金田一春彦」というような日本の名前に出会うと、場合によっては「かねだ・いちはるひこ」と区切って読んだりもしてしまうそうな。ところでこの文章を見ているみなさんは、四字、五字以上の日本人の名字をどのくらい思いつきますか?

最近「え、この作品、英訳あるの?」と驚いたのが尾崎翠の「第七官界彷徨」。

「MONKEY」(英語版のほう)vol.1の巻末には、「Why hasn't this been translated?」という名の、未訳の日本文学について数人の翻訳家が紹介するコーナーがある。ここで尾崎翠第七官界彷徨」が取り上げられているのだが、公式サイトから目次だけを見た場合、未訳だと思ってしまうのは自然ななりゆきだろう。しかしこれ、紹介者も言明している通り、書籍のかたちで刊行されていないだけでReview of Japanese Culture and Societyという学術誌の27号(2015)に全体が訳出されている。だからこのWandering in the Realm of the Seventh Senseについては、「なぜこの作品は本のかたちで刊行されていないのか?」と言っているにひとしいわけである。